ゆるやかな非常事態
「先輩って、すきな人いるの?」
「はい?」
そう尋ねてきたのは、わたしのトナリを歩いていた部活の後輩だった。
「何ですか? いきなり」
「んー、ちょっと気になったから」
一つ年下のくせにタメ口なのは気にしない。だって、わたしも一つ年上のくせに敬語を使っているのだから、お互い様といったところだろう。
そもそも、彼はわたしよりも背が高く、大人っぽい顔立ちをしているので(彼にはわたしが童顔なだけだと言われたことがあるが)、ハタから見たらわたしのほうが年下だと思われているに違いない。
「で? どうなの、そこんとこ」
「何がですか?」
「だーかーら、すきな人がいるのかどうか」
ああ、そのことでしたか。すきな人、ね。
好奇心に満ちたカオでこちらを見つめる彼から目をそらし、わたしはぼそりとつぶやいた。
「……います」
「へえ、そうなんだ。誰?」
「う、えっ!?」
「え?」
いる、と素直に答えてしまったのが運のつきだろうか。さらに突っ込んだ質問に、わたしは奇声を上げてしまった。
「俺、何か変なこと言った?」
そのせいで、少し困ったように眉を下げた彼が、ひょい、とわたしの顔をのぞきこんでくる。真剣な表情にほだされそうになってしまうけれど、すきな人が誰か、なんて、この後輩にだけは言えるわけがない。
そこで、わたしはコホン、と一つ咳払いをした。
「そ、そういうあなたはどうなんですか?」
「え? 何が?」
「すきな人、いるんですか?」
わたしだけ聞かれるなんて卑怯だ。ここはフェアにいかなくては。
すると、彼は数秒間をおいたあと、
「いるよ」
と、あっさり言い放ったではないか。へえ、そうですか。すきな人、いるんですか。
「ちなみに、誰ですか?」
何だろう。自分から聞いたくせに、どこか気分が落ちている自分がいる。胸がもやもやして、ちくちくする。
「うーん、先輩が教えてくれたらいいよ」
「はい?」
「そしたら俺も教えてあげる」
首を傾げたわたしに対して、にこっと無邪気な笑みをよこす彼。そんなの、ずるくないですか? どうしてわたしが先なんですか。
「え、と……」
わたしもわたしだ。どうして彼の言いなりになって、先に言おうとしているんだろう。わたしはまず文句を言いたかったはずなのに。
――でも、これはチャンスなのかもしれない。
そう思って意を決し、ぎゅっと目をつぶって口を開こうとした――そのとき、
「先輩、」
トナリにいたはずの彼の声が、目の前で聞こえた。びっくりして目を開けると、わたしの唇に何かあたたかいものが触れ――
「!?!?!?」
「あははっ、先輩、顔真っ赤だよ?」
「あ、あなた今、ななな何して……っ」
「何、ってキ」
「いいい言わなくていいですっ!!」
どうしよう。上手く頭が回らない。今、何でわたしは彼にキスされて――
「俺のすきな人はね、先輩だよ」
「、え」
「先輩のすきな人は誰?」
とても穏やかな声だが、脅迫めいたニュアンスを感じるのは気のせいだろうか。何もかも見透かしたような余裕の笑みが、とても憎たらしい。
「……わかってるんでしょう?」
「さあ? わかんないなあ」
「――っ」
しらじらしく肩をすくめ、にこり、と笑う彼に対抗する術を、わたしは知らない。




