もう一人の主役
今にも崩れそうなボロボロの屋根の隙間から、白く輝く月が顔を覗かせている。溢れた光が照らしているのは月から舞い降りた天使と呼ばれても納得がいくほどの美少女だった。
彼女は存在不確定と呼ばれる凄腕の暗殺者。「その人物は実在するのか証明できない、雲のように掴めない存在」と言われたことがその名の所以だった。
ここは都市部から離れた山の中にある廃工場だ。崩れた壁から見下ろす角度で街の輝きを見ることが出来た。こんな場所で熊などの狂暴な野生動物が現れたら洒落にならない。だが、そんな心配をしている余裕はない。
僕は、すでに危機的状況に陥っている。
「どうして理解してくれないの」
相変わらず、この台詞だけが春の夜空に響き渡った。
「結婚して、二人だけで幸せに暮らそうよ!」
少女は目の焦点が合っておらず、ふらふらとしている。右手に持った血に飢えるナイフがギラリと輝く。月光の反射が死の恐怖へと直結して背筋を凍らせる。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
「結婚してくれないと……殺すから!」
「やめてくれ! ナイフを下ろしてくれ!」
「うるさい!」
ついに、激昂という名で自制の枷が外れた少女は僕に向かってナイフを突き出した。
勿論、そう簡単に殺されるわけにはいかない。けれども争う意思もない。どうやって弁明すればいいのだろうか。そもそも、弁明も何も今の彼女に僕の言葉は届かないように思える。
彼女の脳内には理想の人間が浮かんでいるだけ。現実《僕》なんて見向きもないのだ。
それでも僕は彼女を救い出したい。
どこから?
理想から?
幻想から?
過去から?
答えなんて何処にも見出せない。
「…………」
どうしてこんなことになったのか、自責の念を募らせるのは身勝手だ。そんなことは言いたくない。彼女にすべてを押し付けているようで、嫌だ。
思考の刹那、視界で人影が揺らいだ。紅い瞳が弧を描いて飛んでくる。
「―—ッ!」
獣が如き勢いで飛び掛かって来た彼女を、間一髪で回避する。砂埃が舞い、代償として無様な後転を披露した。
心臓がバクバクと煩く脈打っている。いまの一撃を喰らってしまったら——。
考えるだけ無駄なこと。
膝が擦れて血が滲んでいる。全身にアドレナリンが駆け巡り、痛みなんて感じない。
「……来いよ。殺してみろ。僕は…………僕なんだから」
どうしようもない状況で、威勢だけが今の僕に残った。
「…………――はそんなこと言わない。だから——殺す」
大層立派な幻影を見ているものだ。僕は彼女の思っているほど出来た人間ではないというのに。




