第14話:サラの心理的崩壊、あるいは慈悲という名の劇薬
第三作業室での「消失」から数時間が経過していた。
就寝前の点検時刻。終わらない白昼の下、鉄格子の前に並ぶ宿泊客たちの顔には、もはや疲労すら浮かんでいない。彼らはジェームスが跡形もなく消去された事実を脳から締め出し、ただ呼吸するだけの肉塊になり果てようとしていた。
マーカス・グレイはバインダーを手に、冷たいコンクリートの廊下を歩いていた。
彼の歩調は、マニュアルで定められた「1秒に1歩」の完璧なリズムを刻んでいる。しかし、その内側では、蘇った記憶と底知れぬ恐怖が、彼の精神を激しく揺さぶっていた。
『892』の独房の前に差し掛かった時、異変は起きた。
かつて麻薬密売組織を束ね、強靭なプライドを見せていた女、サラ・ヴァレンティナ。彼女は直立不動の姿勢を保つことができず、鉄格子にすがりつくようにして震えていた。
「……嫌……だ……」
虚ろな瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちている。食堂での無音の涙とは違う。彼女の精神の堤防は、あの圧倒的で理不尽な消失を目の当たりにしたことで、完全に決壊してしまっていたのだ。
マーカスが立ち止まると、サラは鉄格子の隙間から細い腕を突き出し、マーカスの灰色の制服の袖を力なく掴んだ。
「お願い……私を、消さないで。言う通りにする。何でもするから……あの暗闇に落とさないで……!」
それは、完全に自我が崩壊した人間の、惨めな命乞いだった。
インテイク・オフィサーの制服に触れることは、重度の規則違反だ。マニュアルに従えば、マーカスは即座にスタンバトンを抜き、彼女の腕を叩き折ってでも引き剥がさなければならない。
マーカスの右手は、条件反射のように腰のバトンへ伸びた。
しかし、その指先が硬いグリップに触れた瞬間――ピタリと止まった。
(可哀想に)
マーカスの胸の奥底で、15年間完全に凍りついていた感情が、熱を帯びて溶け出した。
それは「慈悲」だった。
理不尽な暴力と底知れぬ恐怖に怯える、一人の弱い人間に対する、純粋で人間らしい同情。かつて自分も同じように怯え、誰かに助けを求めたかったという記憶が、彼にバトンを振り下ろすことを躊躇わせたのだ。
「……手を離せ、892」
マーカスの声は、威圧するためのものではなく、震えを帯びた、ひどく人間臭い響きを持っていた。彼はバトンを使わず、自らの左手でサラの冷たい手をそっと包み込み、制服から優しく引き剥がそうとした。
彼女に「同情」してしまった。
マニュアルを破り、ただの数字に対して「人間」として接してしまった。
その瞬間だった。
天井の四隅に設置された監視カメラの赤いランプが一斉に点滅し、モーター音を唸らせて、すべてのレンズが「マーカス」を正面から捉えた。
廊下の空気が、急激に圧縮される。
『――インテイク・オフィサー、マーカス・グレイ。対象への不適切な接触、および感情数値の異常な上昇を検知』
スピーカーから、ディレクター・ハミルトンのあの多重和音が降り注いだ。
ジェームスを消去した時と同じ、一切の感情を持たない宣告。だが今回は、その矛先が宿泊客ではなく、監視者であるマーカスへと向けられていた。
マーカスは息を呑み、サラの手を弾かれたように離した。
しかし、もう遅い。システムは彼の内に芽生えた「慈悲」というバグを、明確なエラーとして認識してしまったのだ。人間らしい感情を取り戻したことは、彼を救済するどころか、システムによる「再処理」の対象へと引きずり下ろす、致命的な劇薬だった。
斜め向かいの『047』の独房から、ノラ・パーカーがその一部始終を静かに見つめていた。
彼女の瞳は、まるで実験動物の致命的なミスを観察する研究者のように、冷たく澄み切っていた。
壁の奥で、低い振動音が鳴る。ジェームスの時よりも大きく、そして、マーカスに飢えているかのように。




