第10話:15年間の記憶、あるいは空白の裏側
終わらない白昼のパトロールを終え、マーカス・グレイは自身の狭い管理室へと戻った。
この施設の壁には、鏡が一切設置されていない。自身の顔を客観的に見つめ直す行為は「自我の再認」に繋がり、システムの維持において不必要だからだ。だが、マーカスが手を洗おうと身をかがめた時、磨き上げられたステンレス製の手洗い鉢の底に、わずかに歪んだ自分の顔が映り込んでいた。
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。
水滴が滴る自分の顔をステンレス越しに見つめた瞬間、脳の奥底——海馬の深い領域で、強固に鍵をかけられていた分厚い扉が、ギシッと嫌な音を立てて軋んだ。
フラッシュバック。
視界を覆うのは、今着ている灰色のインテイク・オフィサーの制服ではない。眩しいほどの、真新しいオレンジ色だ。
『線を越えるな。そこから動くな』
誰かの無機質な声が響く。マーカスは今と同じように、地下の処理室の冷たい床の上に立っていた。だが、彼は「迎える側」ではなく、「迎えられる側」だった。
彼もかつて、このグリーン・ルーフ・インの「宿泊客」だったのだ。
記憶の断片が、乱れたビデオテープのノイズのように明滅する。
名前を奪われ、番号で呼ばれた日々。意味のない労働で指先が擦り切れ、終わらない白昼の照明の下で狂いそうになった夜。
マーカスは思い出した。自分もかつては、あのジェームスのように理不尽なシステムに怒り、サラのように無音の涙を流していたのだ。彼には、愛する者がいた。外の世界で帰りを待つ誰かがいたはずだ。その顔はもう、薄布を被せられたようにぼやけて思い出せない。
では、自分はいつ、どうやって「監視する側」へと回ったのか?
記憶の糸をたぐり寄せようとした瞬間、マーカスの頭蓋骨の内側で、鋭い激痛が走った。焼け火箸を脳髄に直接ねじ込まれるような、物理的な幻痛だ。
そうだ。彼は「治療」を受けたのだ。
ある日、窓のない暗い部屋に連行され、あの多重和音のディレクター・ハミルトンの声に包まれながら、何かを……人間として最も重要なコアの部分を、鋭利なメスで根こそぎ抉り取られた。そして、完全に空白になった器に「インテイク・オフィサーとしての完璧なマニュアル」が流し込まれたのだ。
マーカスは手洗い鉢の縁をきつく握りしめ、荒い息を吐いた。
恐ろしいのは、自分が元囚人だったという事実ではない。その「治療」の痕跡——完璧に施されたはずの洗脳の縫い目が、今、ノラやジェームスたちの些細な人間らしさに触れたことで、確実に綻び始めているという事実だ。
マーカスは、かつてないほどの恐怖に震えていた。
もし、上位のシステムがこの記憶の「再発」に気づけばどうなる?
『不良部品』として直ちに廃棄されるのか。それとも、あの暗い部屋に再び引きずり込まれ、今度こそ完全に「壁の一部」へと解体されるのか。
「……俺は、マーカス・グレイだ」
彼は震える唇で、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。それは15年間口にしたことのない、外の世界で持っていたはずの自らの名前を確かめる、極めてささやかで、命がけの反逆だった。
だが、その声は無機質な空調のノイズにあっけなく吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
ふと、左手首のリストバンドが異様に熱を持っているように感じた。
擦り切れた『0001』の印字。それは、彼がこの絶望のループにおける「最初の成功例」であることを示していた。
壁の奥で、またあの巨大な肺が呼吸するような低い振動が鳴る。
施設が、彼のその小さな呟きを「聴き取った」かのように。




