白の憧憬
少年の頃、誰もが経験する、激しいトキメキと苦しい恋心を書いてみました。若い女性の悪魔のような艶めかしに、若い男性の性愛は抗え切れず、純朴な彼は、自らを失っていまう。
明夫は、津和野に近い山口県の山間部に生まれた。人口二千人ばかりの寒村は小さな六つの地区に別れていた。
明夫の家は、村の中心である最も大きい集落から一番遠方にあり、人家は最小の六件だった。
家はアスファルト道路から三百メートル離れた小山の途中にあった。清流が流れる幅二メートルもない小川を越え、左右に折れ曲がった土道を二百メートル登る。
外壁に草やツタが生え、トタンや板切れで修理した跡を残したままで、古いが大きな家だった。祖父の代までは、トイレと風呂は離れにあった。父が結婚するとき、家の両側に自分で移築したので、いかにも増築したと分かる不細工な造りだった。家の後ろは雑木林が茂り、庭の右には大きな柿の木が、左は垣根のように低木が植わっていた。
小さい山を越えれば、直ぐに狭い谷があり、また小山、谷の繰り返しで、その谷間を縫う細縄のように渓流が走っていた。近くの高い山に登ると、時には日本海が望めた。また、十キロ東には、中国山地の最西端の冠山山地が幾重にも重なって見えた。
村の小さな山谷の間のわずかな斜面を、祖父の時代から開墾して田畑を作ってきた。所有地は広かったが、平地が少ないので、稲田は川沿いや山に段々で作るしかなく、そのため田畑は自宅周辺の十数カ所に及んだ。
父は自分が尋常小学校出だったことに加え、成績が良かった長男を早稲田大学に進学させた。さらに次男を私立高校に行かせるために、高く買ってもらえる檜などを材木として売り、徐々に樹木は減った。それから次には、水田の一部を売り、残り一ヘクタールもなくなった。
四、五十年前頃なら可能だった農業は、米の自由化や減反政策のおかげで食っていくことすら難しくなった。三男の明夫を高校だけは出してやりたいと、父は冬場は出稼ぎに、母は農繁期以外は、農協の石油スタンドで働いた。
兄達は明夫より七歳と五歳離れていた。上二人は常に一緒だったが、明夫だけは遊んでもらえなかった。小山に一軒だけの家で、隣家は川向かいから、さらに曲がりくねって、下った道を一キロ近く行かなければならない。小さいときから、周りに子供がほとんどいなかった。幼稚園はあった。しかし、行かない日の方が多く、元気な祖母が良く面倒をみていた。
遊んで欲しかった兄達からは、置き去りにされ、いつも、犬や猫、鶏などと遊んだ。寂しくなると、ぞうさんの歌を何度も歌い、飽きると、勝手に好きな文句で歌ったり、自分と会話をしていた。
暖かい季節になると、自宅から見える川に行った。四、五歳の頃から家人は誰もついて行かない。普段、水かさは数センチしかなく、うつぶせになっても水死危険性はなかった。
川辺のメダカを観察したり追いかけたり、小さなカニを採ったりして遊んだ。のどが渇けば、そのまま川の水を飲んだ。そんな日はほとんど、畑仕事をしながら祖母が注視していた。
明夫が生まれる前から二代目の老犬「ひめ」がいたが、明夫が生まれて半年後に大ケガをして死んだ。猪か猿と争ってやられたのだろうということだったが、すぐに父が「雌犬は子供をたくさん産むからいけん」と言って、どこからか生後数週間の雄犬をもらってきた。
父にしたら、明夫の遊び相手にと、せめてもの気配りだったのだろう。
太郎と名付けられた灰色の雑種犬は、明夫を自分より目下か、同類と認知しているようで、毎日じゃれ合ってよく遊んだ。
明夫は、さまざまな動物と豊かな自然環境の中で過ごした。小川の水生動物や澄んだ空には蝶や鳥の類、森林の中にはヘビやトカゲなど。カエル、セミ、コオロギの声の順で四季を感じ、自然音の雨、風、雷、雪も、嫌に思った事はなかった。
中でも、明夫が一番好きなのは、雨音だった。
山や田畑に降る雨は静かで、どんなときでも心を落ち着かせてくれた。冬以外には、常に雑多な花が木々やあぜ道に咲いていた。
ようやく同じ年代と親しくなれたのは小学校に上がる一年前頃だった。一キロ圏内に三人同じ年の男子がいた。小学校まで三キロあったので、通学は往復三時間を要した。初めからそれが当たり前なので辛いとも思わなかった。家から一人で一キロ歩いたら、その後、中学校まで親友となる石川君がいた。小学から中学まで、毎日のように彼と一緒だった。
