孤独な天使のゆくえ
彼女には、神様がついていた。
「わたしは神様ではありません。わたしは人間です。人間は罪深い生き物です。だから、わたしは神様になることなどできません」
頭脳明晰、容姿端麗、品行方正。誰よりも気高く、誰よりもやさしく、誰よりも美しい。彼女はそんな人間だった。
そんな彼女を見て、誰かが言った。あなたは神だ、と。それを聞いて彼女は微笑み、静かに答えた。わたしは神様ではありません、と。
彼女は誰よりもやさしかったけれど、誰もが近づけるわけではなかった。むしろ、周りの人間のほうが距離を置くことのほうが多かった。
そんな彼女に唯一近づくことのできる人物――それが彼だった。彼は、彼女が唯一心を許した人間だった。
わたしもほかの人から見れば、それなりに彼女と親しい人間だったと思うけれど、彼とは確実に違った。そう、彼は「特別」だった。
みんなはわたしたちを「特別な人間」だと言い、どうやって彼女と親しくなったのかを尋ねてきた。だけど、わたしたちは「特別」なことは何もしていない。そう答えると、誰もが怪訝そうなカオをした。
彼女は「特別」なことを嫌う。だから、彼女のことを神だとかそれに近い人間だとか言う人は、彼女と決して親しくなれないのだ。
彼女をただ一人の人間として見て、扱い、接する――それこそが彼女と親しくなるたった一つの正しい方法だった。
* * *
ある日、彼が死んだ。突然の事故だった。
その日から、彼女は変わった。作り笑いが多くなり、ほかの感情もすべてが作りもののように見えた。あまりに突然すぎる最愛の人の死は、彼女を人形にしてしまったのだ。
* * *
それからどのくらい経っただろうか。突然彼女がわたしの家を訪れてきた。驚きながらも部屋に上げ、淹れたてのコーヒーを差し出す。
それを一口飲んだ彼女は、ふう、と息をこぼしたかと思うと、はっきりとした口調でこんなことを告げた。
「世界はもう終わりだわ」
「え?」
わたしは自分の耳を疑い、持っていた自分のカップを落としそうになる。
「それ、本気で言っているの?」
「ええ」
わたしの問いかけに、力強くうなずく彼女。もしそれが本当なら、きっと明日にでも世界は滅ぶに違いない。彼女の言葉は予言だ。彼女が言ったことは、すべて現実となる。
「でも、きっとあなたの考えているようなことにはならないわ」
彼女はわたしの思考を見透かしたように苦笑した。
「どういうこと?」
「確かに世界は終わる。でも、それは『わたしの世界』のこと。彼が死んで、『わたしの世界』は終わったの」
ああ、そういうことか、と安堵が胸に広がる。
だけど、
「わたしには、理解できない。世界は残酷なくらいに薄情で、大切な人がいなくなっても廻り続けているわ」
「ええ、確かに世界は今も廻っている。だけど、『わたしの世界』は廻るのをやめ、崩壊したの」
これまでの短い会話で、何となく彼女の考えていることがわかった気がした。自分の世界が崩壊してしまった彼女は、この世界に存在する必要がないのだ。そう、彼が死んでしまったこの世界には、彼女が生きる意味がない。
だけどどうして、そんなに恐ろしいことを言っているにもかかわらず、彼女はぞっとするほどキレイに微笑んでいた。
「ありがとう。最後にあなたと話がしたかったの」
歌うようにささやいた彼女は今までで一番やさしい笑みをこちらに向け、流れるように立ち上がった。
「今まで本当にありがとう。あなたの淹れるコーヒーはとてもおいしかったわ。どうかお元気でね。――そして、さようなら」
穏やかにそう告げて、彼女は静かに部屋を出ていったのだった。
ああ、あなたは彼のもとへ逝ってしまうのね。止めてもムダなのはわかっていたし、わたしに止める権利などないこともわきまえていた。
でも、ねえ、気付いていた? わたしにとっての『彼』は、あなただったのよ。わたしの大切な友人――神に近い人。
きっとあなたのことだから、死体なんて残さずに、人知れずひっそりと、キレイに死ぬんでしょうね。消えてしまったと言ったほうが正しいかしら。
そうしたら、真実を知っているのはわたしだけ。ああ、あなたは神よりも悪魔に近い人間かもしれないわね。わたしにこんな呪いをかけていくなんて。
神に近いあなたでも、これだけはわからなかったかしら。あなたが死んだら、今度は「わたしの世界」が崩壊するってことを。
「――さようなら」
わたしの口からこぼれた別れの言葉は、彼女に向けたものだったのだろうか、それとも、この世界に対するものだったのだろうか。




