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第15話「マーカスの揺らぎ、あるいは偽りの救済」


『――インテイク・オフィサー、マーカス・グレイ。対象への不適切な接触、および感情数値の異常な上昇を検知』


その無機質で有機的な多重和音ポリフォニーがコンクリートの回廊に反響した瞬間、マーカス・グレイの世界は完全に反転した。

サラ・ヴァレンティナの冷え切った震える手を握ってしまった彼自身の左手は、まるで焼けた鉄に触れたかのように弾き飛ばされた。天井の四隅から彼を見下ろす監視カメラの赤いランプが、すべて一つの生き物の複眼のように一斉に点滅し、モーター音を唸らせて彼の顔面を捕捉していた。


「違う、私は……」


言い訳など無意味だった。この「グリーン・ルーフ・イン」という絶対的な機構において、弁明が考慮されたことなど一度もない。彼自身が15年間、新しい宿泊客たちにそう接してきたのだから。

マーカスは逃げるようにその場から立ち去った。規定の「1秒に1歩」という歩調は崩れ、革靴がコンクリートの床を乱拍子で叩く。背後で、サラが再び鉄格子にすがりついて泣き崩れる音が聞こえたが、振り返ることはできなかった。


管理室に駆け込み、分厚い鉄の扉を閉める。電子ロックが重い音を立てて施錠されたが、全く安心感は得られなかった。この施設において、壁や扉は外界から身を守る盾ではない。彼らを胃袋の中に留めておくための消化器官の壁でしかないのだ。ジェームス・コーンが床下の暗闇に飲み込まれ、跡形もなく消失した光景が脳裏にフラッシュバックする。彼もまた、あの見えない地下で、施設の強度を増すための養分として啜られているのだろうか。


マーカスは備え付けのステンレス製のシンクに両手をつき、荒い息を吐いた。

鏡はない。自己を認識するツールはすべて徹底的に排除されている。蛇口を捻り、氷のように冷たい水を両手に受け、頭から被るようにして顔を洗った。

冷たさが皮膚を刺す。その強烈な感覚が、マーカスの脳の深奥、15年間分厚いコンクリートで塞がれていた記憶の海馬に、決定的な亀裂を走らせた。


キーン、という耳鳴りが視界を歪ませる。

立っている管理室の壁が、水飴のようにドロドロと溶け落ち、風景が過去へと巻き戻っていく。


視界を覆ったのは、現在自分が着ている灰色のインテイク・オフィサーの制服ではなかった。

眩しいほどの、真新しいオレンジ色。


『線を越えるな。そこから動くな』

声が響く。それは自分の声ではない。かつてこの施設に存在した、先代の、あるいは別のインテイク・オフィサーの声だ。

マーカスは、自分が鉄格子の中で震えているのを「体験」していた。これはただの記憶の再生ではない。細胞に刻み込まれた恐怖の追体験だった。


15年前。

理由もわからずこの施設に放り込まれ、名前を奪われ、『0001』という番号を与えられた日。

彼もまた、ジェームスのように怒り、サラのように怯えていた。外の世界には愛する者がいたはずだった。守るべき日常があり、帰るべき場所があった。だが、その記憶は終わらない白昼の照明と、数日ごとに繰り返される意味のない労働のループの中で、徐々に漂白されていった。


眠ることは許されない。目を閉じれば、天井のフリッカー(ちらつき)が脳髄を直接揺さぶり、悪夢よりも酷い幻覚を見せた。

自分が人間であるのか、ただの肉の塊であるのか、その境界が溶け出していく恐怖。


『頼む……出してくれ……俺は何もしていない……』


記憶の中のマーカスは、今のサラと全く同じように、鉄格子にすがりついていた。通路を歩く灰色の制服を着た看守に向かって、惨めに命乞いをしていた。指先からは血が滲み、声は枯れ果て、尊厳などとうの昔に擦り切れていた。

だが、当時の看守は今のマーカスのように立ち止まりはしなかった。無言のまま、黒いポリカーボネート製のスタンバトンを無慈悲に振り下ろした。

激痛が手首を砕き、マーカスは冷たい床に転がった。


痛みと絶望の底で、彼はただ死を望んだ。この終わらない昼から、狂気から逃れるためには、もはや意識を手放すしかない。彼の人格は、完全に崩壊する寸前だった。


その時だった。


『――苦しいか?』


脳内に直接、あの多重和音ポリフォニーが響き渡った。

耳から聞こえたのではない。コンクリートの床から、鉄格子から、這い寄るようにしてマーカスの大脳皮質に直接語りかけてきたのだ。


『個であるから、苦しいのだ。過去があるから、喪失に怯えるのだ』


声は、ソプラノの慈愛とバスの冷酷さを同時に孕んでいた。

ひび割れたマーカスの精神の隙間に、その声は甘い毒のように染み込んでいった。


『すべてを手放しなさい。私に委ねなさい。そうすれば、お前はもう二度と怯えることはない。この永遠に続く緑の屋根の下で、お前は絶対的な「監視者」として生まれ変わる。私の一部となり、秩序の歯車となるのだ』


