第11話:ジェームスの決起、あるいは消去のプロセス
第三作業室の空気は、張り詰めた糸のように限界まで引き絞られていた。
終わりのない書類の書き写しと細断のループ。ペンの擦れる音だけが響くその空間で、マーカス・グレイは監視台から宿泊客たちを見下ろしていた。
手すりを握るマーカスの掌には、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。
彼は自分が「監視者」などではなく、かつて彼らと同じようにオレンジ色の制服を着せられ、自己を剥奪された「被害者」であるという記憶を取り戻してしまった。バトンを握る右手に、かつてのような冷徹な確信はない。
その時、乾いた破裂音が室内に響いた。
『447』――ジェームス・コーンが、プラスチック製の椅子を床に叩きつけた音だった。
「もうたくさんだ!」
ジェームスの怒声が、白昼のような照明の下に叩きつけられた。彼は周囲で硬直する他の宿泊客たちに向かって、両腕を振り上げた。
「いつまでこんな無意味な真似を続けるつもりだ! 俺たちは数字じゃない! 人間だ! こんな狂った箱に閉じ込められて、黙って頭がおかしくなるのを待つのか!」
普段なら、誰も彼の声に反応しないはずだった。システムの恐怖が彼らの意思を縛り付けているからだ。
だが、その日のジェームスの声には、魂の底から絞り出したような圧倒的な熱があった。隣の席の男が、おずおずと立ち上がる。それに呼応するように、別の女がペンを置き、立ち上がった。『892』のサラも、静かに立ち上がり、ジェームスを見つめている。
波が伝播するように、オレンジ色の制服が次々と立ち上がる。数十人の宿泊客が、ジェームスを中心にして一つの「意思」を持った集団へと変わりつつあった。
彼らの目に宿る、微かな反逆の光。それは紛れもなく、この絶望的な施設における「希望」の胎動だった。
「マーカス! あんたも本当は分かってるはずだ!」
ジェームスは監視台のマーカスを指差した。
「こんなものはただの拷問だ! 俺たちと一緒に来い! このドアをぶち破るんだ!」
マーカスは腰のスタンバトンを引き抜いた。
しかし、階段を降りる足が動かない。彼の脳裏で、「鎮圧せよ」というマニュアルの命令と、「彼らの言う通りだ」という蘇った人間性の叫びが激しく衝突していた。
自分は彼らを止めるべきか。それとも、彼らと共にこの狂ったシステムに抗うべきか。マーカスがバトンを握る手を微かに震わせた、その瞬間だった。
ブゥン、と。
部屋の空気が、物理的な重さを持って一瞬だけ歪んだ。
警告音は鳴らなかった。ディレクター・ハミルトンの多重和音も響かない。
ただ、ジェームスの立っていた場所の直上、天井の照明パネルが一つだけ、不気味な明滅を繰り返した。
「ドアを……ぶち破って……」
ジェームスの声が、水底から発せられたように間延びし、くぐもっていく。
次の瞬間、マーカスは自分の目を疑った。ジェームスの輪郭が、古いブラウン管テレビのノイズのようにブレ始めたのだ。
「ジェームス……?」
サラが震える声で手を伸ばした時には、もう遅かった。
音もなく、光の瞬きすらなかった。
まるで初めからそこに存在しなかったかのように、空間がジェームス・コーンという質量を「切り取った」。血の一滴、オレンジ色の制服の切れ端一つ残さず、彼は完全に消失した。
直前まで部屋を満たしていた熱狂と希望が、一瞬にして絶対零度の絶望へと反転(相転移)した。
立ち上がっていた宿泊客たちは、目の前で起きた理解不能な現象に言葉を失い、誰からともなく、糸の切れた操り人形のように力なく椅子へと崩れ落ちていった。彼らは再び、震える手でペンを握り、意味のない数字を書き写し始める。反逆の意思は、文字通り根こそぎ消去されたのだ。
マーカスは監視台の上で、呆然とスタンバトンを取り落とした。
床に転がる乾いた音が、静寂の戻った作業室に響く。
ジェームスはどこへ行ったのか? 懲罰房へ転送されたのか? それとも、あの「壁」の一部として消化されてしまったのか?
自分は支配者などではない。生殺与奪の権を握っていると思っていた自分の存在など、この施設という巨大な生命体の前では、あまりにも無力な塵に過ぎなかったのだ。
マーカスは両手で顔を覆い、自分の内側で蘇った感情がもたらす激しい苦悩と恐怖に、声もなく打ち震えた。
ふと指の隙間から下を見ると、『047』ことノラ・パーカーだけが、ジェームスが消えた空間と、監視台で震えるマーカスを、静かに見比べていた。
壁の奥で、巨大な消化器官が動くような、低い振動音が鳴った。




