第21話:ノラとマーカスの対話
インテイク・オフィサーの管理室は、分厚いコンクリートと電子制御の鉄扉によって外界(独房群)から完全に切り離されている。
マーカス・グレイは、冷たいステンレス製のデスクに両手をつき、荒い息を吐いていた。
『なぜ、あなたは毎日同じ灰色の服を着て、同じ言葉を繰り返しているの?』
数時間前の朝の点呼で、ノラ・パーカーが放った静かな問い。
それが、再フォーマットされたばかりのマーカスの脳内で、致死性のコンピューター・ウイルスのように増殖し続けていた。
インテイク・オフィサーは「なぜ」を思考しない。システムが与えた「ルール」という絶対的な出力を実行するだけの端末だ。しかし、ノラが撃ち込んだ「意味を求める」という人間の根源的な機能が、マーカスの自動操縦プログラムを内部から食い破り始めていた。
マニュアルを検索しても、ノラの問いに対する「答え」はエラー(該当なし)と返ってくるだけだ。答えがない。ならば、自分は何のためにここに座っているのか? 自分という存在の「根拠」はどこにあるのか?
マーカスが頭蓋骨を割るような痛みに顔を歪めた、その時だった。
カチャリ、と。
絶対に開くはずのない背後の鉄扉の電子ロックが、極めて軽い音を立てて解除された。
マーカスは弾かれたように振り返り、腰のスタンバトンを引き抜いた。
「誰だ!」
重い鉄扉が、油の切れた音を立ててゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、ハミルトンの手先でも、暴動を起こした囚人でもなかった。
オレンジ色の制服を着た小柄な女。
『047』こと、ノラ・パーカーだった。
「……あり得ない」
マーカスはバトンを構えたまま、戦慄に目を見開いた。
「お前の独房からここまでの間に、五つの電子ゲートと監視カメラがある。警報も鳴らさず、どうやって……」
「物理法則を少しだけ『書き換え』させてもらったのよ」
ノラは全く悪びれる様子もなく、悠然と管理室の中へ足を踏み入れた。
彼女の背後、開け放たれた鉄扉の向こうの暗がりから、もう一人の人影がヌルリと姿を現した。
『046』、建築家のアーロン・グリーンだった。
彼は手に、ダクトの破片と数本の抜き取られた配線コードを握りしめていた。その目は、狂気と探求心にギラギラと輝いている。
「美しい構造だ。だが、どんなに巨大な生体建築であっても、神経系(配線)のバイパス手術は可能だったよ」
アーロンは恍惚とした声で言った。
「カメラの死角となる壁の『脈動』を読み切り、低周波パルスの位相を反転させてゲートのセンサーに流し込んだ。空間の認識をハッキングしたのさ。今、システムは私たちがまだそれぞれの独房で大人しく眠っていると認識している」
マーカスは絶句した。
アーロンという男が、単なる狂った建築家ではないことを悟った。彼はこの巨大な施設――並行次元に存在する群体意識体「ハミルトン」の胃袋――の構造を完全に理解し、その物理法則さえも手玉に取り始めているのだ。
ノラはアーロンの言葉を背に受けながら、マーカスの真正面まで歩み寄った。
スタンバトンの先端が自分の胸元に突きつけられているにもかかわらず、彼女は一切の恐怖を見せない。
「さて、マーカス」
ノラは、臨床医が重症患者に問いかけるような、静かで残酷なトーンで口を開いた。
「朝の質問の続きよ。あなたは、なぜ、ここにいるの?」
「……俺はインテイク・オフィサーだ。この施設を管理する……」
マーカスの声は、自分でも驚くほど震え、掠れていた。
「本当にそう思う? あなたは本当に、この施設の一員(支配者)なの?」
ノラが一歩踏み出す。スタンバトンの先端が彼女の制服に触れたが、マーカスはそれ以上押し込むことができなかった。
「あなたの時計の針は止まっている。あなたの記憶には『ここに来る前の自分』が存在しない。与えられたマニュアルと、この灰色の制服だけが、あなたを形作っている。それは『一員』ではなく、ただの『部品』よ。ジェームスやサラと同じ、いつでも代替可能な肉の塊に過ぎないわ」
マーカスの手から力が抜け、バトンがカランと床に落ちた。
ノラの言葉は、マーカスが封じ込めていた「自己の空洞」を容赦なく抉り出していく。
(俺は、誰だ?)
15年前の記憶は消去されている。だが、消去されたという「空白の感覚」だけが、ぽっかりと胸の中に残っている。
自分はハミルトンの意志を代行しているつもりで、実際にはただ踊らされていた操り人形だった。システムがエラーと見なせば、いつでも記憶をフォーマットされ、一からやり直させられるだけの哀れなデータ。
「……どうすればいい」
マーカスは膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、ノラを見つめた。灰色の瞳から、管理者の仮面が完全に剥がれ落ちていた。
「俺は……俺自身を取り戻したい。なぜここにいるのか、俺が誰なのかを知りたい……!」
それは、第一部の終焉を告げる産声だった。
完璧な歯車であったマーカス・グレイが、システムへの完全な不服従を宣言し、「個」としての人間性を剥き出しにした瞬間。
ノラは満足げに微笑み、マーカスに手を差し伸べた。
「その言葉を待っていたわ。48回目のループにして、ついに盤面が整った」
アーロンが、背後でクツクツと笑い声を漏らす。
「さあ、始めようじゃないか。この巨大な胃袋を、内側から食い破る『解体工事』を」
管理室の非常灯が、不吉な赤色に明滅し始めた。
システムが、ついに深刻な「物理的バグ」の発生を検知したのだ。しかし、今回はマーカスは一人ではない。
施設を解剖する心理学者と、物理法則をハッキングする建築家。そして、システムの根幹を知る看守。
彼らの本当の「反逆」が、終わらない白昼の奥底で、今まさに幕を開けようとしていた。




