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家出

作者: 黒井白人

二作目です。

自分的には前回よりもいくらか成長できたかなと思います。それでも、未熟なことにはかわりありませんが暖かい目で見守っていただけると幸いです。


「……わがはいはヌイグルミである。なまえはコロぞう。どこでうまれたのか、とんとけんとうがつかぬ」

「工場で、だろ。ったく、頭いいのか悪いのか分からないことすんなよ」

「……だって、まえからほしかったヌイグルミがてにいったんだよ。ひばいひんだからおみせじゃかえないし、いんたーねっとはむずかしいし」

「で、俺に泣きついてきたと?」

「……いっえーい」

 カラスの鳴き声が響く夕暮れの遊歩道で、幼馴染である桜木美音が先ほど俺がゲットしたファンシーなデザインの特大クマヌイグルミをぶんぶん振り回して喜んでいる。周りに人がいないからいいようなものの、本当なら俺がこいつの奇行を止めないといけないんだよな。ま、だからこの遊歩道を通って帰っているんだけど。昔からなぜか、この遊歩道は人の通りが少ないことで有名だから(一部には)。

「……さっすがげーむせんたーがよいいのひまじんだね」

「一言多いんだよ、お前は」

「……こわーい」

 肩のラインで切り揃えられた髪を揺らしながらスキップ気味の小走りで先を行く美音の後ろを、俺は緩慢な動作でついていく。

 十メートルも行かないうちに、制服のポケットの中で携帯電話が震えだした。

「……ん?」

 十秒ほど遅れて気付き、携帯を取り出して開く。級友からのメールだった。

「『今夜、遊びに行ってもいい?』……なんだこりゃ?」

 まあ、遊びにくるくらい別にいいか。俺は美音に確認をとるなんていう面倒な手続きを省いて、独断で携帯を操作しメールを返信する。

「あっ、返ってきた」

 一分と待たずして、返信が返ってきた。

「『じゃあお泊まりセット持っていくね』……お泊まりセット?」

 意味不明な文面に、俺の頭の中に疑問符が浮かぶ。いや、文章の意味自体は理解できるが、なにゆえ宿泊するつもりなのかがイマイチ推し測り難い。まさか、家出でもするつもりじゃないだろうな。

 俺が級友からのメールに頭を悩ませていると、いつの間に戻ってきたのか、美音が横から携帯の画面を覗き込んできた。

「……どーしたの?」

「ああ、今夜お前んちに遊びにくるってさ。別にいいだろ?」

「……いいよ。こんやはおとーさんもおか―さんもうちにいないからさみしいなっておもってた。ちょうどよかったよ」

「おじさんはよくいなくなるけど、おばさんまでいないの?」

「……そうだよ。きょうのあさからおともだちといっしょににはくみっかのおんせんりょこうだって。おとーさんはいつも通りだよ」

 だったらなぜ俺に一声かけない。こいつ一人だけで留守番なんて無謀もいいとこだ。爆発オチが透けて見える。家がいくつあっても足りやしないぞ。

「そういうことなら、俺もお前んちにお邪魔していいか? お前、料理……というか家事全般できないだろ」

「……うん、いいよ。おいしいごはんよろしく」

「あいよ。任せとけ」

 遊歩道を抜け、相変わらずやかましいカラスの鳴き声を聞きながら住宅街の路地を歩いて行くと、我が家がある。その真向かいに美音在住の桜木宅はそびえていた。

 それほど大きくはないけど、俺んちよりは立派な家だ。

 俺と美音はそこで一旦別れ、それぞれに玄関の戸をくぐる。


          2


 ほどなくして、俺は桜木宅の門戸を叩いた(本当はインターホンを押しただけ)。そしてすぐさま玄関を開けて中に入る。余談だが、幼い頃母親にこっぴどく怒られて以来、自分ちでも他人んちでも家に上がるさいはきちんと靴を揃えるようにしている。

「おーい美音。来たぞー」

 家の中に向かって呼びかけるが、返事はない。まあわりとよくあることなので慌てずにいつも通り対処すればいいだけだ。

 なるべく足音を立てないよう気をつけながら、二階へと続く階段をのぼる。すると三つの扉が目の前に現れたので、一番手前の扉のノブを掴んで回す。

 中に入ると、まず目に飛び込んできたのは溢れんばかりに部屋中を覆い尽くすファンシーなヌイグルミの数々だった。タンスや机、窓枠や鏡台なんかにも置かれたヌイグルミの数はざっと見まわしただけでも三百はある。そのうち二百程度が俺が趣味でやっているクレーンゲームの景品だ。残りはどこから調達してきたのか、いつの間にか増えていた。

 美音の幼馴染をやっていればこんな物を目にすることなんか何度もあった。だから、今さらこの光景を見てもなんとも思わない。思わないが……

「いつ見てもメルヘンだな」

 昔から変な奴だとは思っていたが、いよいよもってこいつの変人度が高まってきたらしい。もはや俺の手に負えるかどうか怪しいものだ。

 俺はピンク色のベッドの上でロールキャベツ状に丸まっている布団の塊を見下して、その布団を引っぺがしにかかる。

「おら起きろ! 寝るにはまだ早いぞこら!」

「むにゃ……あとごじかん……」

「そんなに寝たら夜眠れねえだろうが! いいから起きろ。飯の支度すっから手伝え」

 美音のくるまっていた布団を引っ張る。すると美音がくるくると丸太のように転がって再び枕に顔を埋めた。

「……すやー」

「寝るなっつってんだよっ!!」

 なんとか美音を夢の世界から引き戻し、二人して美音の部屋から退室する。

「んじゃ目覚しがてら晩飯の買い物にでも行こうぜ。なに食いたい?」

「……ねむい。なんでもいい」

「それじゃ困るんだけどなぁ……」

 俺は寝ぼけ眼な美音を見つつ、頭を掻く。なんでもいいって言って、野菜料理とか作ったらスゲー文句言うんだよな。……そうだな、じゃあ無難にカレーでいいか。来客もあることだし。

「……あっ、まんかんぜんせきたべたい」

「……せめて俺が作れる範囲で言ってくれ」

 げんなりと肩を落とす俺をどう思ったのか、美音が優しく肩を叩く。いちおうは励ましてくれていることにほんのり涙する。誰のせいだと思ってやがるこの小娘!

