第13話:ジェームスの消失、あるいは胃袋の底
第三作業室を満たしているのは、もはや「静寂」という生易しいものではなかった。
それは、絶対的な暴力によってすべての音が圧殺された、真空のような無音だった。
数分前まで『447』ことジェームス・コーンが立っていた場所には、ただ冷たいコンクリートの床が広がっているだけだ。彼を飲み込んだ円筒状のシリンダーは、陥没した床のタイルと共に完全に塞がり、そこには継ぎ目一つ、擦れ跡一つ残されていない。
血痕もなければ、もがき苦しんだ痕跡もない。ジェームスという人間がこの空間に存在したという事実そのものが、システムによって最初から無かったこと(デリート)にされたかのようだった。
監視台の手すりを握るマーカス・グレイの指先は、白く鬱血するほどにこわばっていた。
(どこへ消えた……?)
マーカスは、荒れ狂う思考の渦の中で必死に答えを探していた。
インテイク・オフィサーとして15年間、彼は数え切れないほどの宿泊客を管理してきた。マニュアルには確かに『反逆者は直ちに隔離区画へ転送する』と記されている。
だが、隔離区画とは一体「どこ」にあるのだ?
マーカスの記憶をどれだけ遡っても、このグリーン・ルーフ・インの図面に「隔離区画」という名前の部屋を見た記憶がない。地下へと続く階段も、特別なエレベーターの扉も、彼の巡回ルートには存在しなかった。
ジェームスは床下へと沈んでいった。この巨大な施設は丘の上に建っているが、その根は地下深くへと伸びているはずだ。しかし、地下何階まであるのか、そこになにがあるのか、インテイク・オフィサーであるはずのマーカスすら全く知らされていないのだ。
床下はただの土ではない。パイプやケーブルが走る無機質な空間でもない。
壁に触れた時に感じた、あの異様な温かさ。巨大な肺のように低い振動を繰り返す建物の脈動。もしこの施設が、コンクリートと鉄の皮を被った巨大な「生命体」だとしたら。
ジェームスが沈んでいった先は、独房や懲罰室などではない。
それは、この施設の「胃袋」だ。
マーカスの背筋を、今まで感じたことのない種類の悪寒が這い上がった。
ただ殺されるのであれば、まだ人間の理解の範疇にある。しかし、この施設は彼らを殺しはしない。自我を削ぎ落とし、個性を剥奪し、そして反逆するエネルギーさえも——すべてを施設の血肉として「消化」するのだ。
ジェームスは今、あの暗闇の底で、意識を保ったまま建物の細胞へと分解されているのではないか? 彼を形作っていた記憶も、銀行強盗としての誇りも、声帯も、すべてが施設の神経網に接続され、あの多重和音のノイズの一部へと変換されている最中なのではないか。
ふと、微かな音がマーカスの鼓膜を叩いた。
ズズッ……ズズズッ……。
壁の奥深く。何重にも張り巡らされた太い空調パイプの奥から聞こえてくる、奇妙な摩擦音。
それは、水や空気が流れる音ではなかった。何か「質量を持った柔らかいもの」が、狭い管の中を無理やり押し通されていくような、ひどく生々しく、粘り気のある音だ。
その音が響くたび、作業室の天井にある白昼のような照明パネルが、心臓の鼓動に合わせてわずかに明滅した。施設が、新たな「栄養」を飲み込み、歓喜に打ち震えているかのように。
オレンジ色の制服を着た宿泊客たちは、誰一人としてその音に気づいていないふりをした。
誰もが背中を丸め、紙と向かい合い、折れそうなほど強くペンを握りしめて、意味のない数字をひたすらに書き写している。彼らの目は完全に死んでいた。彼らは本能で理解したのだ。少しでもシステムに異物を認識させれば、自分もあの床下の底なし沼へ引きずり込まれるということを。
マーカスは、息をすることすら忘れそうになっていた。
監視台の上から見下ろすこの光景。規格化されたオレンジ色の囚人たち。彼らはいずれ全員、あそこへ落ちていく運命にあるのではないか? 自分が15年間「管理」してきたと思っていた者たちは、すべてこの巨大な怪物の胃袋へと運ばれるための、ただの餌に過ぎなかったのではないか。
そして、その餌をベルトコンベアに乗せていた自分自身もまた、いつかは用済みとなって消化される運命にある。
「……素晴らしい」
不意に、その声は響いた。
静寂に包まれた作業室の中で、誰かが歓喜に満ちた声を漏らしたのだ。
マーカスがハッと視線を向けると、ジェームスが消えた場所のすぐ隣の席で、『046』——建築家のアーロン・グリーンが、恍惚とした表情で床のタイルを見つめていた。
彼はペンを置き、両手で頬を包み込むようにして、床の奥底から響くあの「粘り気のある音」に聞き入っていた。
「美しい……なんて完璧な動線だ。廃棄物を運ぶのではない。これは循環システムだ。建物の基礎が、大黒柱が、こうして人間を啜って強度を増していく……。あの図面に描かれていた『空白の階層』は、そういう意味だったのか……!」
アーロンの瞳には、恐怖ではなく、狂気じみた探求心と畏敬の念だけが宿っていた。彼は自分が閉じ込められた牢獄の異常性に絶望するどころか、その完璧な設計思想に魅了されてしまっている。彼には、ジェームスが「どうやって」施設の構造体の一部へと作り変えられているのか、そのプロセスが建築家の目線で理解できてしまっているのだ。
マーカスは、吐き気を催した。
アーロンの言葉は、マーカスが直感した「消化」という恐怖を、より具体的で逃れようのない現実として裏付けていた。
その時だった。
作業室の隅の席から、じっとこちらを見つめる視線を感じた。
『047』、ノラ・パーカー。
彼女は机の上の書類にペンを走らせるふりをしながら、監視台で青ざめているマーカスを静かに観察していた。
彼女の目は、怯えてはいなかった。アーロンのように狂気にとらわれてもいない。ただ、47回ものループを経験し、この理不尽な消失を何度も見てきた者特有の、底知れぬほどの冷酷な静けさがあった。
ノラはペンを持った右手を小さく動かし、机の角をコツ、コツ、とリズムよく叩いた。
そのリズムは、壁の奥から聞こえてくる施設の「呼吸音」と、コンマ一秒の狂いもなく完全に同期していた。
『次は、あなたの番かもしれないわね』
彼女の唇が動いたわけではない。だが、その沈黙のメッセージは、恐怖に侵食されたマーカスの脳髄に、呪いのように深く突き刺さった。
監視台の上で、マーカスは逃げ場のない絶望に立たされていた。
見えない地下の暗闇で、ジェームスは今も声なき悲鳴を上げながら、建物の血肉へと変えられている。その悲鳴が施設の多重和音に混ざり、いつかスピーカーから自分に語りかけてくる日が来る。その恐怖が、マーカスの人間性を完全に破壊しようとしていた。
壁の奥で、消化器官が蠕動する音が、また一つ、生々しく響いた。




