第9話:深夜の廊下、あるいは不可視の捕食者
グリーン・ルーフ・インに「深夜」という概念は存在しない。
時計のデジタル表示が午前2時を指していても、窓が一つもない分厚いコンクリートの回廊は、昼間と寸分違わぬ狂気じみた白昼の光に満たされている。
マーカス・グレイは、規則正しい足音を響かせながら単独巡回を行っていた。
右手にスタンバトン、左手には巡回記録用の端末。15年間、彼の身体に染み付いた完璧な筋肉の記憶だ。鉄格子の奥では、オレンジ色の制服を着た宿泊客たちが、フリッカーの効いた照明の下で浅く不規則な眠りに落ちている。彼らの寝息は、空調のノイズにかき消されるほど弱々しい。
マーカスは、自分が彼らを完全に支配していることを知っている。
彼らは名前を奪われ、意味のない労働で精神をすり減らし、抵抗する力すら失いつつある。マーカスが指を一本動かせば、彼らの日常は容易に破壊される。
だが今、マーカスを支配しているのは、絶対的な管理者としての優越感ではなかった。
冷たい、粘り気のある「恐怖」だった。
コツ、コツ、コツ。
自分の足音だけが、奇妙に反響して廊下の奥へと吸い込まれていく。
マーカスは足を止めた。そして、ゆっくりと頭上を見上げた。
天井の四隅に設置された監視カメラ。
通常、それはマーカスたちインテイク・オフィサーが、宿泊客の異常行動を監視するための「目」であるはずだ。しかし、赤いランプを点滅させながら首を振るそのレンズは、独房の中ではなく、通路の真ん中に立つマーカスを正確に捕捉し、トラッキングしていた。
(見られている)
マーカスの背筋を、氷塊を滑り落とされたような悪寒が駆け抜けた。
彼を監視しているのは、人間の警備主任などではない。カメラのケーブルの先にある、この施設そのもの。多重和音で語りかけてきた『ディレクター・ハミルトン』という名を持つ、巨大なシステムだ。
15年間、マーカスは自分が「使う側」だと思い込んでいた。
しかし、今日になってノラやジェームス、サラたちの中で生じた微かな感情の揺らぎ——それに「共感」してしまった自分自身のバグを、システムはすでに見抜いているのではないか。
マーカスは無意識のうちに、コンクリートの壁にそっと右手を触れた。
「……温かい」
思わず声が漏れた。
冷え切っているはずの石の壁が、まるで生き物の皮膚のような微かな熱と、脈動を持っていた。壁の奥から聞こえる、あの重く低い呼吸音。それは空調のコンプレッサーの音などではない。巨大な内臓が蠢く音だ。
自分はこのグリーン・ルーフ・インという巨大な生命体の体内を歩く、ただの白血球に過ぎない。そして今、感情という「異常」をきたした自分は、免疫システムによって異物として排除されようとしている。
その圧倒的で非人間的な上位者からのプレッシャーに、マーカスの呼吸は浅く、早くなった。恐怖という感情が、彼の統制された精神を確実に侵食していく。
ふと、前方から微かな擦過音が聞こえた。
独房の中からではない。廊下のずっと奥、光の届かないはずの曲がり角の先からだ。
誰かが、いや『何か』が、壁を這うようにしてこちらへ向かってきている。
マーカスは左手首の時計に目を落とした。
秒針は、やはり止まったままだ。時間は進んでいない。この深夜の廊下は、永遠に終わらないループの底に沈んでいる。




