サイレン
「ただいま」
「おかえりー、めしー」
僕が玄関の扉を開けると、床に突っ伏している火恋が、虫の息のような声で出迎えた。
「うるさい。僕にそんな気力は残っていない」
「つくれー」
「踏むぞ」
「はっはー、この家の経済力である火恋様を踏むとは、いい度胸じゃないかぁー」
「…………」
僕は空中に留まる足を引っ込め、火恋を跨いで自室へと向かった。
火恋の言葉の通り、現在の志水家は、火恋のお陰で経済的問題が解決されている。火恋が来るまでは僕がバイトをして、どうにか家計を遣り繰りをしていた。そこを突かれては返す言葉もない。
火恋は『とあるバイト』をしており、曰く「がっぽ、がっぽ」だそうだ。
『とあるバイト』の詳細については頑なに教えてくれない。妹が犯罪者でないことを祈るばかりである。
服を着替え、火恋のご要望通りに夕飯の準備を開始する。
しかし、冷蔵庫の中身を見てみると、ろくな食材が無かった。これでは料理が作れない。
「火恋、残念なお知らせだが食材が無い。よって、火恋を買い物係に任命……ああー、そうだな。任命したいところだが僕が行ってくる」
彼女の機嫌をこれ以上損ねないためには、僕が買い物に行くしかないのだ。
火恋は舌打ちしてから「早く帰ってきてよー」と言うと、自分の部屋へ行ってしまった。
*
家から徒歩5分に比較的大きなスーパーがある。基本的に買い物はここでしている。
ピーマンが安くなっていたので、夕食はピーマンの肉詰めに決定。
ピーマン、挽肉、玉ねぎ、切らしていた調味料や、火恋の昼飯であるカップ麺も数点カゴに入れ、レジに並ぶ。
腕時計を確認すると、時刻は午後5時。レジは食材を買いに求めた人たちで混んでいた。ようやくレジに来た時には5分経過していた。
そして、レジ打ちの人が知り合いだったことに気づく。
「あ、お久ぶりです」
「……ども」
前髪は表情を隠すかのように長く、後ろ髪も肩まで伸びている。身長は180cm以上はある高身長。《《彼》》は隣の家に住む金良さんだ。
金良さんはスーパー以外でほとんど見かけることは無く、レジ打ちのバイトをしていること以外の情報が全くない。近所付き合いも良い方ではないらしく、僕の知り合いの中で一番の不思議な人だ。
スーパーでの買い物を終え、近くの交差点に立っていた。赤信号が青信号に変わるのを待っていると、ポケットの中のスマホが震えた。スマホを取り出すと、火恋からの着信だった。
「どした?」
「いますぐ店の中に戻りなさい!」
不思議に思って電話に出ると、音割れが起きるほどの大声が耳元を突き刺した。すぐさまスマホを耳から遠ざけた。
「うっさいぞ」
「どうでもいいから早く店の中に戻れって言ってんの!」
「わかった。わかったから大声で叫ぶのをやめてくれ」
火恋の言葉に疑問を抱きつつ、素直にスーパーの中に戻った。
「何か買って欲しいものがあるのか?」
「そんなものはない――そうね、ウナギが食べたいわ。ウナギ!」
「今日は土用の丑の日でもないぞ」
引きこもり過ぎて日付感覚も忘れ去ったのかと妹の心配をしつつ、その脚は鮮魚コーナーに向かっていた。さすがにウナギは売っていないよなと首を捻っていると「きゃああああああああっ!!!」という甲高い叫び声と同時にガシャン! と何かが潰れるような音がした。
店内が騒がしくなる。出入口に人が集まっていた。僕もそれにつられて駆け寄ってみる。
「――嘘、だろ……」
目の前の光景を現実と認識したくなかった。
折れ曲がった電柱。
『救急車! 救急車は呼んだのか!』
前方が大きく潰れた青色の車はフロントガラスが割れ、赤の液体が滴り落ちている。
『警察も呼べ! おい、意識がないぞ!』
近くにはぴくりとも動かない、地面に突っ伏したワイシャツ姿の男。
『運転手がいないぞ!』
そこは、僕が火恋の電話を出るまでに立っていた場所である。もしも彼女の電話を出なかったらと考えたら――背筋の冷や汗が止まらない。
恐怖心がそうさせたのか、僕はウナギのことなど忘れて早足にその場を去っていた。
ドクドクと煩く脈打つ心臓が、遠くから聞こえるサイレンの音に似ていた。