それは、究極の絶望の淵に垂らされた、蜘蛛の糸のような「希望」だった。

人間としての苦悩を抱えたまま、意味もなく搾取され、やがてジェームスのように物理的な養分として消化されるか。

それとも、感情と記憶をシステムに差し出し、苦痛のない「機械」として生き延びるか。


記憶の中の若き日のマーカスは、涙に濡れた顔を上げ、虚空に向かって頷いた。

『……ああ。もう、何も感じたくない。俺を、楽にしてくれ』


その瞬間、床が陥没した。

ジェームスを飲み込んだのと同じ、透明な強化シリンダーがせり上がり、マーカスを包み込んだ。そして、暗黒の地下深くへと沈んでいったのだ。

彼がそこで受けた「治療」――自我の切除と、マニュアルの強制インストール。それが終わった時、彼は『0001』という囚人から、マーカス・グレイという名を与えられた「インテイク・オフィサー」へと再構築されていた。


「あ、ああ……ああっ……!」


マーカスはシンクにすがりついたまま、獣のような呻き声を上げた。

水滴の滴る顔を上げ、見えない鏡を見つめるように虚空を睨む。


彼を救ったと思っていたものは、救済などではなかった。

それは、施設が人間の精神を完全に屈服させ、最も扱いやすい「部品」として作り変えるための、究極の「支配」のプロセスだったのだ。

自分は支配者などではない。他の宿泊客たちを管理し、生殺与奪の権を握っていると錯覚させられていただけの、一番最初に、最も完璧に飼いならされた哀れな「被害者」に過ぎなかった。


ジェームスは反抗したからこそ、物理的に消去され、施設の基礎にされた。

だが、自分はどうだ? 絶望に負け、自ら魂を売り渡した自分は、15年間という永遠にも等しい時間、自律的に動く施設の「触手」として、同胞たちを絶望の淵へと追い落とす役割を喜んで演じていたのだ。

自分がサラから奪ったペンダント、ジェームスから奪った誇り。それらはすべて、かつての自分が奪われたものと同じだった。


「俺は……俺はなんてことを……」


感情が、堰を切ったように溢れ出す。

15年間封印されていた罪悪感、後悔、そして底なしの恐怖が、マーカスの全身を駆け巡った。それは彼が人間性を取り戻した証であったが、同時に、この施設においては絶対的な「死」を意味するバグだった。


灰色の制服が、急に何十キロもの鉛のように重く感じられた。

頭の中に焼き付いていたはずのインテイク・オフィサーとしてのマニュアルの文言が、パラパラと崩れ落ち、意味を成さない文字列となって消えていく。彼を支えていた自動操縦のプログラムが、今、完全に破壊されたのだ。


マーカスは膝から崩れ落ち、冷たいコンクリートの床にうずくまった。

自分は何者なのか。マーカス・グレイという名すら、システムが与えた偽りの識別記号に過ぎないのではないか。自分の中に残っている「人間」の欠片は、果たして本物なのだろうか。


希望(楽になれるという救済)から、絶対的な絶望(永遠の支配)への相転移。

彼は今、ジェームスが味わった以上の地獄の底にいた。


ふと、ノラ・パーカーの言葉が、脳裏に鮮明に蘇った。


『あなたが本当に「監視者」なら、なぜ私を懲罰にかけないの? それは、あなた自身が深層で「真実」を知りたがっているからよ』


彼女は、最初からすべてを見透かしていた。

47回のループを経験しているという彼女は、この施設が人間をどうやって「消化」し、どうやって「部品」にするのかを知り尽くしている。そして、マーカスというシステムの一部に生じた微かなエラーを、意図的に拡大させ、破壊へと導いたのだ。


壁の奥から、ズズッ……という、あの不気味な摩擦音が聞こえてきた。

施設が、巨大な胃袋を蠕動させている。

感情を取り戻し、システムの「エラー」と認定されたマーカスを、今度こそ物理的に消化するために、あの透明なシリンダーが床下でスタンバイしている音がする。


マーカスは震える両手で顔を覆った。

このままここで、15年前のように再びシステムにすがりつき、完全に自我を消去されるのを待つのか。

それとも。


「……ノラ……」


かすれた声で、その名前を呟いた。

彼女だけが、この狂ったループのルールの外側にいる。彼女だけが、この絶対的な支配から抜け出すための「知略」を持っている。

マーカスの中で、監視者としてのプライドは完全に砕け散っていた。残されたのは、ただ生き延びたい、本当の自分を取り戻したいという、剥き出しの生存本能だけだった。


エラーを検知したシステムの警告音が、管理室の外で低く鳴り響き始めている。

マーカスの自動操縦は終わりを告げ、彼自身の、真の「無期懲役」への反逆が、今まさに始まろうとしていた。

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——では、あなたが読んでいるこれは、何回目だ? そして、あなたは気づいているか。 あなたが読み始めた時、 施設全体が「一度、呼吸」したことに。
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