小学生のときから農作業を手伝うのは当たり前で、一時間で百円の小遣いがもらえのないので、喜んでやった。稲の刈り入れ期が一番の稼ぎ時だった。冬場は薪を作って、一束十円もらった。明夫は本が好きだった。漫画はほとんど読まなかったが、小学生を対象の雑誌を一冊だけ買ってもらえた。学校の図書館で借りた本を読むのが楽しみだった。お金を使うのは、数ヶ月に一度、バスで一時間半行った古本屋で買う本代が一番多かった。自分で買った本は当時の明夫にとっては宝物だった。
山中の夜は暗かった。月や星がない静かな闇の中に佇むと、自分の心臓の音が感じられ、耳の奥からしーんと音が聞こえた。
静寂の夜、独り庭に出て夜空を見るのは、不思議な気分がした。宇宙はどうなっているんだろうと、毎回思った。とてつもなく広くて遠く、数億年昔の光を現在見ているのだと本で知って、何か怪奇でおかしな、ばかげたような気持ちになった。
自分がちっぽけなウジ虫のように感じられもしたが、時には、果てしない可能性にも似た不思議な勇気を得た。
そして、いつも思うのは、月の美しさだった。欠けた純白の月は、薄い陶磁器の杯に見えたり、白い花びらが天から、舞い落ちるようにも見まがえる。
月の形は徐々に深い皿へと変わり、やがて一カ月を要して満ちる。まるで、黒い用紙に真っ白の円を貼り付けたパッチワークを思わせた。
明夫は、夜トイレに行った帰りには、必ず空を仰ぎ見た。
柿の木の枝葉の間から見える白い月を、もう何百回見たろうか。神々しい満月も、乳幼児のときから幾度見てきただろう。明夫にとって、雲一つない天空にある清楚な月は、なぜか女性に対する憧れの象徴のように感じられた。
汚れなき聖女のようで、手にできるはずもなく、はるか遠くからただ見守るしかなかった。見るたびにその姿を変え、雲のない日は、真っ白の姿を、あるときは、その美しさを雲の端に隠す。
いつか読んだ大人びた本に「秘してこそ花」という言葉を思い出させた。夜空に浮かぶ雪白の球体に、明夫は観音菩薩を見るような畏怖と言い知れぬ憧れを抱いた。そんな変な想いは、中学二年で受験勉強をし出してからいっそう強くなり、確信にも似たものとなった。
物思いに耽るときはいつも、声なき乙女を迎望した。星々はどんなに輝いても、主役の月の引き立て役をする、花束のかすみ草のようなものだった。十分も夜空を見ていると、必ず流れ星がいくつか見届けられた。流れ星は好きでなかった。すっと消えて二度と光らないのが哀しかった。星が死んだのだと思うと、生き物の命が失われたような気になるのだった。
学校では、ごく普通に過ごしたが、人見知りで友達作りは苦手だった。そうして中学校三年間は特別なこともなく終わった。
明夫が農業高校に進学することは、暗黙の必然となった。
兄二人は東京に行ってしまった。勉強が嫌いで、物思いに耽る性癖がある明夫は、父の後を継ぐしかないと感じていた。
地元の県立農業高校に進学し、自宅からバス通学をした。牛や豚の世話をしていると、心が和んだ。
ひたすら何かすることが好きだった明夫は、部活でクロレラの研究をした。水と空気と太陽光線があれば育つ藻類で、ごく普通の環境さえあればいい。
育ちも良く、タンパク質とビタミンを多く含んで、未来の食料や燃料として有望で、飼料や薬、化粧品などへの利用も望まれる。
通学へのバス停から五、六メートル離れた所に小野酒店はあった。実際は酒類だけでなく、塩や砂糖、缶詰、各種調味料から袋菓子など、およそ生もの以外の食料品を売るよろず屋商店である。その店内の一角を暖簾一枚で仕切り、飲み屋を兼営していた。
村に酒屋は二カ所しかなく、両者は三キロ離れているが同じような営業だった。
小野酒店は、中年夫婦が経営していたが、主人が脳溢血で倒れた四ヶ月後、末娘の佳保が村からずいぶん離れた都会の宇部市から帰ってきた。彼女はそれまで喫茶店で働いていたという。
深夜まで営業する勤務先で人気者だったが、お金と男にルーズで宇部で本当はいったい何をしていたのか知れたものではないと、母が父に言っていたのを明夫は思い出した。
