滅びぬ影は死神と言ふ
山中を出て、舗装された道を駆けるルクバトの上で、仁美が不安げに呟いた。
「無事だと、良いですけど...」
「まだ消えちゃいねぇだろうが...離れてるからかもな。そうだ、俺の背中にまだ残ってんだろ、なんか赤い奴。」
見えるか?と肩口をずらす健吾だが、如何せん身長が違いすぎる。揺れる馬上では膝立ちも危険だ、仁美は首を横に振る。
腕に巻きついていた小竜の精霊が、肩に移動して『キュ!』と一声鳴いた。文様は残っているらしい。
「あんのか?ならアイツは大丈夫だろ、すぐに動けるかは分かんねぇけどな。」
「獅子堂さん、は...?」
「大分良くなった。この調子なら、数十分で動けそうだ。」
片手を手綱から離し、グルグルと回して見せるが、そっちの腕はそもそも刺されていない。
呆れた様な可笑しい様な、複雑な気持ちで笑う仁美に、彼女の精霊が声を上げた。
「どうしたの?」
「あ、悪ぃ。俺の携帯が震えてんだ、メールかな?確認してくんねぇか?」
「失礼、します...」
画面を見ながら片手で乗馬など出来るはずは無く、健吾は仁美を抱えながら頼む。
お腹に回された手と、男性のズボンのポケットを探るという行為にドギマギしながらも、取り出した携帯を開く。
「ガラケー...」
「いや、最近のは使い方難しくてよ。ていうか、何度か見てるだろ?」
「いえ。メールってどう開くのかなって...あ、出来ました。」
開いたメールを確認して、すぐにムッとした顔をする。不機嫌な気配を感じて、健吾は顔を逸らさずに聞いた。
「なんだった?」
「双寺院さん、からでした。何処かの住所と、報酬の用意があるって...」
「報酬だぁ?どういう事だ?」
「情報を買う、ってあります。多分、魔羯登代さんの個人情報です。別行動をするって意思表明じゃないでしょうか。」
「なんか毒のある言い方だな...?」
健吾の呟きは誰に拾われる事も無く、結果として会話が途切れる。ルクバトの蹄の音だけが響き、夜の風が肌を撫でて熱を奪う。
少し開けた場所から、下から広がる火の手が見えた。大分近づいている。もう少しすれば、ここまで熱波が届きそうだ。
「は、寒くなくて良いかもな。」
「熱くないですか?こんなに大きいと。」
「さぁ、火に囲まれた事なんざねぇしな。でも急ぐに越した事は無さそうだな...」
山道はいくらか分岐しており、急ごうにも手段が無い。総当たりしか無さそうだ。
「仁美、どの道が良いと思う?」
「え、と...下の道からでないと、火が回ったら行けないと思い、ます。」
「それもそうか。頼むぜ、ルクバト。」
首を叩く健吾に、手綱を握れと言わんばかりに首を振って、勢いよく駆け出す。
慌てて手綱を握る健吾と、しがみつく仁美。二人の目の前を、木々があっという間に流れていく。
それから、思いつく限りの場所を巡った。案内板を思い出しても、これ以上に建物は無い。
「だぁ!無駄に時間食ったな...」
「後は、立ち入り禁止の奥だけ...です。」
「つーか、監禁なんざするんなら普通にそっちだよな...なんか警察にも追われてるしよ。」
ルクバトから降り、足を休めていた健吾が溜息を落とす。とはいえ、回った場所の幾つかが炎に包まれている以上、先に回ったのは失敗ではなかった...と思いたい。
徒労感が募りつつも、時間が惜しい。すぐにでも奥の道を進むべく、休憩も程々に立ち上がった。
「こっからは歩きだな。流石に道が悪すぎる。」
「落ちないように、気をつけてください、ね。」
「だな...こういう時はサソリが羨ましいぜ。」
ルクバトの蹄では、二人の体重がかかれば土が崩れてしまうだろう。そもそも、山地を歩くようには出来ていない。
後ろから着いてくるルクバトが、イラついたように後頭部を小突いてくる。文句を言うなと言うことだろうか?
