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第5話:「インターコムの声」

——では、あなたが読んでいるこれは、何回目だ?

地下集会室の冷たい空気を切り裂くように、灰色の壁に等間隔で埋め込まれた旧式のスピーカーから、突如として硬質なノイズが吐き出された。


一瞬の静寂の後、ゆっくりと、その「声」が頭上から降り注いだ。


「皆さんは今、緑の屋根の宿へようこそ」


それは、この「グリーン・ルーフ・イン」の最高責任者、ディレクター・ハミルトンからの歓迎の辞だった。


だが、その音声は明らかに異常だった。人間の声帯から発せられたものではない。高いソプラノと低いバス、金属を擦り合わせるような不快なノイズと、胎内で聞くような柔らかい心音。無数の異なる周波数が寸分の狂いもなく重なり合い、一本の太い糸のように撚り合わされた、不気味な多重和音ポリフォニー


無機質でありながら、ひどく有機的。まるで、かつてこの施設で死んでいった何千、何万という囚人たちの声帯を縫い合わせ、電気信号で一斉に振動させているかのような響きだった。


マーカス・グレイは演台の横で直立不動の姿勢をとりながら、その音波を鼓膜ではなく、頭蓋骨の振動として感じ取っていた。

15年間、彼は新しい宿泊客を迎えるたびに、この定型文を聞いてきたはずだった。しかし今、マーカスは自身の内側で何かが決定的に「ズレる」のを感じていた。彼はこの多重和音の背後にある「構造」を、まるで目の前に広げられた設計図のように、恐ろしいほどの解像度で理解してしまっていたのだ。


これは単なるアナウンスではない。


聴覚という無防備な器官から脳へ直接アクセスするための、「治療的な洗脳」の開始プロセスだ。

声の裏側には、人間の意識の防壁をすり抜ける特定の低周波パルスが何層にも重ねて隠されている。脳波を強制的にシータ波へと誘導し、自我の境界線を融解させ、暗示を受け入れやすい「空白の器」を作り出すための、緻密に計算された音響兵器。


——なぜ、自分はそのアルゴリズムを知っている?


マーカスの背筋を、氷の刃でなぞられるような悪寒が駆け抜けた。


インテイク・オフィサーの一介の看守が知り得るはずのない、施設の根幹に関わるシステム・エンジニアのような知識。それが、自分の脳の引き出しから極めて自然に、泉のように湧き出してくる。



スピーカーからの声が続く。


「過去の重荷を下ろしなさい。ここでは、あなた方は安全です。ここでは、あなた方は『一つ』です」


ハミルトンの声が響くたび、集会室の空気が物理的な重さを持ったように圧縮される。


『447』となったジェームス・コーンは、苦しげに顔を歪め、両手で耳を塞ごうとした。しかし、彼の腕は鉛のように重く垂れ下がり、やがてその目から反抗の光がスッと消え失せた。焦点がぼやけ、口元がだらしなく緩んでいく。


『892』となったサラ・ヴァレンティナも同様だった。彼女はもはや自分が何を奪われたのかさえ忘れたように、虚ろな表情で天井のスピーカーを見上げている。彼らの大脳皮質は、すでに声の侵食を受け入れ始めていた。


宿泊客たちが次々と音波の海に沈んでいく中、建築家のアーロン・グリーンだけは、まるでこの建物の音響特性を測るかのように、うっとりとした表情で壁に耳を当てていた。


そして、ノラ・パーカー。


彼女はスピーカーを見上げてはいなかった。洗脳の周波数の影響を微塵も受けていない澄んだ瞳で、直立するマーカスを真っ直ぐに見つめていた。


『あなたも聞こえているのでしょう? この偽物の声が』


彼女の視線が、そう語りかけているようにマーカスには思えた。


ディレクター・ハミルトン。マーカスは15年間、一度もその姿を見たことがない。


いや、そもそも「彼」は人間なのだろうか? この声は、施設全体の壁、床、配管に張り巡らされた神経網ネットワークから発せられる、建物自身の「意思」の変換音なのではないか?



「さあ、規則正しき生活の始まりです。緑の屋根の下で、永遠の安らぎを」



放送がプツリと切れ、再び耐え難いほどの沈黙と白昼の光が部屋を支配した。


マーカスは無意識のうちに、自身のこめかみに冷たい汗が伝い落ちるのを感じていた。


彼は自分が監視する側なのか、それとも、この巨大なシステムに監視され、生かされているだけの細胞の一つに過ぎないのか、境界線が分からなくなりつつあった。

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——では、あなたが読んでいるこれは、何回目だ? そして、あなたは気づいているか。 あなたが読み始めた時、 施設全体が「一度、呼吸」したことに。
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