 その後俺達は靴を履き、玄関から外へ出る。俺は一度着替えたので私服だが、美音はしわくのちゃの制服のままだ。本人が気にしてないようなので、俺は気にしない。

「んじゃ行こうぜ」

「ん……」

 ぺったんぺったんとサンダルを鳴らしながら、美音が俺の後についてくる。

 商店街に繰り出すと、美音の俺への密着度が家を出た時とは比べ物にならないくらい増す。この密着具合に最初はどぎまぎしたが、最近じゃ別に何とも思わなくなってきた。

「……にんげんがいっぱい」

「当たり前だ、商店街なんだから。とっとと必要な物かって帰るぞ」

「なにつくるかきまったの?」

「カレーでいいかなって思ってる」

「かれー……ぶなんだね」

「……うっせ」

 雑談を交えながら、カレーに必要な食材を買って行く。タマネギ、牛肉、ジャガイモ、ねずみのヌイグルミ、ニンジン。

「なんかカレーに必要ないものまで買ったな」

「……だって、ほしかったんだもん」

 胸に可愛くデフォルメされたねずみを抱えながら、美音が拗ねたように唇を尖らせる。別に怒っているわけではないのだが、その辺りは伝わらなかったようだ。意思伝達のツールとして、俺の語彙力はまだまだ未発達なのであった。

 口元をへの字に曲げたまま、さっき買ったねずみを弄ぶ美音を横目で見ながら、商店街のアーチを潜る。

「そういや、あいつもう来てっかな?」

「……あいつ?」

「いやなんで疑問系? なんか今日泊まりに来るって言ってたじゃんか、お前んちに」

 ねずみを弄る手を休めないままに首を傾げる美音に、俺は若干呆れながらも必死に思い出させようと試みる。まあ名前言ってもいいんだろうけど、なんとなくそれは嫌だ。

 そんな理由で、帰りの道程はそのほとんどを今日泊まりに来る客人当てゲームで費やした。

 ………………。

 …………。

 ……。

 そして桜木宅門前。

 俺は塀の上で丸まっているおそらくノラと思われる三毛猫とじゃれていた知り合いと遭遇する。その光景は一見すれば高校生くらいの猫好きポニーテール少女が、そのあまりの可愛らしさに思わず手を伸ばしているだけのようにも見えないこともない。だが、それにしてはあまりにも不自然な物が彼女の足下に存在していた。小型のブラウン管テレビなら楽に収納できそうな大き目のキャリーケースだ。

 あれが、あいつが言っていたお泊まりセットか……。

 俺の横で、美音がねずみの手? を使ってポニーテールがいる辺りを指し示す。

「……ねえ、あれ」

「ああ、わかっている。わかっているともさ」

「……そう」

 ちらりと美音を見ると、口端をゆるく吊り上げてだらしない笑みを浮かべていた。

「……にゃんこ……かわいい」

「そっちかよっ!」

 俺は思わず声を張り上げて叫んだ。俺の声に驚いたのか、三毛猫とポニーテールが振り返える。そこでようやく気付いたらしく、ポニーテールの表情に猫とじゃれていた時とは別の安堵の笑みが広がる。

「ああ、美音ちゃん!」

 ポニーテールが駆け寄って来てひしと美音に抱きつく。美音は抱きつかれた時の勢いに逆らうこと無くその場で転倒した。

「ああ、美音ちゃん大丈夫?」

「……ん、へいき」

 ねずみのヌイグルミがいい感じにクッションになってくれたらしく、美音にはまったくと言っていいほどダメージを負った様子はない。

 ポニーテールに手を借りながら、ねずみを抱えて立ち上がる美音の頬肉が弛緩しているを見てとり、俺の表情も思わず緩む。

 本当に変わったな……美音。

「……ところでこまちちゃん。なんでうちのまえにいるの?」

 小さく小首を傾げるという小動物チックで可愛らいい仕草と共に、目の前にいるポニーテールに質問する美音。ポニーテールの方はあれ? ちゃんと連絡したはずだよねとでも言いたげな面白い顔で俺を見る。俺は一つ、溜息を吐いて、

「ちゃんと言っただろ。なんか知らんが泊まりに来るって。美音、お前聞いてなかったのか?」

「……うん」

 美音が悪びれることなく頷いた。俺は内心怒りの火が灯り始めたが、なんとか自分で鎮火する。十年以上美音と付き合っていれば、感情のコントロール法くらい簡単に身に付いてくる。

「……そう。まあこんなところでたちばなしもなんだから、とりあえずあがろう」

 そう言うと、自分だけさっさと玄関に入りサンダルを脱ぎ始める。そんな美音に圧されたのか、ポニーテールが呆然と美音の背中を見詰めていた。ちなみに、さっきらからずっとポニーテールって言っているが、本名を風間小町という。俺達と同い年の十七歳。趣味はなんと、ショップ巡りだそうで、遠方まで足を伸ばしてまだ見ぬ面白雑貨を探しているんだと。買いはしないらしいが、はっきし言ってただの冷やかしだよな。店側からすれば迷惑なだけじゃなかろうか。

「冷やかしの小町という愛称で親しまれている」

「なんでそれ知ってんの! てか誰に向かっての説明! 別に親しまれてません!!」

 虚空に向かって一人芝居をしていた俺に対し、律儀に突っ込みを入れてくれるのは最早小町だけだ。俺のこの行動を見ると、みんななぜか遠くから憐みの視線を向けてくるか侮蔑の視線を向けてくるかの二パターンに別れる。理由が解らない。

 俺が無言で小町を見詰めていたからだろう、彼女はほんのりと頬を朱に染めてごほんと咳払いを一つ。

「ま、まあそんなことより、わたし達も上がろ? いつまでもこんなところで突っ立ってるわけにもいかないでしょ?」

「うむ……そうだな。さっさと晩飯の準備もしなくちゃいかんしな」

「……てか、なんだか家の中すごい静かなんだけど。さっき美音ちゃん入ってったよね?」

 キャリーケースをゴロゴロとひきながら玄関の戸を潜る小町に続き、俺も桜木宅に再び足を踏み入れる。

「まあ、あいつにとって家ってのはただ睡眠を取るためだけの場所だからな。せっかく返って来ても飯も食わずに直ぐ寝ちまうし、起きたら起きたでまた寝ようとするし」

「えっと……でも自分ちでしょう? もっといっぱいやることあるんじゃない? てかお風呂とかどうしてるの?」

「……ま、なんだかんだと複雑な事情ってヤツがあるんだよ。お前が家出したみたいにな」

 ちらりと隣を盗み見ると、小町が耳元まで真っ赤にしてそっぽを向いていた。

「…………てか、家出じゃないし」

「そうかよ。そいつは悪かったな」

「べ、別に謝らなくてもいい」

 キャリーケースを重そうに引きずって、リビングまで行動する。フローリングが傷つくんじゃないかとか無粋なことはこの際言わないでおこう。

「じゃま、部屋は二階にある美音の隣の空き部屋使え。必要な物があったら言えよ。出来る限り用意すっから」

「うん、ありがとう。でもなんだか詳しいね。もしかして真音ちゃんと一緒に住んでたりするの?」

「ちげーよ。さっきも言っただろ。美音は返ってくるとまず寝ようとする。ほっとくと何時間も起きやしねえ。だから、俺がこうしてあいつの部屋掃除したり、飯作ったりって面倒見ているわけよ」

