彼女が愛したこの世界を
彼女は、この世界を愛していた。
けれどもぼくは、この世界が大嫌いだった。
「この世界は腐っている」
「そんなことないわ」
「この世界は汚い」
「この世界はきれいよ」
ぼくの言葉をやわらかく否定して、彼女は聖女のような微笑みを浮かべた。
だけど、ぼくは頑なにそれを否定する。
「この世界は汚れている」
「そんなことないわ」
「この世界は醜いものばかりだ」
「それはあなたがフィルターをかけてこの世界を見ているからよ」
「そんなことない」
「フィルターを外してみれば、きっとこの世界はきれいに見えるはずよ」
この世界がきれいだなんて嘘だ。それこそ、彼女がフィルターをかけて世界を見ているだけ。彼女の主張は、ぼくには理解できない。
「ぼくは、この世界が嫌いだ」
「わたしは、この世界がすきよ」
「だってこの世界は、こんなにも腐っている」
「だってこの世界は、こんなにもきれいだもの」
互いに譲らず、主張は平行線をたどる。ぼくと彼女が交わることは、きっと永遠にないのだろう。
「この世界は汚い」
「この世界はきれいよ」
「どうして。現にぼくというこんなに穢れた人間がいるじゃないか」
もしも世界が真っ白な一枚の紙なのだとしたら、ぼくはそこにぽたりと落ちた一滴の墨汁だ。まさに汚点とでも言うべきもの。たったそれだけで、世界は汚いものに変わる。だから、ぼくには理解できない。
しかし、彼女はまた笑った。すべてを包みこむように、やさしく、穏やかな笑みを浮かべたのだ。
「いいえ、あなたがいるからこの世界はきれいなのよ」
「……意味がわからない」
「この世界はとてもきれいよ。わたしにはそう見える」
「どうして」
「大切な人がいれば、人は幸せになれるでしょう? 大切な人がいれば、世界は輝いて見えるわ」
まるで愛する人への告白をするように、彼女はこちらを真っ直ぐに見据えながら先を続けた。
「わたしは、あなたがいるから幸せになれる。あなたがいるからこそ、この世界がきれいに見えるの。だから、わたしはこの世界がすきよ」
歌うようにささやいて、やはり彼女は笑った。今度は、その年相応の女ノコのような笑みだった。
大切な、人。ぼくがいるから、彼女の目には世界が美しく映り、それを愛することができる。それを理解できるかどうか、今のぼくにはわからなかった。
「……この世界は、汚い」
「この世界はきれいよ」
「ぼくは、この世界が嫌いだ」
「わたしは、この世界がすきよ」
「ぼくは、」
「あなたがこの世界を嫌いだって言うのなら、わたしがあなたの分までこの世界を愛してあげる」
ふわり、彼女はやはり微笑む。どこまでもきれいで、どこまでも穢れのない笑みで。
(大切な人がいれば、世界は輝いて見えるわ)
いつか、ぼくにも理解できるだろうか。彼女が愛したこの世界を、ぼくも愛することができるようになるだろうか。
そんなぼくを導くかのように、彼女はいつまでも微笑んでいた。