村には何一つ娯楽施設がなかった。パチンコ屋はもちろん、喫茶店も映画館もない。レンタルビデオ屋などあるはずもない。週刊誌を売る店もなければ、エロいグラビアアイドルの写真やアダルトビデオなどは、通販でしか手にできない。
そんな中、二件の立ち飲み屋だけが、夜十一時過ぎまでひっそりと営業し、男達の寄り合いの場であり情報交換や憂さ晴らしの空間であった。
特に、独身者にとって、小野酒店は村の楽国となった。それまで若い女性がいなかった店に、二十歳前後の若い娘がいるとなれば、顔やスタイルなど後の後、若いだけで一大事なのだ。
もう一方の酒屋兼飲み屋の村上商店の顧客も、遠慮気味に少しずつ小野酒店に移行していった。
表向きは閉めても、現実には朝までやっていることもあり、噂では、村の名士と言われる者までが、独り朝早く店からこっそり出るのを見たともいう。
佳保は、あからさまに媚びを売ることはしなかった。
ときおり、ちらっと胸の谷間が見えそうであたったり、下着のラインを思わせる程度のスカートをはくことはあった。
しかし、素朴な若者たちにすれば、男心をくすぐる控えめな挑発が、かえって新鮮で普通の女性に思われた。小野酒店は、毎日にぎわい、笑いや奇声が絶えなかった。
明夫が高校三年の八月、もうまもなく夏休みも終わろうとしているある日のことだった。
茄子のカラシ漬けを作るために、母から頼まれてカラシと味醂酒を買いに、午後一時過ぎに小野酒店に行った。開け放しの玄関ドアから入ったが誰もいない。商品棚の後ろに回って声を掛けたが返事はなかった。明夫は、そのまま三、四メートル歩いて右奥の部屋を覗いて息を飲んだ。
そして、そのまま呼吸が止まった。
ガラス戸の向こうに、若い女性が下着姿で寝ている。佳保だった。一瞬、数歩下がったが、それ以上動けなくなった。彼女の顔がこちら向きでなかったし、どうしても抑えきれない衝動に駆られたのだった。
昼間はめったに客は来ないし、深夜までの仕事で疲れたのか、或いは暑さで着替えもせず午睡をしているのかと明夫は思った。身体は斜め横だが、手前に脚を少し拡げて投げ出していた。左脚の膝を立て、右肩あたりから扇風機をかけている。上は白い薄い生地で太腿までの長さの、見たこともない下着だった。その下の胸には、フリルの付いた淡いピンクのビキニのようなブラジャーをしていた。
ゆるやかな風に妖しくひらひらと透けた布地が揺れていた。子供の頃、祖母から何度も聞かされた天女の羽衣を思い出した。 何か誘うように、ときおり風にめくれ上がった。そして、丸みを帯びて食い込んでいく股間に、純白の下着が張りついていた。
明夫は、生身の若い女性の、こんな肢体は見たこともなく、目の前に巨大な牛刀を突きつけられたような衝撃だった。
鼓動は激しく、身体が硬直した。
佳保の全身の柔らかな曲線は、官能的な女性美のヴィーナスを想わせた。下着から突き出した白い太腿。豊かな丸みのある尻から、突然くびれたウエストの流線は、恐怖にも似た魅惑を放射している。
つんと浮き出た鎖骨、その下の柔らかそうな大きい二つの白玉は、半球以上に満ちている寝待月の丸みを想起させ、明夫の理性も意識もぶっちぎった。
それでも、まったく劣情はそそられなかった。
神々しいほどの驚きで、明夫は呆然と凝視するしかなかった。ただ清美で、ひたすら麗しいと思った。
その間、ほんの十数秒だったろうが、何分間にも感じられた。息を殺して見詰めたまま、後ろ下がりに店を出た。
意味もなく自転車を力一杯漕いで、脇目もふらずに自宅に帰って、部屋で仰向けになった。木目や汚れが見えるはずの天井に焦点が合わなかった。明夫は十分前の光景から、祖母が自分を昼寝させるときに話してくれた、竹取姫を思い出した。
自分のどこからか突き上げてくる、得体の知れない何かを感じ、しばらく忘我し、胸はドクドクと高鳴ってシャツが上下した。
その夜、明夫は家の庭に立ちつくして空を見上げた。夜空には、白い三日月と薄く灰色に漂う雲とチカチカ輝く無数の星があった。
