空
インワールド内で年に一回行われる飛行機による大陸縦断エアレースが今年も開催されていた。それは、あらゆる飛行機がスカイボックスやセキュリティーシステムの間を次々に切り抜けてデッドヒートを繰り広げている際中、Break sea上空3500mでの出来事だった。トップで前方を飛行していたモー選手が、複葉機の座席から突然姿を消した。いや、連れ去られたのだ。モー選手と呼ばれた9090mo9090のアバターの最後を見たのは、ライバルである通称ブロリン選手、アカウント名burorinだった。モー選手は複葉機の操縦中に、空から来た何かによって上空へさらわれていったのだ。ブロリンは見た。遥か空の上から伸びてきた半透明の影は、イカの触手のようにうねっていた。ありえないことだが、そいつはモー選手のアバターをひっつかむとパイロット座席から引きはがしたのだ。そして伸ばしたゴムが一気に戻るように、彼と共に一瞬で空の彼方に消え去った。あとには無人の複葉機だけが空しく直進し、描画の外へ消えた。
ブロリンはレースを放棄して高度3000mにあるスカイ滑走路に舞い戻り、大会関係者に画面の中で見たことを必死に伝えたが誰も信じなかった。それどころか、エアレースをリタイアした者が、悔しまぎれの妄言を吐いているような扱いを受けたのだ。主催はブロリンに視点一つくれてやることもなく、インワールド内の表彰式を取り行った。表彰台に上がって初優勝に輝いたのは、ブロリンの操縦していた戦闘機F15イーグルの後ろをメッサーシュミットで追い上げていたibarakingであった。
「では、イバラキングさん。勝利の言葉をどうぞ」
「納豆のように粘り強く頑張った甲斐がありました。ええと、モー君とブロリン選手が途中でレースを投げ出したのは残念ですが、こ」「の初優勝を素直に」「喜びた」
表彰台の上で両手を動かしてチャットを打つイバラキングのアバターが、上空へとすっ飛んでいった。その場の全員が見た。飛行したのではない。空から胴体を伸ばして降りてきた半透明の何か細いものが、イバラキングのアバターの首に巻き付いて、表彰台の上からさらなる高みへと奪い去ったのだ。
「なんだ今の?イタズラ?」
「テロか何かなのか?」
「イバラキングどこいったんだ」
大勢が仮想世界の澄んだ青い空をマウスルックで見やったが、そこには電子の薄雲が静かに流れているだけであった。
その日を境に、空からくる何かがアバターを連れ去っていくという噂が、外部SNSを通して仮想世界中に流れた。連れ去られたアバターがどうなったのかは誰にもわからない。アカウントはログインしたままIMを送っても返事がなく、中の人がサブ垢で復帰することも無かった。運営であるリンデン・ラボの回答としては、そのような現象はあり得ないし、関与もしていないということだった。
ブロリンは自宅に友人のenemaguraを呼んで、自分の目撃したことを話して聞かせた。
「本当なんだエネくん。この目で見たんだよ。うっすらとした長い何かが、あっという間にモーのやつを上空へ連れて行ったんだ」
「ふーむ。今はどうなのか知らないがSIMの上空って21億mあると前に誰かに聞いたことはあるよ。地球から月までの距離の5倍強だってさ。俺たちって高層ビルのダクトのような長い長い空間の底で、紙のように薄っぺらい世界に町を築いて遊んでるんだぜ。想像もつかないほど高高度の仮想空間に何かが棲みついたのかもよ。異世界の存在とかな」
昔はSIM天井までアバターを一気に吹き飛ばす兵器も存在したらしいが、ブロリンもエネもrez限界の4000m付近より上にはほとんど昇ったことがなかった。エネは冗談で言ったようだが、色が変わるだけの虚空だと思っていた頭上の空に、得体のしれない何かが潜んでいるというのは仮想空間とはいえ落ち着かない気分がする。
「まぁいつもの公園にでも行って皆と遊ぼうよ」
エネの誘いでブロリンは常連のフレが多い公園広場にテレポートで移動した。
ところが公園は大騒ぎの真っ最中だった。7~8人ほどのアバターが遊具やベンチの上でもがいており、強力な掃除機を前にしたゴミのように、あっと言う間に空へ吸い込まれて行くのが見えたのだ。
「逃げろエネくん!」
ブロリンがそうチャットを打った瞬間、彼のアバターも天と地が逆転したように空の彼方へと落下するように消えた。エネはすぐにTPでホームに戻り、ブロリンにIMを飛ばしたがいくら待っても返事はなかった。エネは友人のブロリンを心配しながらもその日は眠りについた。
その夜のインワールド内のこと。誰もいない公園広場の夜の上空から多数のアバターがゆっくりと降りてくる姿があった。皆がシェイプ編集中のようなポーズで直立し、T字に両手を広げている。高さはバラバラだったが、全員が空に吸い込まれて行方不明になっていたアバターたちであった。彼らは個人SIMや大陸を問わず、仮想世界内のあちこちへと静かに降り立っていった。
あくる日の朝、エネはまだ家族が起きてくる前にSLにログインし、昨日の公園広場に恐る恐るTPしてみた。そこには何事もなかったかのように、普段の友人たちのアバターと共にブロリンもいたが、どこか変だ。はて昨日の光景は夢だったのだろうか、エネはそう思うながら彼らに近づいて行った。何かおかしいと感じるのは、全員が編集中のようなポーズをしていることである。
「zagagagars paheseadododododa herolarom rumomomomoral」
「resyacaha difrolakimamamama 」
「mudira iroooohza munlasssss actrururururun」
「bagafada syaeroyu dareiibae yorirorororororon ritototototoe」
彼らは聞いたことも無い原語で対話していた。英語でもスペイン語でもない。
「おいブロリン。昨日は大丈夫だったか?」
エネはT字の姿勢のままでいる友人に声をかけた。
「ああ、エネさん。どうかしましたか。私はとても元気で馴染みます。今日も一日おはようございます。現実世界はいい環境ですか?水の星は塩分が多めですが、全ての栄養価ととても綺麗で住みやすいと思います」
「……お前誰だ?」
何か違和感のある日本語。ブロリンの中身は明らかに別人だと思われた。
「orozae reliyufelea nnninnnnrururoru fefefefe gugugagugu dododo」
「reenadorezago giiiiiinua agiagaganedoda」
ブロリンと共に数名がエネの方を見て何か言葉を交わしている。編集ポーズのアバターたちは墓場の十字架のようにすべてこちらを向いていた。エネは急に怖くなり、その場でログアウトをしてしまった。次にログインする時はヴューワを落とした公園ではなく、ホームで行おうと思った。
「朝食ですよ」
一階から声がかかった。もうそんな時間か。家族はもう皆起きているようだ。エネはPCをシャットダウンすると、二階から階段を下りて台所の食卓へ向かった。そこはすでに家族全員、両親と弟が食卓を囲んで揃っていたが、誰も座っていなかった。全員が直立し、両手を左右へ伸ばしている。まるで仮想世界のアバターの編集中のポーズだ。食卓には皿が家族一枚分と、冷蔵庫から出したばかりの生肉が載せられていた。
「全ての世界で昨日も明日もおはようございます。仮想世界からの移動は速やかに行われます。死んだ栄養価は代用です。生きた栄養価は一つ残して特別な日に摂取。一つの家に一つの家畜。でははじめます」
家族の口からは半透明の触手のようなものが伸び、それはエネの見ている前で皿の上の冷たい肉に巻き付いた。