清らかな悪魔のために
死後人間が向かう天国と地獄。その手前の分かれ道に、ノアはいた。
背中から生えている、上質な白い羽。頭上には金色の輪っかが浮いている。
ノアは雲の上にちょこんと座っていた。つぶれたお尻がはみ出していて愛らしい。
白い手で雲をつまむと、無邪気にかぶりつく。甘い。
ほっぺたが落ちそうになるのを、あわてて両手で押さえた。彼の足は雲の中に沈んでいて見えないが、おそらくバタ足をしていることだろう。
もう一口。
ノアが雲に手を伸ばしたときだった。
「あー! お前、またさぼってやがんな!?」
人間界から帰って来たルマが、眉を吊り上げてやってくる。
ノアは口元に雲をつけたまま、ルマを見上げた。
「あれ~、ルマ、おかえり~」
「おかえり~、じゃねぇよ!! ったく、毎度毎度お前の尻拭いをさせられる身にもなってくれよ」
「あたぅ」
ルマは、先っぽが矢印のようになっている黒い尻尾で、ノアの頭をぺしりと叩いた。
ノアは頭を押さえ、涙を浮かべる。
「痛いよぅ。そんなに怒らなくたっていいじゃんか」
「怒りたくもなるっての。人が仕事してる中、堂々とさぼりやがって。悪魔に助けられる天使なんて、前代未聞だぞ!?」
「ぜん……? 僕、難しい言葉わかんなぁい」
「はぁ……」
ルマは頭に手を置き、肩を落とした。その背中には、黒く尖った羽が生えている。
天使のノア。悪魔のルマ。
通常なら決して交わるはずのない二人だが、世話焼きのルマが、ノアのミスを庇ってからというもの、事あるごとに呼び出される羽目になってしまった。
おかげでノアはますます怠惰な暮らしを送り、ルマは仕事量が倍増した。
そんな中、ノアは悪びれる素振りも見せず、上目遣いで話しかける。
「ねぇ、ルマ知ってる? 雲って食べれるんだよ」
「んなことどうでもいいわ! お前はまず仕事しろ!」
「仕事……ってなんだっけ? ルマ、説明して?」
「お、前……」
ノアが砂糖を溶かしたような声音でいうと、ルマは発狂したくなった。
つい先日説明したばかりだというのに、もう忘れたというのか。
手がかかるにもほどがある。
だがしかし、ノアはこれでも素直でいい子である。ここできちんとした教育をしておけば、今後天使として活躍してくれるにちがいない。
ルマはそう自分に言い聞かせると、引きつった笑顔でいった。
「いいか? 俺は悪魔で、お前は天使! 天使は人間の生を司り、悪魔は死を司る。 つまり、お前は人間を誕生させなきゃなんねぇの! それがお前の仕事だ! なのにいつもいつも殺しやがって! あれか? 俺への当てつけか!? どうしてお前が人間を殺すたびに、俺が駆り出されなきゃならんのだ!」
「長すぎてよくわかんない。後半文句だし」
「きいぃぃ!」
ルマは頭を掻きむしり、地団太を踏んだ。反動でノアのお尻がバウンドする。
ふわふわ宙を舞う雲たちを掴むと、ノアはまた口へ運んだ。頬張る姿は、ハムスターに似ている。
口が小さいというのに沢山詰め込むものだから。ああ、ほら。また口元に食べ余しをつけている。
「もう俺は知らないからな!?」
「え~。そういっていつもルマが構ってくるんじゃん。ほら、なぁに、この手」
指摘され、ルマはようやくノアの口元に手を伸ばしかけていることに気付いた。
彼の世話焼きはもはや癖である。
ノアが転んだときも、足を踏み外して人間界へ落ちたときも。一目散に駆けつけた。
今だって、ノアの口元を拭おうとしている。
ルマは顔を赤くし、あわてて手を引っ込めた。抗えない自分が憎々しい。
「え~、なんでやめちゃうの? ほら、僕またつけちゃうよ?」
「あのなぁ……」
「もう諦めなよ。ルマって誰かの面倒見てないとダメになっちゃうタイプなんだよ。だから、黙って僕の面倒みたらいいじゃん。世話の焼きがいある僕と、これからもセットだよ。嬉しくない?」
「お前言っててはずかしくないのか?」
ルマはもはや呆れた。
「お前が口元につけたもんなんかこの先いくらでも拭ってやるけどさ、人間殺すのはまじでやめろ」
「え? なんで? ルマだって殺すじゃん」
「それは、悪魔が人間から寿命を得ないと死ぬからだ。最低限は仕方ない。でも、俺は極力人間を殺したくないんだよ」
ルマは切なげに眉をひそめた。その背景には、”以前は天使だった”という過去がある。
彼は天使だった頃、ほかの天使の罪を肩代わりして堕天したらしい。
この話を聞いたとき、ノアは無性に納得した。
ルマは悪魔のわりに、心が澄んでいる。優しい心を持っているし、情に厚い。そしてたまに、ノアの白い羽をうらやましそうに眺めている。
本当は、天使に戻りたいのだろうか。
ノアは、はちみつで満たしたようなまん丸目で、ルマを覗き込んだ。
「それなら尚更僕に感謝すべきじゃない?」
「はあ? なんでだよ?」
「だって、僕が間違って人間を殺すおかげで、罪を庇ったルマが寿命をゲットできるじゃん。ほら。やっぱ僕たちってセット」
「……否めない」
「いな……稲?」
ノアは言葉の意味を知らず、こてんと首を傾げた。無邪気さを秘めた目で、心底不思議そうにルマを見上げる。