明夫は佳保の横たわった姿を思い出した。雲は、彼女の上半身を覆う妖しげな下着で、雲に見え隠れする白い月は、小さく盛りあがった三角の純白の布を喚起させた。その日以来、明夫は彼女のことが頭からひとときも離れなくなった。佳保の眩しい寝姿ではなかった。彼女自身のことが気になってきたのだった。純然に佳保を美しいと思い、そして、ただ素直に佳保のことがもっと深く知りたいと願い始めた。
秋を迎え、寒い貧村の暗い日々の中で、明夫は毎日、佳保のことを想像し、ひたすら美化し続けていた。あの寸刻の佳保の肌身が脳裏に焼き付いていることも否定できなかったが、未知なる境地の世界を夢想した。しかし、明夫が佳保をひたすら想い続ける恋情は真実だった。
ついに待ち望んでいた季節がきた。
明夫は二月に高校を卒業すると、すぐ小野酒店に行った。村民とは、挨拶する程度で静かにしていた。佳保が背を向けたときだけ、彼女に目を注いだ。学校を卒業して働けば、だれでも一人前の大人として扱ってくれるので、未成年に酒は禁止などと言う者はいなかった。明夫は、晴れて堂々と佳保に会える喜びと淡い期待と自分が彼女にどう映るか、そして、佳保は誰か気になる人がいるか、誰が彼女を好きかなどと思った。そうしていつも、複雑な苦しい気持ちになっては、店を飛び出していた。それでも、ただ佳保の笑顔をかいま見るだけで胸がいっぱいで、心は異常にときめいた。自分の存在が知られるのが怖く、声も掛かられないまま、週に一、二回店に通った。
四月中旬のある日、高校一年で中退して自衛隊に入っていた親友の石川君が、突然帰村した。
彼の名は芳夫と言ったので、小さいときかヨシと呼び、明夫はアキだった。さっそく小野酒店に行き、ヨシから自衛隊や町の話を聞いた。自衛隊は規律がやかましいので嫌になった。農業なら気楽だから、とりあえず辞めて帰って来たが、これからどうするかは考えてはいないという。
数日してから、ヨシに佳保が好きだと打ち明けた。ヨシは、気持ちを伝えろ、サイコロと同じで振ってみないとどんな目が出るか分からんだろうと言った。頭では理解していたが、明夫はヨシと反対の性格で、慎重で気が弱く、彼女の返答が恐ろしくて実行できなかった。
村社会で完全に安定した固定客に、あからさまに拒絶することはないと思うものの、明夫には、思いを伝えたいけれど、逆に秘匿したい気持ちも強くあった。ヨシは盛んにけしかけ、代わって言ってやろうかと申し出たが、絶対に止めろと断った。
明夫は、背丈は低い方だったが、二次性徴は特に遅くもなく、精通があったのは中学一年の秋だった。朝四時頃に、どろんとした感触と、つんとした快感で目が覚めた。若い女性が黒い水着姿で尻を突き出したまま立っている夢を見た一瞬の出来事だった。なぜそんな夢を見たのかと考えると、それは忘れ得ぬ快い体験を思い起こさせた。
小学校六年の夏、母の妹の長女が家に来た。高校三年生でいとこの涼子だった。彼女とは初めて会った。明夫には、すっかり成熟した大人の女性を思わせる美人だった。母親にはない、不思議な匂いのようなものを感じた。男きょうだいだけの理由もあったのだろうが、説明できない、一種の輝きにも似た、楽しく明るい気分にさせた。女性が宝石に魅せられるのは、きっとそんな感覚なのだろうかと、幼心に想像した。大人っぽい若い女性を間近に見たのは、そのときが初めてだった。その後、あるエッセーを読んで、あのとき感じたものが女性性といわれるものだったのかと思った。
彼女は萩市から北東の日本海の港町に住んでいたので、海には馴染んでいた。暑い日はいつも海辺に行っていたのだが、山の生活はあまり知らなかったので、夏休みの一週間を、山村の明夫の家で過ごした。そして、彼女なりにひんやりした山中の生活を楽しんでいた。
