悲しむ人は幸い
「なんだ、これは?」
雪野正の声が響く。その声は怒り、憤り、モヤモヤなど悪い感情が滲んでいた。実際、正の表情はこの世のおわりのように暗い。七十過ぎの男だったが、皺や白髪も余計に正の表情を暗く見せていた。
今朝、早く起きた。老人の正は自然と明け方に目が覚めてしまう。身体のあちこちもガタがきているが、頭はとても元気。認知症の疑いもなく、脳トレもこなしていた。
そんな朝、庭の掃除をしていたら、隣人の猫がいた。三毛猫だ。首輪もしている。ミャアミャアうるさい猫で、時々隣人にクレームも入れていたが、改善していない。余計にイライラする。
「お前、なんで俺の家の庭にいるんだよ。さっさと帰れ」
しっしと払い除けようとしたが、動じない。嫌な猫だ。しかも猫は何か咥えていた。
「なんだこれ?」
カードだった。しかもクリスマスカード。派手なリースやツリーのデザインとともに、変なメッセージが書いてある。
悲しむ人は、幸い。その人たちは慰められる。マタイによる福音書 六章四節
「なんだ、これは?」
イタズラか。最近のクソガキは妙なことを考える。さらに怒りが溜まっていくが、猫はさっさと目の前から消えた。
「なんだよ、このカードは……」
ぐしゃぐしゃに丸め、庭に投げたが、面白くない。悲しむ人が幸い?
「何言ってるんだ。そんなわけがあるわけない……」
十二月の冷たい風は頬を刺す。カラカラと枯れ葉は舞い、空っぽの植木鉢には砂埃がついていた。
庭にはそんなものしかない。妻が生きていた頃はミントやローズマリー、ラベンダーで華やかだった。いい匂いもし、ちょっと自慢だったが、全部枯れた。妻が亡くなり、ハーブの世話など全くわからなかった。水や肥料を与えても、何故か枯れてしまう。まるで正を嘲笑っているみたいに。
そんな過去も思い出すと正の目元に涙が滲む。
「悲しむ人は幸い? そんなわけないだろ」
その日、ずっと不機嫌だった。怒りが止まらない。隣人がゴミ捨て場の当番でいたが、その顔を見ていたら余計に憤る。感情をコントロールできなかった。つい当たってしまう。
「うるさい! 猫なんて飼うな!」
家に帰るが、全く怒りが消えない。嫌いな隣人を怒鳴ったはずなのに、少しも癒されない。それどころか怒りは絶えず、顔は赤くなり、指先も震えるぐらいだ。
一人で住むのには広すぎる家だ。リビングも寝室も庭も余白が多い。妻がいない事実だけがくっきりと浮かぶ。
ふと、妻の写真と目が合う。リビングのサイドテーブルに飾ってあるものだ。余計に指先が震えてきたが、異変に気づく。写真たての裏に、カードがあることに気づいた。朝、あの猫が咥えていたカードじゃないか。ぐしゃぐしゃに丸めて捨てたはずなのに、何故かまだある?
「悲しむ人は幸いか……」
全く納得できない言葉。どうせ子供のイタズラだと思うが、涙が出てくる。そうか、ずっと怒りが止められないと思っていたが、本当は悲しんでいたのだ。悲しみを怒りで蓋しようとしたが、うまくいかなかった。結局、涙が溢れ出てくるじゃないか。
カードの上にも涙が落ちる。ぽたぽたと溢れ落ち、カードの文字が滲んでいく。
「そうか、そうだったが……」
悲しむ人は、幸い。
その意味はよくわからないが、怒りで悲しみを塞いでも意味がないと気づく。今日ぐらいは思いっきり悲しんでいいんだ。泣いてもいい。弱くてもいい。妻のことを考えてもいい。全部自分に許可を出せば、なんだか別に悪くもない。
もうすぐクリスマスも近い。今年も一人で過ごすだろう。泣いているかもしれない。今日みたいに悲しんでいるかもしれない。
「ミャア……」
隣人の家から猫の鳴き声だけが響いていた。