「……なんだか、大変そうだね」

「もう慣れた」

 俺は隅に置かれたキャリーケースの取っ手を掴んで、今晩のメニューを伝える。

「今夜はカレーだけど、別にいいよな」

「うん。カレーは大好きだよ。……ところで、どこ持ってくの?」

「あっ? 二階だけど?」

「自分でやるよ」

「けど重いだろ? いいよ俺が運んどくから」

「でも……」

 申し訳なさそうに眉根を寄せる小町に背を向け、俺はキャリーケースを持って二階に上がった。なぜだかょっぴり、罪悪感が胸に残る。

 キャリーケースを美音の隣の部屋に投げ入れ、そして美音の部屋の扉を開けた。

「おい美音。起きろ、飯の支度するぞ。お前は食わねぇのか?」

「むにゃまって……わらひもいくすぴゅー……」

 慌てて俺の服を掴んだが、なぜかそのまま眠ってしまった。立った姿勢のまま眠るという気用な技を披露してくれた美音に、俺は大きく嘆息する。

「……お前はいったい、何回寝ぼける気だ」

 俺は眠気に目を擦る美音を連れて、階下へ降りた。

 リビングでは手持無沙汰な小町がきょろきょろと落ち着きなく部屋中を見回している。そう言えばお茶を出すのを忘れていたな。ま、今さら出してもしょうがないか。

「……こまちちゃん。なにしてるの?」

「へっ? ああ、別になにも」

 小町が美音に笑みを向ける。そうすると、本当に微かにだが美音も口端を吊りげて笑う。その様子を見ると、なんだか嬉しいような寂しいような不思議な感覚に囚われる。なんというか、十年来の付き合って来た幼馴染が少しずつ今までと変わって行くような、そんな焦燥にも似た物悲しさを感じる。……まんまだな。

 美音は足音も立てずに滑るような足取りで小町の下まで近づくと、彼女の膝の上にダイブした。そしてそのまま、小町の膝に頭をすりすりとすりつける。正直、羨ましい。

「……ごろごろ」

「美音ちゃん、くすぐったいよ」

 まるで猫のように甘える美音の髪を、小町が小さな手で優しく撫でる。

「ふふっ、まるで猫みたい」

 あ、意見被った。

「じゃ俺、晩飯の支度してくっから美音の相手頼むわ」

「あ、じゃあわたし手伝うよ」

「いやいや、そいつの面倒見てくれたらそれでいいから」

「あっと……そう?」

 同意を求めたのだろう、小町は自分の膝の上にいる美音に顔を向ける。だが、既に美音はすやすやと寝息を立てていて、こいつから賛同や反対を求めるのは難しそうだった。俺は二人に背を向け、キッチンを目指す。

「テレビとか勝手に見てていいから。そいじゃ、そいつよろしくな」

「えっ? ちょっと……」

 後ろで小町がなにか言っていたが、無視した。早く晩飯の支度しちまおう。いい加減俺も腹減った。

 キッチンに到着すると、まずエプロンを装着。その次に、タマネギニンジンジャガイモなどをぶつ切りにしていき、肉と一緒にいい感じになるまで炒める。その後、ルーと一緒に煮込めば出来上がりだ。

 時計を見るればすでに二十分近く経過していた。

 俺はカレーを三人分、盛り付けてトレーに乗せリビングまで持って行く。

「おらー、出来たぞ」

「あっ、おかえり。ほら、美音ちゃんカレー来たよ」

 小町が膝枕で気持ちよさそうに眠る美音を揺すって起こそうとする。が、美音がぐずるばかりで一向に目を覚まそうとしない。

「おら起きろ。飯だぞ飯。起きねーとお前の分まで俺が食っちまうぞ」

「ごはんたべちゃだめぇ!」

 ガバッ、とまるで糸かなにかで釣りあげられたかのような挙動で跳ね起きる美音。俺はその前に、カレーの乗った皿を置く。

「おらよ。あちぃから気をつけろよ。ほら、小町も食え」

「ありがとう。それにしても、やっぱり幼馴染さんだね」

 小町はくすくすとなぜか可笑しそうに笑っている。俺は彼女の言っていることの意味が解らず、ただ屯惑するしかない。

「なに言ってんだ、お前?」

「だって美音ちゃんのことよく解ってるもん。それって幼馴染だからだよね」

「……まあそう……だな。こいつとももう十年以上の付き合いになるし、そりゃ嫌でも色々と見えてくるもんだ」

 俺はなんだか照れ臭くなって、小町から顔を背けた。今度は美味そうにカレーを食べる美音の無邪気な様子が視界に映り、その光景からも視線を逸らす。

「お前こそどうなんだよ。なんで家出なんかしたんだ?」

 俺ばかり言われるのも癪なんで、小町にも話題を振ってみる。すると、口に入れたカレーを吹き出しそうになって後、何とか堪えた小町が焦ったような表情で俺を見た。

「べ、べべべ別に家出なんかしてないよっ! てかなんでそんなこと言うの?」

「いやだってお前、ただ遊びに来たってだけであんなでかいキャリーケースなんか持ってこないだろ、普通? なら、家出じゃないかと思っただけだ。ただの俺の勘だから違うならいいんだ。気にすんな」

「別に気になんか……」

 小町が尻すぼみに言い掛けたが、美音の突き出した皿がそれを遮った。

「……おかわり」

「……はいはい」

 俺は皿を受け取って、ご飯とカレールーをよそって再び美音の前に置く。美音は目の前に置かれたカレーを皿ごと食いかねない勢いで胃袋の中へと流し込んでいった。

「全然減ってねぇぞ。ほら食えよ、折角作ったんだから」

「……うん。いただきます」

 俺と小町も美音に続くように、カレーを一口、口に含んだ。


          3


 夕食が終わると、美音と小町の二人は風呂に入るために脱衣所に向かって行った。

 俺はキャッキャと楽しそうな騒ぎ声を聞きながら、夕食の後片付けをする。

「結局、あのあと三杯もおかわりしやがって。いったいあの細身のどこに入ってんだ、美音のヤツ」

 皿を流しに持って行きながら、俺は一人そんなことをつぶやく。

 とはいえ、なんだかんだ言っても自分が作ったものをあれだけ美味そうに食べてもらえるというのは嬉しいものだ。

 スポンジに洗剤を染み込ませ、数回揉んで泡を発生させる。泡のついたスポンジで皿の表面についている汚れを丁寧に拭き取っていく。同じ作業を計三回繰り返し、水で洗い流す。まさにその時だった。

「大変だよ、大変!」

 小町の慌てたような声に、慌てて振り返る。するとそこにはバスタオル一枚で髪を顔に張りつかせた小町がいた。

「バッ、お前なんてカッコしてんだよ! はやく服着て来い!」

「そんなこといいから、はやく来て! 美音ちゃんが大変なんだよ!!」

「そんなことって……」

 俺は釈然としないながらも、美音のことが気になり急いで風呂場へ向かう。

 脱衣所の扉を開け、曇りガラスになっている風呂の入り口を開ける。するとどうだろう、そこには顔を真っ赤にしてのぼせた美音が目をグルグルと回していた。グロッキー状態である。