滞在して四日目のある暑い日、彼女が泳ぎたいけど良い場所はないかと訊いた。自宅前の川は、浅くて泳げない。明夫は、小学校入学前から幾度となく、友人達と通っている池に行こうと誘った。村ではそこを「泥池」と呼んでいた。水底に泥が多くあったからだった。小山の中腹にある半径二十メートルばかりの水田の貯水池で、周りを囲うように雑木が植わって太陽光線を遮り、昼間でもかなり暗く、いつも不気味で静謐な場所だった。一人で行くと、池の中の何かに引き込まれるか、得体の知れない化け物でも出てくると、明夫は信じ込んでいた。小さいときから、絶対に一人で行ってはいけないと、村の全員が子供にきつく言い聞かせている場所だった。すり鉢状の溜め池で、雨や湧き水によって、水かさがいつも違い、水底に大きな藻がたくさん生えているので、足を取られて死んだ者や、水門の排水の勢いで浮かぶことができずに水死した者もいた。普段は誰も行かない場所だったが、夏場の暑い時は、必ず数人で行って泳いだ。年間にわたって冷たい池は人気で、雨の日でも毎日何人かいた。夏以外では、釣りに行った。村ではドロンコと呼ばれる、成長しても十センチ前後の魚が直ぐ食いついた。餌をほとんど付けないでもミミズの匂いだけや水面に落とした針の音にさえ反応した。
池は、村の墓場への道を通り過ぎ、さらに背の高い雑草をかき分けて小径をくねくね歩き、丘を登った山腹に潜むようにあった。明夫は涼子に、そこなら行っても大人はいないし、冷たくて気持ちが良いからと誘い、二人だけで向かった。短躯で小学生の明夫は、前を歩く涼子の腰の辺りに目線がいった。
彼女は長い黒髪をさわさわと左右に振りながら、不慣れな山道に奇声を上げ、楽しんでいるようだった。はるか大人に思える女子高生の彼女は、膝頭までの赤茶色のスカートをはいていた。水着は既に家で着ていた。揺れるスカートからすらりと伸び出た白い素脚は濃緑の夏草に映えて美しかった。明夫は、そんな涼子を、別世界から来た人のように思った。身長が百六十センチ以上ある、そんな女性は初めて見るので、驚きもあった。化粧もしていず、長い睫と潤んだ大きな瞳で、笑うと口の両端を上げて白い歯を見せた。モデル並みのスタイルとロングヘアに、見とれ続けながら、明夫はわくわくした心地良い気分だった。そんな長い髪をした女性すら村落にはいなかった。
六月頃になると裏山に真竹の筍が生える。柔らかそうな短いものを数本採って帰ってその晩に食べる。数日の間採らずに、その間雨が降り、ふと、また食べようと思って行くと 、予想外に成長していて唖然と見上げたものだった。明夫は筍が好きで、夕食の手伝いでするのは皮むきだけだったが楽しかった。包丁で縦に割れ目を入れて硬い皮をはぐと、徐々に白い色になり、最終わずかに黄色がかった白色の、水気の多い、爪で傷つく柔らかい可食部だけになる。筍特有の生臭い、そのまま食べたくなるような動物的な欲望をそそる匂いがした。明夫は、涼子の後ろ姿を見上げながら、小さいときから親しんできた雨後の筍を思っていた。
その彼女が、当時の黒いスクール水着で、あれから一年以上経過して夢の中に出てきたのだった。
それが心理的にどんな意味合いを持つのか分かるはずもなかったが、夢精の知識はあったので、もう大人だといった自信が、わずかに発生するのを感じ、自然に背筋を伸ばしていた。母に恥ずかしいので下着はそっと捨てた。
明夫は、毎日を徐々に長く感じ始めた。締め付けられるような佳保への想いだけが苦しく感じられ、眠られない日がときどきあった。
ヨシが、自衛隊で大阪にいるとき入手したポルノ写真を見せてくれた。それもアダルトと言われる程度のものではなく、カラーで修正のない、ヨシはハードコアと言ったが、エロ写真だった。全身素っ裸はもちろん、股間や陰部だけのものがほとんどだった。ヨシは
「もうそれは見飽きたからやるわ」
と言った。明夫はその中で、一番美形で白肌をした写真で、開脚したのを遠慮気味に一枚だけもらった。
女は、これは仕事だから、といった風で笑顔ひとつなかった。しかし明夫は、なにか毒された、期待を裏切られたような気分と激しい動悸がない交ぜとなった。ただ、その写真は、男の劣情を烈しくかき立てる挑発的で過激なものだった。
そんな明夫の胸の内を見透かしたように、ヨシは
「写真どころか、動画もいくらでもある。電話一本で女がどこでも来てくれるデリバーリ売春だってある」
と普通の会話のように言った。
「今は、むかしの遊郭や赤線と同じもんが、全国になんぼうでもあるし、街中にタチンボもいる」
と続けた。明夫は、好きな小説やテレビ、ラジオなどから、現代の方が昔よりひどい、共同便所と蔑称されるソープやヘルスとかマッサージの名で、実質合法の売春がいくらであることは知っていたし興味もあった。
