世界に埋もれるぼくの日常
「やあ君、元気かい?」
放課後の誰もいない教室――正確には、ぼく以外誰もいない教室で帰る支度していると、突然声をかけられた。振り向けば、ドアのあたりに人影が見える。
「……うん。元気だよ?」
質問の意味はよくわからなかったけれど、ぼくに向かってされた質問だということは明らかだったので、とりあえず答えてみた。
しかし、その声の主――彼とぼくはただのクラスメイトであって、特別親しいわけではない。もちろん声をかけていけないということはないが、どうしていきなり、しかも帰るときになってそんなことを聞いたのだろう、という疑問は残る。
すると、
「ホントウ、に?」
「え?」
再び投げかけられた意味のわからない質問に、どういうこと? と問おうとすると、彼のほうが早く口を開いた。
「ぼくにはとても君が元気そうには見えなくてさ」
「ど、こがぁ? ぼくはこんなに元気なのに、失礼だなあ」
「そうだね、確かに元気そうだ。――表面上は、ね」
「、え」
にやり、彼の唇がゆるやかな弧を描き、その目は真っ直ぐにこちらを見つめていた。ぼくにはやましいことなんて何にもないはずなのに、その瞳ですべて見透かされているような気分になってしまう。
ぼくの心臓が早鐘を打ち始める中、彼はゆっくりと先を続けた。
「ねえ、君。ホントウのことを言ったらどうだい? 心の中は元気じゃないんだろう?」
「え、ええー? そんなことないよ?」
ごまかすようにへらっと笑ってみせると、彼は問い詰めるような口調でもう一度こう言った。
「ホントウ、に?」
彼は、何を言っているのだろう。そんなことを言われても、ぼくはこんなに元気だというのに。
「ていうか何でそんなこと聞いてくるの? ぼくと君ってそんなに親しいわけではないよね?」
「親しくなかったら、聞いちゃいけないのかい?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
こちらを真っ直ぐに射抜く彼の瞳がこわい。今すぐにでも逃げ出したいはずなのに、それはぼくをしっかりと捉えて離さなかった。
「ぼくにはね、君のその笑顔が、言動が、すべて作りモノにしか見えないんだよ」
「何、言って……」
「そうやって偽りの自分を作って、うわべだけの付き合いをして、むなしくはないのかい?」
彼は薄い微笑を浮かべながら、コツコツと足音を立ててこちらに歩いてきた。そして、
「そんなに人に好かれたい? そんなに人に嫌われるのが、こわい?」
「――っ!」
刹那、ガタン、と大きな音がした。それと同時に息苦しさを覚える。
苦しい。息ができない。比喩ではなく、ホントウに。
「う、ぐ……っ」
ぼくの後ろには、床。つまり、ぼくはさっきの大きな音とともに床に押し倒され、今、彼に首を絞められているのだ。
「息苦しいかい? ううん、『生き苦しい』んだよね」
独り言のようにささやいて、ぼくの首を絞めていた手をゆるめる彼。そのおかげで空気が身体の中に入ってくる。大きく息をしながら、ぼくは酸素のありがたさを改めて感じた。
「かはっ、……っは……」
「平凡な日常に埋没されて、世界と同化して生きる。それは一番いい生き方だけど、同時に悪い生き方でもある。だってそれは、ただ流されているだけなんだから。そこに『自分』というものは存在しないんだ」
それは、ぼくに対しての言葉なのだろうか。つぶやくように言葉を紡いだ彼の声には抑揚がなく、とても冷たく感じられた。
「偽りの自分を世界に埋没させて生きている君を見ていると、昔の誰かを思い出すんだよね」
どこか自虐的な笑みを浮かべ、彼は教室を出ていった。
未だに肩で息をするぼくの耳に入ってきたのは、夕暮れの静かな廊下に響く彼の足音と、自分の呼吸。
「……っ、何で……っ」
ぼくの心をすべて見破って。ぼくにどうしろっていうんだ。
ああ、明日からは、上手く笑えそうにない。




