第16話「書類の秘密」
管理室の分厚い鉄の扉の向こうで、システムの警告音が低く、しかし確実に鼓動を早めていた。
マーカス・グレイを「エラー」として処理するための物理的なプロトコルが、静かに起動し始めている。床のどこかが陥没し、あの透明なシリンダーが自分を飲み込むのは時間の問題だった。
マーカスは震える手で、デスクに備え付けられた旧式の端末に向かった。
15年間、彼はインテイク・オフィサーとして「閲覧許可」のあるマニュアルと宿泊客の名簿しか開いたことがなかった。しかし今、彼の脳内には、洗脳によって封じられていた『0001』としての記憶――すなわち、この施設が稼働した最初期に、システムの根幹に最も近い場所で「治療」を受けた時の記憶が蘇っている。
キーボードを叩く指先が、自動操縦の制約を破り、見知らぬコマンドを打ち込んでいく。
パスワードの入力画面。
マーカスは一瞬ためらい、そして、先ほど思い出したばかりの、15年間一度も口にしなかった自分自身の「外の世界での名前」を打ち込んだ。
黒い画面が明滅し、通常の緑色ではなく、血のような真紅の文字で構成されたディレクトリが開いた。
『上級機密ファイル:プロジェクト・グリーン・ルーフ』
マーカスは息を呑みながら、宿泊客たちの「本来の目的」が記されたドキュメントを開いた。
そこに並んでいたのは、刑務所としての「更生」や「贖罪」、あるいは「刑罰」といった言葉ではなかった。
『搬入物(宿泊客)の選定基準:強い自我、並外れた執着、または特異な論理的思考力を持つ者』
『処理プロセス:個としての自意識を完全破壊した後、脳髄の神経ネットワークを主機へ物理的・精神的に接合する』
『最終目的:群体意識体H.A.M.I.L.T.O.N. の演算能力の拡張、および並行次元の維持機構の安定化』
マーカスは、文字を追うごとに目の前が暗くなるのを感じた。
ディレクター・ハミルトン。あの、人間の声を無数に縫い合わせたような不気味な多重和音。
あれは音声合成などではなかった。この施設に飲み込まれ、自我を破壊され、建物の「細胞」として取り込まれた数万、数十万という人間の意識の集合体そのものだったのだ。
だから、ハミルトンの声には複数の周波数が重なっていた。彼らは一つの巨大な生体コンピューターとして、この狂った施設——いや、おそらくは外界を含むもっと広大な何か——を維持するための「動力炉」あるいは「演算装置」として、永遠に電気信号を走らせ続けているのだ。
無意味な書類の書き写しも、終わらない白昼も、すべては彼らの精神を摩耗させ、自我という「ノイズ」を取り除いて純粋な演算回路へと作り変えるための、極めて合理的な下準備だった。
「俺たちは、囚人ですらなかった……」
マーカスは乾いた声で呟いた。
罪を償うための場所ではない。ここは、優れた人間の脳を収穫し、巨大な怪物に食わせるための「農場」だったのだ。
その時、真紅のテキストで埋め尽くされた端末の画面が、不自然なグリッチを起こして乱れた。
コードの羅列が崩れ、画面の中央に、ぽつりと一つの文字列が浮かび上がる。
『ようやく、第二層の扉を開けたわね』
マーカスは息を止めた。システムからの警告ではない。
『誰だ?』とキーボードを叩く。
『あなたのバグをこじ開けた女よ。監視カメラの死角は12秒。その間に、配管のノイズを利用してローカルネットワークに干渉しているの』
ノラ・パーカーだ。
『047』の独房にいるはずの彼女が、紙コップと唾液で物理法則をハッキングしたように、今度は施設の低周波パルスを利用して、閉鎖されたネットワークの根幹に侵入してきている。
マーカスの中に、冷たい恐怖とは別の、熱い感覚が沸き上がった。
「知恵」だ。
15年間眠っていたマーカスの論理的思考が、ノラという強烈な触媒を得て、急速に活性化していく。
『ハミルトンは一人じゃない。彼らは過去の囚人たちの集合体だ。だが、アーロンの図面を覚えている?』
ノラのメッセージが続く。
マーカスはハッとして、傍らに置いてあった保管箱の『0046』番を開けた。
建築家アーロンが持ち込んだ、あの完璧な内部構造図。マーカスはそれを広げ、裏面を光に透かした。
そこには、表の図面と重なるように、人間の「巨大な神経系のシナプス」のような網の目が描かれていた。そして、中枢と思われる最も太い管の合流点には、『コア』という文字が記されている。
『施設は生きている。でも、生命体なら必ず「心臓」がある。完璧なシステムなんて存在しない。47回目のループで、私たちはついにシステムの内側を味方につけたわ』
画面の向こうのノラの知略に、マーカスは戦慄した。
彼女は、単にループを繰り返して生き延びているだけではない。ジェームスのような無謀な反乱が失敗することを見越し、施設を管理する「インテイク・オフィサー」の自我を意図的に復活させ、内部からシステムをハッキングするタイミングを待っていたのだ。
彼女の目的は脱獄ではない。この巨大な群体意識体そのものの破壊、あるいは乗っ取り。
『システムがあなたの部屋の床を抜くまでに、あと140秒。管理室の電源を落として、通気口からDブロックへ向かいなさい。そこで待っているわ』
画面がプツリと切れ、元の真紅のドキュメントに戻った。
マーカスは立ち上がった。
自動操縦のプログラムは、完全に沈黙した。彼を支配しているのは、マニュアルでも恐怖でもない。彼自身の「思考」と、自らの手で未来を掴み取ろうとする「意志」だった。
壁の奥から、ズズッ……という重い摩擦音が近づいてくる。
マーカスは迷うことなく、管理室のメインブレーカーを引き下げた。