時代や人物、下品上も関係ない。維新時には、特に女遊びが非常に盛んだったようだ。日本の初代総理大臣で千円札にもなった伊藤博文は、蔭で「マントヒヒ公」と言わるほど女好きだったし、高杉晋作は結婚しても、ほとんど家にいることはなく、坂本龍馬や志士たちは、藩のお金で京の遊郭にずいぶん通っていたなど、維新記には多く載っている。
かえって、特定女性に誠実である男は男っぽくないとすらみられる。明夫は、史実として、また自己の肉体でも理解していたが、主義があったわけでもなく、ただ、女性に対して大胆になれなかった。それをどう評するかは、相手側の問題なのだろう。そうでなければ、売春や不貞を働けば罰があるはず。それが未だに当事者は何の罪にもならないばかりか、世界の先進数カ国が合法化している。
しかし明夫は、どうしてもイヤだった。
釣り堀で魚釣りをするように、お金を払えば何でもする性愛、自分の肉欲だけを満たすことには抵抗以上の嫌悪感すら抱いていた。心の充足感もロマンもない、愛も恋もない交わりは、相手の女性に理解ができず、考えられなかった。
金で身体を売る女性にも、確かな理由があるだろうし、時代に影響を与えたり、絵画に描かれた娼婦がいたりは、世界の歴史が証明している。必要悪とか道義や法ではなく、現実は常に絶対の事実でしかない。性に目覚めた男が、女を買うことに対する偏見だと言われるなら、それも勝手だと思っていた。
ヨシから、たとえ佳保がいかに下劣な女かをたたき込まれても、明夫の心中を占有している、彼女への思いは、どうにもならなかった。しかし、十九歳の激烈な性衝動に逆らうことはできなかった。唐突に突き上げ、襲い来る色欲を片づけるために、ときおり例の写真を出して、溜まった雨水か尿でも排出するように、機械的に処理していた。
明夫にとっては、肉体的な欲望と佳保とは、決して結びつかず、それらは互いに心理学や遺伝学上ではつながっているだろうが、現実には食事とトイレほど相違していた。肉欲は彼女とは無関係な生理でしかなかった。両者は脳裏でも感情でも身体的興奮においても、決して意識世界に浮上もせず、見えない平行線だった。
そんな晩夏のある日、ヨシの家に行って話しをしている内に、ヨシがとんでもないことを口にした。
冗談交じりに、機会ある毎に佳保を口説いたりしていたら、ある日の営業後、客が誰もいなくなったとき、佳保の身体を触ろうとしたら、特別、抵抗もしなかったというのだ。明夫は身体が震えた。ウソだと思った。その日は、特別に多く酒を飲んでいたヨシは、
「アキ、ええ加減に目を覚ませや。お前のことは子供の時から知ってるからこそ、じっと今まで我慢してきたけど、くそ真面目にもほどがある。ほんとに純情ばかや、お前は」
と言った。
信じたくなかったし、佳保は商売として、客であるヨシを無碍にできなかっただけだと思いたかった。しかし、ヨシは、そんな明夫に追い打ちをかけるように、
「彼女はなあ、髪も染めてないし、一見おとなしそうじゃけど、たいした女やで。ホステス時代に鍛えた客あしらえで、お前なんかイチコロや。だから言ったじゃろ、さっさと告白せいって。このさいじゃから言うけど、あのとき佳保ちゃんがな、太股と胸を触らせてくれたんや。それも服をはだけて直接やったで」
そう言って、明夫を見下したような目つきで見た。
「アキ、お前はずっとこの山の中ばかりにいる、世間知らずの山猿や。俺なんか、十六のときに大阪に出て、それなりに苦労もしたけど、女だけは、お前の百倍は知っちょるでー。水商売女ひとりに狂って、まともに仕事もしとらんらしいが、そんなことでどうするつもりや」などと、さんざんに言った。
酒の酔いもあったろうが、二人は少なくとも中学校まで親友で、幼児期からの幼友達だった。明夫は、ヨシに何か企みか、自分への恨みでもあるのかと思ってもみたが、そんな理由があるはずもなかった。佳保への恋心まで打ち明けたのに、と一瞬ヨシに憎悪を抱いたが、そんなことはどうでも良かった。明夫は、胸を引き裂かれ、暴れたくなるような気持ちと、反対に床に突っ伏したいほど落胆する思いだった。ヨシは、佳保はそれ以上させなかったと言ったが、それはヨシが自分の気持ちを察してのことかも知れないと憶測した。しかし明夫には、もはや一緒だった。他人の金を十円盗っても百万円盗っても窃盗に変わりないのに等しかった。明夫は、絶望感を伴ってヨシの家を飛び出した。自転車も放置したまま、いつの間にか家に帰り着き、焼酎を瓶越しに飲んだ。