「……何やってんだ、お前?」

「……なにって……おふろに……はいってるんでねーの……」

「世間一般では顔を赤くして風呂場でぶっ倒れることを入浴とはよばん。のぼせ上がるという。ゆえにお前は今入浴しているわけではない。訂正してもらおう」

「そんなことより、助けてあげたら……?」

 小町が先ほど台所に駆け込んできた時より数段声のトーンを落として提案してくる。俺はそれもそうだなと思い、浴槽から美音を抱き上げた。

「おら、しっかりしろ美音。すぐ楽にしてやるからな」

「ふにゃぁ〜ん……」

 俺は腕の中で大人しくしている美音を抱えたまま脱衣所に出る。その場に美音を座らせて、バスタオルで身体の隅々まで水分を吸い取っていく。

「手慣れてるね」

 小町が半ば感心したようにそう言ってくる。俺は一度だけちらりと小町の方を向いたが、バスタオル姿の今の小町は目に毒だ。慌てて目線を美音に戻す。

「ま、こいつ滅多に風呂入らないからな。たまに入ると今みたいにのぼせることがあるんだ。そのたんびに、俺がこいつの介抱してやってる」

 拭き終ったバスタオルを床に置き、再び美音を抱き上げる。

「……はやく服着ろよ。風邪ひくぞ」

 立ち去り際に小町につぶやく。数秒後、背後から叫び声がこだました。

 俺は風呂場から離れ、美音の部屋へ向かう。部屋に入ると、タンスから下着とパジャマを取り出して美音の身体に装着させる。

「……だいぶらくになった。ありがと」

「どういたしまして。ま、毎度のことだし気にすんな。じゃ、俺まだ晩飯の片づけあっから」

 そう言って出て行こうとする俺のシャツの裾を、美音が力なく握ってくる。

「まって」

「ん? どうした?」

 美音がまだ本調子でないのか、頬を少し赤らめながら口を開く。

「……もう少し、ここにいて……」

「…………」

 いつになくしおらしい美音に、俺は不覚にも少しドキッとしてしまった。……なんだ、今のは。

 十年以上一緒にいるのに、今俺は美音に対しときめいてしまったのか? いや有り得ない。なぜなら、美音は異性ではなく俺の庇護が必要なペットも同然なのだから。ペットにときめくなど、よほど可愛くなければ許されない。許されないこともなかろうが、俺が許さない。

 しかし、俺は美音の小さな手を振りほどくことが出来ずに彼女の傍らに腰を落とした。

「少しだけだぞ」

 俺がそう言うと、美音は嬉しそうに頬笑み、

「……なにかおはなしして」

「それが目的か?」

 俺は美音をジト目で睨みつけたが、こいつには効果が薄かったようだ。笑顔で寝る前に聞かせるおとぎ話を要求してくる。

「じゃ、いくぞ。昔々、ある所におじいさんとおぼあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、川上の方からドンブラコドンブラコと大きな桃が流れてきます。『おやおや、なんだいあれは?』おばあさんはなんだかうきうきとした気分になりました。

 一方、おじいさんは単身、竹やぶの中へと分け入っていきました。えんやらこえんやらこと竹を十本ばかり切り倒すと、『ふぅ……今日はこのくらいにしておこう』と汗を拭いました。おじいさんは竹を小さく切りそろえると背中に担ぎ、竹やぶを出て行こうとしたときです。おじいさんの目の前に、光る竹が一本、天に突き刺さるように伸びていたのでした。おじいさんはなんじゃらほいと興味を引かれて、その竹を真っ二つに切ってしまいました。中から出てきたのは、この世のものとは思えないほど美しい女の子でした」

「ぐー……すかぴー……」

 最後まで語りおえないうちに、美音は既に眠っていた。それほど、俺の話しは耳に心地よかったということなのだろう。

 俺は美音に布団を被せると、物音を立てないよう気をつけながら部屋を出て行った。

 ゆっくりと階段を下りて行くと、リビングではパジャマ姿の小町と遭遇する。こっちは初めて見るから、なんか新鮮。

「あ、美音ちゃんどう?」

 小町が俺に気づき、そんなことを訊いてくる。俺は一つ溜息をつくと、

「平気だよ。もう寝てる。お前も早く寝たらどうだ? 夜更かしはお肌の大敵なんだろ?」

 俺の軽口に小町が声を立てずに笑った。

「まだ平気。美音ちゃんじゃないんだから」

 小町はそう言うと、リモコンを操作して、テレビ番組を順番に変える。現代日本ではデジタル番組が主流だ。その中には番組表という便利機能もある。にも拘わらず、今日までそんな方法でテレビ番組を変えていく人間を、俺は美音以外に知らなかった。俺の心のメモ帳に新たら項目が加わった。

「あ、これがいいかも」

 見たい番組が決まったのか、小町のリモコンを操作する手が止まる。彼女が選んだのは、最近もっともポピュラーなお笑い番組だった。

「おっ、この人面白いよな」

 俺はひいきしている芸人がステージに立つと、思わず居住まいを正した。その芸人が漫才を始めると、テレビの中からドッと笑い声が響き渡る。同時に、俺も腹を抱えて笑い転げる。

 隣を見ると、小町が少し不愉快そうな顔でテレビ画面を見詰めていた。

「この人、そんな面白いかなぁ……」

「なんだ小町、面白くねーか?」

「……うん」

 自分で番組を選んだというのに、小町の表情に笑顔は見られない。俺は小町の手からリモコンを奪い、テレビの電源をオフにした。

「どうした? なんか気がかりでもあるんじゃないか?」

「……ううん。なんにもないよ」

 小町の首が、力なく横に振るわれる。だが、なんにもなくはないと彼女の表情が物語っていた。

 明らかに心ここにあらずといった様子だ。おおかたの見当はつくが、ここは黙っているのが正解だろう。画面の中の俺と五分はにらめっこをしていた。

「……実は、わたし家出してきたの」

 やっぱりか。

深刻そうな切り出しに反ししれっと返した俺に驚いたのか、小町が両目を見開いて俺を見る。

「分かっていたんだね」

「いや、お前の荷物見てそう思わないヤツはいないだろ。いたら顔を見てみたいわ」

「……美音ちゃん?」

 ああ、そうだった。美音も小町が家出したのには気づいていない。というより、あいつは基本的に他人のことなんざどうでもいいと思っているフシがあるからな。気づけという方が無理なのかも知れない。なにはともあれ、俺の勘は当たったわけだ。

俺は画面の中の小町を視界に納め、口を開く。

「どうして家出なんかしたんだ?」

「…………」

 押し黙る小町。言いたくないことなのだろうか? だが言ってもらわなければ困る。親と何かわだかまりがあるのなら、早々に解消してもらわなければ。いつまでもここにいてもらっても仕方ないのだから。

「まあ、言いたくないなら言わなくてもいいさ。話したくなったらいつでも言ってくれ」

 俺は『押してダメなら引いてみろ』の格言を実行に移し、そんな言葉を口にした。

 すると案の定、練り餌でコーティングされた釣り針に食いつく魚のごとくポツリポツリと小町が言葉を紡ぎ始める。

「……お父さんが、言ったの。わたしにはまだお化粧は早いって」

 ………………はっ?