ルマはこの目に弱い。飴玉みたいに透き通った色をしているのに、その奥にはどろりとした、水あめのような甘い欲がある。
なんだか胃もたれを起こしてしまいそうだ。
「はぁ。なんかお前と話してると、俺の穢れた部分がどんどん暴かれていく気がする」
「穢れた部分? ルマにそんなとこないでしょ」
「いいや、あるね。俺は悪魔だから」
その横顔は切なげだ。
ルマの方こそ、天使が向いている。
本当は誰よりも綺麗な心を持っているというのに。
ルマの拳を、ノアは両手で包み込んだ。
「痛いの痛いのとんでけ~」
さするように手の甲を撫で、ぎゅうっと握った。体温が宿る。
想定外の行動に、ルマは鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開いている。
「あれ、ちがった? なんか辛そうだったから、人間がやってたの真似してみたんだけど。他になにかあったっけ? あ、ひーひーふー? この前赤ちゃん宿してあげた家族がやってた」
とんちんかんな、励ましなのかもわからない言葉に、ルマは吹き出した。
背中を丸め、しっぽでペチペチと地を叩いた。
「なんで笑うのさ?」
「いや、ごめんごめん。効いた効いた! さすが天使様だな」
「わぁい。褒められた~」
上機嫌な天使のふわふわ頭をなでる。ノアは目を細めて頭をルマのほうへ傾けた。
すっかりいつも通りのルマに、ノアはほっと胸を撫で下ろす。
「さて。俺はそろそろ地獄へ戻るわ」
「え、もう行っちゃうの? 次いつ会える?」
ノアはルマの腕に縋り付き、上目遣いできく。またあの目だ。抗えない加護欲やらが沸々とよみがえってくる。
「じゃあ明日な。今日みたいにここで待っていてくれ」
「やたー。ルマだあいすき♡」
「はいはい」
ルマは半ば投げやりに言い放ち、適当に頭を撫でてやる。すっかり扱いを覚えたようだ。
「んじゃ、また明日な」
「うん。ばいばーい」
黒い羽を翻して、ルマは地獄への道のりを行ってしまった。残されたノアは彼の背中が見えなくなると、振っていた手を雲の中に突っ込んだ。
「ふぎゃっ!?」
雲の中で”何か”を掴むと、その何か、は短い悲鳴をあげ、雲の外へ引きずり出された。
「な、なにをするでありますか!?」
手のひらサイズのそれは、神様に使える妖精だ。人型をした姿に、透明な羽が生えている。ノアはそれを掴んだまま、目線の位置まで持ってくると、睨みつける。
「なに盗み聞きしてんの?」
さっきよりも一トーンも二トーンも低い声色。言葉にいくつもの棘が含まれている。
その様子に、妖精――リンの目は弧を描いた。
「いやぁ、滑稽滑稽! “大天使様”ともあろうお方が、下級の悪魔相手にそこまでご乱心とは! いやはや、困ったものですなぁ」
リンは突き刺すような視線に少しも怖気づくことなく、飄々と言ってのけた。
ノアがリンを放り投げると、二、三度バウンドして転がった。そしてすぐ、宙を飛んでノアの眼前に戻ってくる。
「い、痛い! 何をするでありますか!!」
「飛べるくせに、被害者面しないでくんない?」
「まったく! もう少し、ルマ様といるときのように可愛げを出してくれてもいいのに!」
「ルマ以外の前で可愛くなっても意味ないでしょ」
ノアは雲に手を伸ばし、かじりつく。力加減を間違えた奥歯は、怒りを象徴するように音を鳴らした。
先程の真ん丸目は鋭く吊り上がり、虚ろな目でリンを睨みつける。
「まるで獣のようですなぁ」
「……その羽むしり取るよ?」
「ちなみに知ってます? それ、雲じゃなくて、”ここにいきついた人間の魂”ですけど?」
ノアは沈黙する。そうしてまた、それを頬張った。
「うん。知ってる。だって”俺”、大天使だし」
甘い。甘味が口内に広がる。恍惚とした表情で、天使は天を仰いだ。
「非道! さっさと堕天すればいいのに!」
「堕天できるならさせてよ、むしろ」
ルマは危うい存在だ。
人間を殺せない悪魔が、自分の知らない間に死んでいそうで、ノアは気が気じゃない。
そのため間違えた体で人間を殺して、ルマを呼びつけていたが、今日でその手は封じられてしまった。
もういっそのこと、堕天して地獄に行った方が手っ取り早い気さえしてくる。
「真面目な話、堕天は無理でしょうねえ。ルマ様が罪を庇うおかげで、表向き、ノア様は行いのいい大天使様なんですよ。あぁ、可哀そう! こぉんなに性格が悪いのに!」
「達者な口だね? 縫われたい?」
「消されてもいいのであれば!」
「ちっ」
リンに手を出せばノアは神様に消される。それでは本末転倒だ。
「あー、くそ」
乱雑に頭を掻きむしると、凝り固まった首をごきり、と鳴らす。
「天使に助けられる悪魔なんて、”前代未聞”でしょ。ねぇ、ルマ」
闇深い瞳が、地獄の方を見やる。相変わらず黒くすさんだオーラが淀めいている。
ルマはそんなところにいるべきじゃない。
もっと澄んだ場所が似合うよ。
「ま、天国に戻ってこれないなら、俺が行くしかないか」
ノアは雲に突っ込んでいた足を出す。
推定一八〇センチの大男は、のそり、と立ち上がると、地獄への道のりを歩きだした。