明夫は、ヨシの話を考えた。自分でも論理的には解っているが、気持ちがどうしようにもいうことをきかないのだった。いったいどうしてこんなことになったのか、明夫はゆっくり思い出そうとした。
遠くから数回見た程度の会ったこともなく憧れも親しさも、何一つ感じなかった佳保に、どうして恋心を抱いてしまったのか。まるで佳保の何か解らない力に憑依されたようだった。それでも、明夫は、ヨシから何を言われようが今時点では、佳保がいてくれるだけでワクワクする、生きている実感を得ていた。
しかし同時に、あんな汚らわしいとは想像もできず、佳保への心は死んだに等しかった。
翌日の夜、東京の長男に電話した。兄は、初めて異性を好きになるときは、そんなもんだろう。同じ男として言えば、若い男の場合は、何かを切っ掛けにすぐ好きになることは良くあることで、ダメもとだから、しばらくしたら忘れるし、また別の良い女が現れるものだ、と言った。しかし、明夫は少しの慰めにもならなかった。自分の気持ちを変えることなど、易々といかないと思ってはいたが、何かに当たり散らしたい気分だった。
明夫はそれから数日間、自分を何とかしなければならないとあぐねた。横溢する苦悩に独り耐えられないのではないかという、嫌な予感じみたものが明夫の念頭をかすめた。もう、耐えられない、生きる気力も出ないと感じた。そして、明夫は一つの決心をした。一度、死ぬほど酒を飲んでみようと。そうすることで万一でも、何かが変わるかも知れない。そんなことでもするしか思いつかなかった。小野酒店に行く勇気はなかったので、もう一方の村上商店に行き、店で一番高い、飲んだこともない五千円もするフランスワインとサントリーの七百ミリリットルの角瓶を買った。
九月の中旬、月が満ちた澄んだ夜、明夫は独り、あの堤に行った。
時刻は午後九時を廻っていた。月明かりに照らされた墓場のそばを通ったが、少しも怖いとは思わなかった、なんの感慨もなく直線道でも歩くように、池へと進んだ。
木々がつぶやき、ときに風がささやくような錯覚をした。
既に嫁いでしまった美しい涼子と来たこと、ヨシと二人で良く泳ぎに来たことも思い出した。彼と泳ぎ疲れたときは、石の水切りをした。そのために、わざわざ途中で手頃な石を拾って行った。水切りの数は石の形で決まる。互いに相手に負けないように、適度な重さと円盤状の形の石を多く持つ方が有利だ。まず石探し、そして、六回や、わしは七回だ、などと叫び合いながら投げた。たわいない遊びだったが、自然の中で自分の全身を使って遊ぶ楽しさがあった。明夫は、懐かしみながら近くにあった石で水切りをしたが、ちょぽんと、石はすぐ沈んだ。円い月が慰めるように、へなへなーっと水面で揺れた。揺れが止むと、再び静寂と無色の月だけになった。
ゆっくりと天空の真っ白の月を遠望した。
無情だと思った。はるか彼方から見れば、あたかも肌のような温もりがありそうだが、本当は冷たいのだ。あんなに美しいのに無機質で冷酷な恐ろしいヤツなのだと思ってもみた。水面に目を落とし、再び見上げたが、ヤツは水が勝手に映しているだけでしょ、と言わんばかりにポカーンとしていた。
明夫は、どんどん、じんじん、哀しく寂しくなってきた。置き去り、裏切り、失望などという言葉が脳裏をよぎった。
そして、佳保のことを考えた。あんな女なら陵辱するか、いっそ殺してやりたいと思った。でなければ逆に、全身の骨がバラバラになるほど殴り、罵倒してくれと願った。悪女のほほ笑みとか美しき背信とか、聖女の仮面をかぶった淫らな女などという言葉が、蛍火のように次々と頭に浮かんだ。
美は悪だ、美しさは、恐ろしい誘惑を隠蔽する罪だと思った。佳保のどこが綺麗だと誰がいくら言おうと、明夫の狂恋の炎を消すことはできなかった。そんな佳保に、心を奪われている自分が憎らしくもあり、腹立たしかったが、もう気力はすっかり失せ切っていた。しかし、かぐや姫にも思える佳保の美が罪なら、そんな女に恋慕する自分の愚かさにも罰が下るべきだと、明夫は思った。