「そんなことかよ」

 思わず口にした言葉が、小町の中の怒りに火を灯してしまったらしい。怒涛のごとき勢いで小町が俺に詰め寄る。

「そんなこと? そんなことってなに? わたしはそんなくだらないことで家出したって思ってるの?」

「違うってのか?」

「違うよ。確かに直接の原因はそんなことって言いたくなるようなことだったかも知れない。でも、それ以外にもわたしはいっぱいお父さんから束縛を受けてるの! 門限は五時だとか夕飯は家族そろってだとか友達と遠出しちゃダメだとか彼氏つくっちゃダメだとかメールのやりとりは二十通までだとか、その他にもいっぱい、いっぱい……」

「……でもそいつは娘のためを思っての親心ってやつじゃ……?」

「違うよ!!」

 小町の叫び声が、家中に響きわたる。力いっぱいの、否定。

 俺は美音が起きてきやしないかと二階を見上げたが、物音一つしない。その間にも、小町の心の闇が吐き出される。

「あの人は……あいつは! わたしのことを手籠めにしようとしてるんだっ! わたしがあいつの血のつながった本当の娘じゃないから! あいつにとってわたしはただ欲望のはけ口なんだっ! お母さんがもう若くないからって、今度はわたしをとって食うつもりなんだっ!!」

 根拠のないただの推測ばかりが、小町の口から飛び出す。普段の彼女からは想像もつかないような過激な言葉が乱立する。

 俺はなにも言えず、ただ黙って小町を見詰めるだけだった。

 確かになんの根拠もない。ただの憶測だと言われてしまえばそれまでのことだ。だが、彼女にそう思わせるだけの行動を彼女の父親が行っていることは想像できる。おそらく小町自身、身の危険を感じたんだろう。だからただの憶測に拍車がかかり、今回のような行動を取ったと考えれば、納得できない話しではない。

 ただ、それだけだった。

 そして、それだけで十分だ。やらなければならないことは分かった。

 俺は震える小町の小さな体を力いっぱい抱きしめ、耳元でささやいた。

「お前の言いたいことはよく分かった。もう大丈夫だ。俺が、守ってやる」

 それは、俺なりの誓いのつもりだった。

 ビクンッ! と、小町の体が一瞬だけ揺れ、彼女は俺の背中に両手を回し、力の限り締め付けてくる。鼻を啜る音と、時折り洩れ聞こえる嗚咽がとても胸に痛い。

 いったいどれだけの時間を、耐えてきたのだろうか。だが、もう大丈夫だ。

 たった今、俺がお前を守ると誓ったのだから。


          4


 翌朝は寝不足による頭痛と目眩が酷かった。

 俺は横になっていたソファから上体を起こし、時計を確認する。

 十時二十四分。

 いつもの起床時間を四時間と二十四分オーバーしての目覚めだった。

 まあ今日は休みだし、用事があるわけでもない。問題ないだろう。

 俺はソファから完全に離脱する。すると、激しい目眩に襲われ思わず膝をつく。

 しっかりしろ、俺! 今日は大切な日なんだぞ。

 俺はゆっくりと立ち上がると、ふらつく足で洗面所へ向かう。冷たい水を顔に浴びせると、さっきまで視界に霧がかかったようだったのがスッと晴れていく。

「……よし!」

 鏡に映る俺の顔はそれは酷いものだった。目の下には隈ができ、全体的に疲れて見える。

 だがそれは、覚悟を決めた男の顔だ。これから争いを起こす人間の、憂いに満ちた表情だ。もう、後には引けない。いや引かない。前へ進まなければいけない。それだけの理由牙あるから。

 俺は洗面所を出ると、手早く着替えて桜木宅の玄関を潜った。そして、美音たちのいる二階へと上がっていく。

「開けるぞ」

 軽く扉をノックして、遠慮なくノブを回す。返事も聞かず扉を開ける。どうせこの時間はまだ寝ているはずだ。ならば遠慮など無用。

 俺は部屋に入ると、まずカーテンを開けた。暗く閉ざされた部屋の中に、太陽の光が降り注ぐ。次に、美音が丸まっている布団をひっぺがす。

「起きろ、もう昼だぞ」

 半ば嘘を交えて美音の体を揺する。が、不満そうなうめき声が帰ってくるだけで、起きる気配はまったくない。思わず溜息がもれる。

「俺、今日出掛けるけどお前どうする?」

「むにゃ〜……あとさんはい……それいじょうはたべられないよ……」

 問いかけに対し、そんな寝言が帰ってきた。俺の中の怒りボルテージがMAXを記録する。

 俺はひっぺがした布団をその辺に放り投げ、パジャマ姿の美音を転がしてベッドの上がら落とした。ドスンッ、という音の後に、美音が眠たそうな顔を上げる。

「……いま、まぼろしのかくれためいぶつすぃーとてんたべあるきつあーでさんじゅってんめのよんじゅうきゅうこめたべるとこだったのに……」

「どんだけ食うつもりだったんだよ……まあそんなことはどうでもいい。俺、今日出掛けるけどお前どうする?」

「……おでかけ?」

 俺の言葉が理解できないとでも言うように首を傾げる美音。それに対し、俺は同じ言葉を再度口にする。

「ああ、出掛ける。お前はどうする?」

「……わたしもいく?」

「ま、その方が俺としても助かるな」

「だったら、いく」

 どこへ行くのかとか、なにしにいくのかとかは聞かずに、美音は頷いてくれた。幼馴染だから分かってくれたとかそんなんじゃ、きっとないのだろう。

 俺が来て欲しいと言った。だからいく。そんな感じだ。しかし、今は美音のその性格がすごくありがたかった。

「じゃあ頼むわ」

「……ん」

 了解とばかりに美音がこくんと頷いた。俺は彼女に手を振り、部屋を後にする。

 さて、問題は山積だが今は目の前のことから一つずつ片づけていくしかない。

 次に俺は、小町が使っている部屋へと向かった。隣で美音と話していたので、もしかしたら起きているかもしれないと警戒していたがそんなことはなく、小町はベッドの上ですやすやと寝息をたてていた。小町の目元に涙の跡がうっすらと残っており、それが一層、俺の覚悟を確かなものにする。

「……大丈夫。大丈夫だからな」

 起きてはいないと解っていても、そんな言葉をかけずにはいられなかった。

 俺は小町を起こさないように細心の注意を払って、彼女のキャリーケースの中身を探っていく。携帯電話、生徒手帳、財布、保険証。とにかくなんでもいいから、小町の自宅の電話番号が分かる物が欲しい。

 そうして俺が見つけたのは、一枚の写真だった。

「これ……」

 そこには幼い頃の小町と、小町の両親らしき人物が映っていた。母親の方は判断のしようがないが、昨日の口ぶりからして、父親の方はおそらく本物。人のよさそう笑みを浮かべた、気弱そうだが優しそうな人物だった。

