第1章
立派な杉の木に掘られた鹿田組の看板。
その看板を無機質な床の上で撫でる傷だらけの大きな掌。
父が組長を務めていた極道一家・鹿田組は、今日で終わりを迎えようとしていた。
「パパ…、そろそろ行こう。八雲さんずっと待ってるよ」
随分小さく感じられるようになってしまったその背中をさする。
ボロボロのブラインドの隙間から、駐車した車の前でじっと立つ八雲の姿が見えた。
かつてはギラギラと煌めいていたこの街が徐々に光を失い始めてから、鹿田組が解散するのも時間の問題だと構えてはいたが、こんなにも早くその時が来てしまうとは。
父はやっと重い腰を上げ、すっかりもぬけの殻になった事務所をぼうっと眺めながらパチリと照明の電源を落とした。
「…呆気ないもんだな」
階段を降り、ビルの外へ出ると待ち構えていたように八雲が車のドアを開ける。
八雲と会うのも最後かもしれない。
八雲は鹿田組の若頭兼組長の運転手だった。
歳は2つしか変わらないが、中学を卒業してすぐに組に入ったからか私よりもずっと大人びていて、彼が心を乱したり声を荒らげるところは一度も見たことがない。
こんな時でも普段と変わりない表情の八雲を見ると、いつも通りの明日がまた来るような気がして切なかった。
車に乗り込み、車窓を眺める。
幼い頃はこんなに暗い街ではなかった。今は夜空を見上げれば星が見えるが、私は静かに瞬く小さな星々よりも、ギラついた蛍光色のネオンの明かりに照らされる浮かれた人々を見る方が好きだった。
歓楽街を楽しそうに眺める私を見て、父はいつも困ったように笑っていた。
もう数分で自宅に着くというところである。
角を曲がると正面からハイビームを焚いた車が逆走してきた。
思考する間もなく、私達の車は凄まじい衝撃に襲われたのだった。
────
「…………はっ……!」
目が覚めるとそこは見知らぬ天井だった。
…いや、天井じゃない。これは……天蓋?真っ白なレースがベッドを覆っている。
反射的に起き上がると頭がズキンと痛む。
頭を抱えて記憶を整理しようとしたが、脈打つような痛みに耐えることで精一杯だった。
耐えきれず呻き声をあげた瞬間、部屋の扉が勢いよく開き、クラシカルなメイド服を着た女が飛び込んできた。
「お、お嬢様…!!お嬢様がお目覚めに……!!」
メイドを皮切りに次々とやけにレトロなコスプレを着た人々が部屋になだれ込み、あっという間にベッドの周りを囲んだ。
その中に1人白衣を着た男がおり、コスプレ集団をかき分けて私の頭上に手をかざすと、何やら小声で呪文のようなものを呟いた。
「…なに?」
「治癒魔法を施しておりますので、そのまま…」
治癒魔法…?
私の頭上に手をかざす白衣の男と、見守るコスプレ集団。
ここは…メイド喫茶か?いや、私の住む街にはメイド喫茶は無かった。
スナックのハロウィンドッキリかとも思ったが、その割にはこの人々の神妙な面持ちは素人の演技には見えない。
そもそも見覚えのある顔が1人もいない。事故に遭い他の都市の病院に運び込まれたのだろうか。
思考を巡らせていると、白衣の男がスッと手を降ろした。
「さぁ、お身体はもう大丈夫ですよ。でもしばらくは無理をしないでください。」
言われてみれば目覚めた時の頭痛はすっかり消えていた。
そういえば頭だけでなく身体のどこも折れていない。凄まじい衝撃を受けたはずなのに。
「私は事故に遭ったんですよね?」
「覚えていらっしゃるのですね。その通りです。お嬢様はお父様と乗った馬車で事故に遭い、10日間も眠っておられました。」
「ば、馬車……?」
やはりドッキリか。この人達、キャラ設定へのこだわりが強いな…。
だが父と乗った車で事故に遭ったのは間違いないようだ。
こんなに能天気にドッキリを仕掛けてくるのだから父も無事なのだろう。
その時、メイド服を着た1人が私の思考を察したように口を開いた。
「ご主人様もご無事です。少し前に目を覚ましましたが、大事をとってお部屋でお休みになられています。しかし…」
「しかし?」
「少々記憶の混濁が…落ち着くまでお嬢様はお会いになられない方がよいかと…」
父の話が出た途端、コスプレ集団は皆気まずそうに視線を逸らす。
そうは言っても父の事故後の容態を確かめないわけにはいかない。
高そうなシルクの掛け布団を自ら剥ぎ、すっと立ち上がる。
「そこのあなた、父の所へ案内してくれますか?」
先程発言をしたメイド服の女性に声をかけ部屋を出ると、まるで中世ヨーロッパのお屋敷のような立派な内装が目に飛び込んできた。
艶のある木目の床に鮮やかな深紅のカーペット、上品に光を落とすシャンデリア、手摺などもよく手入れされているようで一筋の曇りもない。
ここは一体何の施設だろうか?ここまで再現度が高く保存状態も良い施設なら観光名所にでもなっていそうだが…。
キョロキョロと見回していると前を歩いていたメイドが立ち止まった。
「こちらにいらっしゃいます。…お嬢様、どうかお気を落とされませんよう…」
どういう意味?
というか、このドッキリのオチは一体何なのだろうか。
父がいるという部屋は他の部屋よりも大きくて重たそうな扉だったが、メイドの慣れた手つきによりゆっくりと開かれた。
「パパ、だいじょ……………………
……誰?」
部屋に置かれた大きなベッドの上であぐらをかいてこちらを見据えているのは、父ではなく全く見知らぬおじさんだった。