ウイスキーの水割りをと、池の縁まで降りて、水面の落ち葉などを払うと、紙コップに水を入れ、トリススクエアを注いだ。溢れ出たが、親しんだ池にも飲ませて、共に乾杯だと思った。セットで買った紙コップに三杯水を汲んで、池の斜面を上がった。登り切ったところで、ふと見ると、彼岸花が咲いていた。
月の光を受け、昼間の深紅は黒色を増して、毒々しく、昼と夜で、それ自体に変わりはないはずだが、状況次第では、これ程おぞましいものかと思った。明夫には、佳保を象徴しているかに思え、池の周囲にある限りの彼岸花を手当たり次第に蹴散らした。
明夫は、そんな自分自身を考えてみた。
あの白、偶然佳保を見た瞬間、電車のポイントが切り替わるように、自分の中の何かのスイッチが入った。そして、もう二度と電車は元の路線を走ることはないのだと感じた。ウイスキーの瓶半分強を飲んだ。明夫は無表情に、天地の二つの満月を見比べながら、コップを手にしていた。そして、望遠鏡を覗くように空の白円をぼうっと、長い間見詰めていたが、首が疲れて、人形の頭が取れるようにガクリとうなだれた。十一時が過ぎていた。明夫は、いつまでもそこにいたかった。水上の月が、ゆっくり動くような感覚があった。体がふらつき、清明な思考もできず、心身が弛緩して気分が良かった。それでも、心か脳か魂か、明夫はもがき苦しんでいた。落胆、喪心などとやわな言葉ではない、絶望だった。なにが望みを絶つだ、と理性は叱るが、明夫の心は、聞こえぬあえぎ声を発していた。時間の経過に伴い、抑えきれない自暴自棄の気持ちが強烈に湧き上がってきた。
ワインを飲もうとして気づいた。オープナーがなかった。仕方なく、コンクリート製の水門の排出口にワインの首をたたきつけた。破片が、持っていた右手の親指に突き刺さり、血が吹き出たが、瞬間痛いだけだった。血がぷくぷくと出てきたが、酔いのせいか気にならず、ふらふら歩きながらコップで飲んだ。旨いと感じた。苦みが強いが、甘かった。さすがに、世界一といわれるフランスのワインは違うと、分かったように自分に言い聞かせた。
きっとあの村上商店では、高価なワインを包装もせずに買った自分を噂しているだろうと明夫は思った。ミッシェル・グロヴォーヌ・ロマネとあった。名前すら見聞きしたこともなかったが、ふと、むかし兄がビートルズの「ミッシェル」を歌っていたことを思い出した。フランス語と英語が混ざった歌で、明夫は記憶にあった、アイラービュ、アイラービュ、アイラービューの部分だけを、天上の月に向かって大声で数回歌った。終えると、急に全てが静寂で暗闇になったような錯誤をした。
池面も林や辺りも何一つ変化はなく、ただただ空しさと寂しい気分が襲って来た。そうして、明夫は静かな深夜独り飲み、目も耳も頭も働かなくなった。覚醒剤を使用してビルから飛ぶのは、こんな気分になるのかと想像した。
やがて、明夫はボトルを片手にふらふらと立ち上がり、口を大きく開け、思い切りワインをたらし込んだ。最初、口に入るのは少しだけで、ほとんど顔にかかった。少しずつ多く飲めるようになった。飲みながら目をワインから離すと、偶然、澄んだ満月がぼんやり見えた。明夫は月の方向を凝視した。月はどう見ているだろうと想像した。指の血とこぼれた赤ワインで、全身が赤に染まった。明夫は自分自身が激烈に惨めに思えてきた。そんな自分に、月は慈悲なる微光を投げかけてくれているに違いないと信じたかった。
もやもやとした意識の中で、白い魔性の佳保の下着姿が頭をかすめた。しかしすぐに、月のように純白な女性への憧れを感じた。遠い昔のことのように意識がゆっくりと薄れ始めた。そして、子供の頃を懐かしみ、あの時分が良かったなあ、という気持ちになったとき、突然またひどい絶望感が襲ってきた。
明夫は、ふらつきながら上空の月をじっと見詰めた。そして、ゆっくりと目を下に向けたとき、突然、水鏡の月に引かれるように土手を蹴った。
大きな鈍い音がし、池の月が激しく割けて白い破片となった。水面に大輪の波紋が拡がった。ワインボトルが、池の端に転がった。貯水池へ輸血をするように、飲み残しの赤ワインがドクドクと流れ込んだ。 了