「それ、本当の両親だよ」

 唐突に発せられた声に、俺は反射的に振り向く。小町が目を伏せて、悲しそうに笑っていた。

「お父さんはね、わたしが小学校の六年生の時に死んじゃったの。事故死……だったんだって。相手の人はお酒を飲んで運転していたらしくて、裁判で懲役何年だかの刑に服してる」

「……そうか」

 俺は掛ける言葉が見つからず、そんな一言でその場をにごす。

「でね、お父さんが言ってたんだ。『もし私がいなくなったとしても、小町、お前は生きなさい。どんなに苦しい人生だったとしても、強く、強く生きなさい』……って」

 言葉を紡ぐにつれ、小町の目に涙があふれていく。やがてその涙は滴となって、彼女の頬を伝い落ちていった。

「でも……もう無理だよ……わたしには無理……わたしはお父さんみたく強くなんかなれないよ……」

 小学六年生の頃に本当の父親が死んで、以来三年間新しい義父<ちちおや>に育てられてきた。その義父はろくでもない人間だった。だが小町は、自分の父親の言葉を糧として、今まで義父の暴挙にも耐えてきた。

 でも、もう限界なんだろう。この辺りが潮時なんだろう。

 もう我慢できないくらいに心はぼろぼろで、体の方にも少なからず影響が出始めているかもしれない。

「……ふざけ、やがって……」

 俺はこっそりと、唇を噛み締める。口中に血の味が広がったが、これくらい小町のこれまでの人生と比べたら万倍マシな痛みだ。

 写真を裏返すと、そこには走り書きで数字の列が書かれていた。

「それ、家の電話番号。子どもの頃に渡されてそれっきり、一度も電話かけたことないんだよね」

「……そうか」

 俺はその写真を持って、立ち上がる。

「どうするの?」

「決まってる。お前の義父を呼び出してお前は今日からうちで暮らすと伝えるんだ」

「……そんなの、許してくれるはずがないよ」

「問題ないだろ。お前が今まで受けてきた仕打ちを全部警察に話すとでも言えば、向こうは従うしかないはずだ」

 小町が黙り込む。まあ無理もない。今までの仕打ちを警察に話すということは、小町の義父を大人しくさせるのと同時に、もし本当に言わなければならなくなった場合、小町の醜態を他人に暴露するということだ。いわば諸刃の剣。だが、他に手はない。

 最終手段として、小町の義父を殺してしまうというのもあるが、これは本当に最後の手だ。使わないで済ませることができれば最良と呼べるだろう。

「じゃあ、これ借りるぞ」

 俺は手にしていた写真をひらひらと揺らす。小町からの返事はない。その場で立ち上がり、振り返る。

「小町?」

 そこには、人の形どころか影すら残っていなかった。俺は少し首を捻ってみたが、それらしい回答は導き出せそうにない。頭の中を目の前の問題に切り替える。

「……とりあえず、着替えるか」

 勝負は午後。今は出来うる限りのことをした方がいい。

 俺は上手くいくことを願いつつ、桜木宅を後にした。


          5


 昼を過ぎた辺りから、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。

 俺は小町のキャリーケースから拝借した写真の裏に書かれていた番号を打ち込み、携帯電話を耳にあてる。

『もしもし、風間ですが?』

 男の声だ。若くはない。しかしそれほど年というわけでもない。声の具合から大雑把に推測すると、二十代後半から三十代前半くらい。噂の小町の義父だろうか。

 俺は気を静めるように軽く深呼吸すると、

「もしもし、風間小町さんのお宅でしょうか?」

『……はい、そうですが。 どちら様ですか?』

「小町さんの学校の友人で、桜木と言います」

『桜木さん……ですか? すいません。小町は今家にいないんですよ』

 電話の向こうで、義父と思われる男が申し訳なさそうに言っている。

「いえ、違うんです。今日は小町さんではなくお義父さんにお話しがありまして」

『……私に?』

「はい。できれば直接会ってお話ししたいのですが」

『…………わかりました。どこでお会いしましょう?』

 喋り方そのものは丁寧だが、口調が明らかに変わった。今までは至極丁寧だったが、途端に怪訝そうなものになった。これは警戒されたかな?

 俺は対面する場所と時間を伝え、通話を切った。

「さて、と……」

 時刻は三時二十九分。

 腰かけていたベッドから立ち上がり、階下へと下りる。靴を履いて玄関から出ると、外は本格的に雨が降っていた。


          6


 六時二十四分。今だに雨は降り続いている。大通りは家路に急ぐ人々で大いに賑わっていた。

 俺は喫茶店の窓からその光景を眺めながら、注文したコーヒーを一口啜る。

「あまりいい趣味とは言えないな」

 後頭部に声が掛かり、俺はコーヒーカップを置いて振り向いた。

 そこには、育ちのよさそうな華奢な身体つきの男が、柔和な笑みを浮かべて立っていた。どことなく、写真に写ってた小町の父親に似ている。

「失礼ですけど、もしかして小町の父親の兄弟だったりします?」

「ああ、もう私が小町の本当の父親でないと解っているんですね。そうですよ。私は小町の父親の弟で、風間貞一と言います」

「桜木…………唯人です」

 少し考えて、別に本当の名前を教える必要もないかと思い、偽名を口にする。

 帰宅時に雨に振られたということもあり、喫茶店にはスーツ姿の中年から部活終わりの学生から、たくさんの人達が詰めかけている。

 貞一さんは一度辺りを見回すと、柔和な笑みを崩さないままに口を開く。

「話しがあるんでしょう? ここじゃなんですから、場所を移しましょう」

 貞一さんの言葉に従って、俺は喫茶店を出て、彼の所有車と思われるワンボックスに乗り込んだ。俺がシートベルトを締めたのを確認してから、貞一さんは車を発進させる。

「……それで、どこに行くんですか?」

「うん……誰もいないところですよ。だから、何も邪魔は入りません」

 貞一さんはバックミラー越しに例の柔和な笑みを覗かせる。俺は背中が少しじっとりと湿ったきたのを感じた。たぶん、緊張しているのだろう。

 さきほど、貞一さんは自ら言った。誰もいない、邪魔は入らない、と。それは確かに大事な話しをするに当たって人気がないというのは歓迎すべきことだ。だが、同時に相手の激昂を買ったときに、周りに助けを求めることができないということでもある。

 つまり、下手を打てば俺は今日、この人に殺されることになる。その展開だけはなんとしても避けたい。小町や美音のためにも。そしてなにより、俺自身のためにも。

 そうやって俺があれこれと考えていたからだろうか、それともただ単純に喫茶店から近い場所にあったのだろうか。ほどなくして、一軒の廃ビルの前で、ワンボックスは停車した。

「さあ、着いたよ」

「……ここは?」

 俺は廃ビルを見上げながら、疑問を貞一さんに投げかける。

「私の知り合いが所有するビルでね。今はもう廃居同然だが、昔はここもネオンの光で煌々と輝いていたものさ」

 貞一さんは過去を懐かしむでもなく、ただ淡々と告げた。やはり頬笑みは崩さない。

 俺達は廃ビルを入って直ぐのところにあるバーのカウンターに腰を落ち着けた。まず、俺の方から口を開く。

「お忙しいところ、お呼びたてしてすいません。どうしても、確認しておきたいことがあるものですから」

「……何でしょう?」

 貞一さんは笑みを浮かべたまま、顔の前で指を絡ませる。

「実は……小町から聞いたんです。あなたに、その……性的な虐待を受けてるって」

 俺がそう言うと、貞一さんは一瞬だけ笑みを引っ込めたが、直ぐにまた柔和に微笑む。

「それは誤解です。確かに私は娘に対して少々厳しく接しているかもしれません。しかしそれは、娘のためを思えばこそなのです」

「しかし、小町は自分はあなたの手で異常なくらい束縛されていると言っているのです」

「そんな事を……ああ、少し厳しくし過ぎたのでしょうか? そんな誤解を受けるとは」

 貞一さんは顔から笑みを消し、悲しそうに目を伏せる。

 本当に小町の言っていた通りの人なのか? 少し厳しいが、優しい父親という印象だが……。

「……これは帰ってきたら、少しばかりキツイお仕置きが必要ですね」

 ぼそりと呟いた言葉の全てを完ぺきに聞きとることは出来なかったが、その表情には憤怒の色が見て取れた。俺はその表情を見て、背筋に悪寒が走った。

「そろそろ帰ります。小町も連れて帰ります。あなたの家なのでしょう? 案内してください」

 言って、貞一さんが立ち上がる。肩を掴もうと伸ばして来た手を叩き落とし、俺は二、三歩後退する。

「……なんの真似ですか?」

「さあ、何なんでしょうねぇ」

 こいつの怒りに塗り固められた表情を見たとき、俺は思った。

 小町を、こいつの下へ帰してはいけない。

 それは理屈を超えた、いわば直感のようなものだったかも知れない。だが、今はそんな直感でも行動の指針になったくれる。

 貞一が怒りに両肩をわなわなと震わせる。

「ったく、メンドくせぇなぁ……人が下手にでてりゃいい気になりやがってガキが! いいからさっさとあの小娘を返せってんだよぉ!!」

 貞一は怒りに叫ぶ。化けの皮が剥がれ落ち、猛獣のごとき本性が露わになった。

 俺はすぐさま振り返り、全速力で駆け出す。駆けながら、叫び返す。

「ふざけんじゃねえ! 誰がてめぇなんかのところへ小町を帰すかっってんだ! てめぇのところに戻ったって、小町には元の不幸な生活が待ってだけじゃねえか! そんなんだったら俺が一生面倒見てやる!!」

 柱の影に隠れると、四方から貞一の声が反響して聞こえてくる。

「あ? テメェになにができるってんだクソが! 第一テメェはまだ学生だろうが! テメェがどれだけ大層な夢を持とうがおれの知ったことじゃねえが、できねぇことを公言するのは止めた方がいいぜ!!」

 言いながら、貞一の足音が徐々に近くなっていく。俺は柱の影でごくりと生唾を飲み込むと、柱を飛び出したときの行動を脳内でシュミレートしてみる。

 まず、貞一の前に踊り出る。貞一は武器を持っていないはずだから、大した反撃は予想されない。拳を貞一の顔面目掛けて思いっ切り叩きき込む。その後、足を引っ掛けて転がしヤツの腹部に膝をお見舞い。のたうち回っているうちに美音に電話する。よし、完璧だ。

 俺はその場でジッと息をひそめ、貞一の足音に耳を澄ます。

「隠れたって無駄だぜぇ。もちろん、逃げても無駄。なんせこのビルはおれが幼い頃から遊び場として使っていたんだからな。いわばおれの庭だ」

 貞一の声が、ビル全体に反響して響く。が、そんなものに耳を貸す気はない。両耳に全神経を集中させる。

 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……よし、今だ!

 俺は一気に柱の影から飛び出した。貞一が驚いたように半歩下がりかけたが、直ぐに体制を立て直す。俺は構わず、ヤツの両足を全力で刈る。

「チッ!」

 貞一はその場で尻餅をついて倒れ込んだ。続けざまに俺は貞一の腹部目掛けて全体重を乗せた膝蹴りをお見舞いしてやった。

「ぐごぉ……っ!!」

 予定通り貞一は床で丸くなってのうめき声を上げている。俺は貞一から離れたところで携帯を取り出し、美音に電話をかける。

『……もしもし?』

「なんで自身なさげに疑問系で電話に出るんだよ。さてはお前、自分で受話器持ったことないな……って、まあそんなことはどうでもいい。それより、予定通り頼む」

『……いまどんなかっこう?』

「格好って……別に普通だが?」

『……けがとかしてない?』

 ……よく解らないが、とりあえず心配してくれているのだろうか。以外だな。そんなこと死んだってするようなヤツじゃないと思ってたのに。

「まあ、大丈夫だ。目立った怪我はない」

『……そう』

 電話の向こうで、美音が黙り込む。数秒ののち、美音が再び口を開く。

『……もうすこし、そこにいて』

「…………あっ?」

 美音は一言だけ告げると、さっさと通話を切ってしまった。俺の中の計算がズレ、少々パニクる。

「電話は終わったのかな?」

 後ろから声がして振り向くと、貞一が直ぐ近くまで迫ってきていた。

「いやぁ、今のは利いたぜ。なんせ膝が腹にきたんだからな」

 俺は警戒心MAXで身構え、貞一の出方を窺う。

「くっくっく……そう恐い顔すんなよ。確かにちょっとばっかし頭にきたが、別に反撃しようだなんて思ってねぇからよ」

 貞一が不敵に笑う。口の両端を引き裂くような、醜悪な笑み。

 俺は背筋に冷たいものを感じながら、じりじりと少しずつ後ろへ退がる。

「ただよぉ、テメェから先に手ぇ出してきてんだ。つまりこれは戦争の始まりののろしってことでいいんだよなぁ!?」

 叫ぶと同時に、貞一の拳が俺の顔面目がけて飛んでくる。俺はそれを辛うじて避けた。だが、次の瞬間には腹部にヤツの爪先がめり込み、肺の中の空気が全て押し出される。

「ごっ……ぱっ……」

 俺はまともに息ができず、膝をついた。貞一の爪先が俺の顎に的確にヒットし、脳を揺さぶられる。

「おっと言ってなかったっけなぁ。おれ、実は少しだけ空手とキックボクシング齧ってんだよ。だから、おれの蹴りは相当くるぜ? ……って、聞こえてねぇか」

 貞一の声が脳内でノイズと化す。頭の中が靄がかかったようになり、視界も安定しない。軽い脳震盪状態のようだ。

 だが、立てないほどじゃない。

 俺は膝に手をついて、全身に力を込めて懸命に立ち上がろうとする。

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

「おおっ、立つ? 立っちゃう?」

 貞一が面白そうに言う。そんな貞一を睨みつけ、俺は震える唇を無理矢理動かしてなんとか意味のある言葉を紡ぎ出す。

「てめえ……の、人生は……今日限りでお終いだ……覚悟、しろよ……」

 一瞬だけ意味が分からないというようにポカンと口を開けていたが、やがて貞一は大声で笑い出した。

「ひゃはははははは!! なに言ってんだテメェ! おれの人生が終わる? 終わるのはテメェの人生だ! なぜならなぁ、今ここでおれがテメェを殺すからだよ!?」

 直後、貞一の足が俺の膝目がけて飛んでくる。俺は満足に動くことができず、膝から嫌な音が響く。

「ぐがぁッ!!」

「ひゃははははははは!」

 貞一の下劣な笑い声がこだました。

 俺はなんとか倒れ込むのだけは避け、貞一から距離を取るために右足を引きずって後退する。

「逃げるなよゴラァ! まだまだこれからだろうが!!」

「ぐッ……」

 ここまでか。

 俺は後ろへ退がっていた足を止めて、飛んできた拳をなんとかかわす。しかし、その後に蹴りが飛んでくる。そちらは、避けられそうにない。

 俺が覚悟を決め、貞一の蹴りを受ける気でいると、

「……ッ!」

「……?」

 唐突に、貞一の動きが止まった。

 俺は怪訝に思いながらも、ヤツから距離を置くべく振り返る。そこで、なぜ貞一の動きが止まったのかを理解した。

 俺の目の前には、大量のライトで照らされた空間が広がっている。大勢の人間がいるのか、たくさんの人型のシルエットが並んでいた。

 その中央に、一際小柄な人影が歩み出る。

「……ごくろうさま」

 言葉を覚えたての赤ん坊のような、舌足らずで利き覚えのある声だった。自然と、口元が緩む。

「へへ……おせぇよ」

「……まあまあ」

 小柄なシルエット……というか美音は、まるで小さい子供を宥めるような口調で言う。

「……しかたがなかった。こんかいはこれがいちばんいいさくだとおもったから」

「いい策? どこがだよ。俺ぼろぼろだぜ?」

 俺は自分の体を示しながら、美音に向かって訴える。美音はなぜだかくすくすと笑みを溢した。……別に冗談のつもりはなかったんだがな。

 俺の訴えは届かなかったようで、美音の口から出たのは労いの言葉でもなんでもなく、

「……すんだことはきにしない」

 の一言だけだった。

 貞一が納得いかないとでも言うように叫び声を上げる。

「なんだってんだこりゃぁ! ふざけんじゃねぇぞ!!」

「ふざけてなんかいない。これはてめぇの行動が招いた結果だ」

 貞一の表情が憤怒に歪む。

「だいたよぉ、おれがいったいなにしたってんだ!」

 シルエットの中から、中年の男が声を上げた。

「おまえの罪状は以下の通りだ。未成年者の誘拐、および暴力行為」

「こいつだっておれに暴力を働いたぞ」

「そいつは正当防衛と認められる。おまえのやったことは明らかな犯罪だ」

 貞一の表情が明らかに変わった。諦め、ともとれる表情を浮かべる貞一。

「言ったろ。今日で終わりだって」

「……ぐっ」

 その後、貞一は中年男に手錠をかけられ、パトカーに乗せられて行った。

 俺はビルの出入り口でその様子を見ていたが、ふと気になって隣にいた美音に尋ねてみる。

「なあ、俺が電話したとき、どうして直ぐに助けてくれなかったんだ?」

「……すこし、いたぶられてからのほうがいいとおもったから」

「どういうこっちゃ?」

「……あのままけいさつをさしむけてもかれがつみにとわれるかのうせいはひくい。そこで、いためつけさせたほうがかくじつにけいさつもうごいてくれるとおもったから」

「でも、あいつ警察で小町のこと喋んねえの?」

「……それはない」

 自信満々にそう言ってのける美音。俺はつい、口をついて反論めいたことを言ってしまう。

「でもさ、そうとはかぎんねぇんじゃねぇの? 実際、何らかの方法で俺達に脅迫してきたらどうするよ?」

「……わざわざ、じぶんでつみのうわぬりをすることになるのに?」

「……あ、そっか」

 そういうことなら、納得できる。確かに、小町にしてきた仕打ちを話すと脅してきても、それは自分の罪状を重くするだけのことにしかならない。

「お前、頭いいな」

「……これくらいきづけないほうがわるい」

「ごもっとも」

 俺はパトカーが去って行った方向を見て、溜息を吐く。

「しんどかった……」

「……ごくろうさま。これでこまちちゃんもあんしん」

「そう、だな」

 日はとうに落ちていた。辺りを包むのは夜の闇と街灯の光のみ。

 俺は踵を返すと、美音の手を握った。

「それじゃ、帰ろうぜ」

「……まずはびょういん」

 美音に言われ、俺達は一先ず近くの国立病院に行くことになった。

 帰ったら小町のヤツ、どんな顔すっかな。今から楽しみだ。

 夜の街は、騒がしく更けていった。


          7


 病院で右膝を診てもらうと、完治一ヶ月という診断結果をもらった。

 俺は松葉杖をつきながら、隣を歩く小町に話しかける。

「ところで、お前昨日の夜はどこに行ってたんだ?」

「ん? 家だよ」

 なんでもないことのように言ってのける小町。だが、その時、こいつはどんな気持ちで自分の家に行ったのだろうか。それを考えると胸が痛む。

「そうか、どうだった?」

「……家には、誰もいなかった。お父さんもお母さんも、誰も」

「で、これからどうするつもりだ?」

 俺の問いに、数秒の間小町は考える仕草をしていたが、別段ハッキリした答えは出てないのだろう。肩を竦めて首を横に振る。

「分かんない。これからじっくりと考えていくよ。当面は、美音ちゃんちにお世話になるつもりだけど」

「お前、他人の迷惑とか考えないヤツだな」

「心外だなー。わたしはこれでも他人のことを思いやれる人だよ。本当に迷惑だと思っているような人のところには行かない。でも、美音ちゃんは違うでしょ?」

「まあ……な」

「でしょー」

 小町が小走りに前を行く。俺から数メートルの離れた場所で、クルクルとターン。とても嬉しそうだ。

 そりゃ、あの両親、特に義父から解放されたんだ。無理もない。

 さて、小町はこれからどんな人生を歩んでいくのだろう。つらいこともたくさんあるかも知れない。

 でも、どんなにつらいことがあったとしても強く、強く生きて行って欲しいと……俺は思う――。


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[良い点] なし [気になる点] 主人公は小町を一生面倒みてやると上から目線で言ったにもかかわらず、最後は強く生きて行ってほしいと思う、と最後に他人事のように放り投げるとか最悪だろ。しかも今後について…
[良い点] 短編ということもありますが、すらすらと読めました。 キャラ設定も根底ではしっかりとしていて、誰のセリフかわからなくなると言ったことは全くなかったです。 [気になる点] 簡単な指摘、誤字や脱…
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