「いってぇな...」
「獅子堂さん、前!前見てください!」
「んぁ?前ってぇ!?」
『キュー...』
額に枝をぶつけ、その場にしゃがむ健吾に、肩の上の精霊が呆れたように鳴いた。運良く落ちなかったが、バランスが崩れれば危ない場所だ。口を閉じ、微かな月明かりを頼りに道を進む。
そうしてしばらく歩いただろうか?ふと足元の感触が硬くなった。
「お...なるほど、元々あった道が崩れてたって訳か...こっから先は無事みたいだ。」
「かなり古い、ですね。崩れた後、立ち入り禁止になってからは補修されてないみたい...」
「ま、アスファルトよりはコンクリのが長持ちだろ?山ん中の建物といや、コンクリだろ、多分な。」
道があるのだ、その先に何も無いと言うことは無いはず。潜伏にも監禁にも使えそうな場所が、あるといいのだが。
舗装路に変わった以上、ルクバトに乗っていこうと振り向いた二人の前で、軍馬は一点を見つめて動かない。
「上になんか、あんのかよ...?」
「これ...霧です。こんなに暑いのに...」
斜面を滑ってくるそれに、怪訝な顔をする間もなく、ルクバトが二人を突き飛ばした。瞬間、アスファルトを生物質な弾丸が抉る。
「これ...!」
「もう追いついて来やがったって事は...アイツは...」
契約した時の痛みは、太腿にあった。すぐに見ることの出来る位置でも無いため、確認は諦める。
すぐに肩の上の【辿りそして逆らう】を、仁美に押し付けてルクバトに跨る。意図を組んで山を駆け上がってくれるルクバトに、健吾は首を叩いて激励した。
「よっしゃ、頼もしいぜ!」
見えない位置から狙撃されるより、目視できる位置に居てもらう。あの目立つ体色に変化したのなら、尚更だ。
守りに専念すれば、【辿りそして逆らう】はとても優れている精霊だろう。仁美はこれで安泰だ。
ルクバトも健吾一人であれば、山を駆ける事も可能だ。【疾駆する紅弓】のような騎乗技術は無いため、本当に駆けるだけだが、今は移動こそ一番の優先事項だ。
「うぉ!?撃ってくるまでが速くねぇか?」
すぐに放たれた針が木に突き刺さるのを見て、健吾が驚愕の声を上げる。
僅かに湯気を漂わせるそれは、再生したばかりの硬度しかなく、細い若木も貫く事は無い。木々の間を縫う駿馬にそれが当たることは、万に一つと無いだろう。
『シュアアァァ!』
「すげぇ迫力、あんまり弱ってねぇな?」
振り切れればと思ったが、それも難しそうだ。しがみつくに等しい乗り方の健吾では、ルクバトも走りにくいのだろう。
針が当たらないと察したのか、走る速度を上げて距離を詰めてくる精霊に、健吾の焦りが募る。
すぐ後ろに感じる熱波、募る危機感に、首筋がピリピリと痛む。警鐘があまりにも強く鳴り響き、頭が割れそうだ。
『シイィ!』
「うぐっ!」
遂に追いついた【魅惑な死神】が、その触肢を振り払う。健吾の肩を掠め、強い衝撃に落馬する。地面よりも先に木に激突し、背中に崩れるような痛みが走った。
すぐに追撃を狙う紅蠍だが、取って返した軍馬の体当たりにバランスを崩した。明後日の方向へ放たれた針が、色付いた紅葉を散らす。
「まだ...動けんだよ!」
骨は折れてない、肺に血も溢れていない、ならば支障は無い。噛み締めた唇から垂れた血を舐め取り、健吾は即座に走り出す。
狙いは吹き飛んだ時に見えた、【魅惑な死神】の背中。そこに付きたった矢だ。無謀な突進に合わせ、ルクバトが併走する。
「サンキュー、頼んだ!」
『ブルル!』
怒りの混じったような唸り声を返しながらも、振るわれた触肢に蹴りあげた脚を合わせる。
蹄と甲殻の打ち合う音を耳元で聞きながら、向かってくる鋏角を去なして足場にする。飛び乗った背中の上で、矢を握りしめて踏ん張った。
「そーら、ここなら何も出来ねぇだろうが!」
疲労するまで体力勝負といくつもりで声を荒らげた健吾だが、すぐ横に尾節が突き落とされて硬直する。
見えはしないものの、攻撃は届く場所らしい。やたらめったらに攻撃を繰り返され、先に疲労するのを確信した健吾が勝負に出る。
繰り返される刺突の中、手の中の矢に体重をかける。妙に柔らかな感触がかえって来て、直後に悲鳴が轟いた。
『シュアアァァ!!』
「良いとこに刺さってんじゃねぇか!」
返してくる肉の弾力に、逆らうように力を込めた瞬間、凄まじい勢いで蒸気が吹き出した。あまりの圧力と熱気に転げ落ちた健吾を、ルクバトが背に乗せて離脱する。
駆け寄った紅馬に咄嗟に捕まった健吾だが、全力で矢を押し込んだ為か腕が痺れ、途中で再び落馬した。今度は受け身こそ取れたものの、絶対的な隙を晒してしまう。
「っ!...あ?なんも来ねぇ?」
怪訝な顔で振り向いた彼の前で、白い霧が晴れていく。足元に散らばった紅色の甲殻の中から、濃紫の死神が這い出てきた。
二本の触肢を掲げ、威嚇するその姿。疲弊も損傷も無い精霊が、ゆっくりと尾節を向ける。
「ボケっとしてる場合じゃねぇ...!」
飛び退いたその足元で土が爆ぜ、伝う冷や汗が地に落ちた。甲殻の色が戻ると共に再生速度は落ちたようだが、精霊を相手にしている時点でそれは誤差だ。
すぐに距離を詰めてくる精霊に、人間が追いつける筈も無く。数回も触肢を突き出されれば、片腕を捕らえられる。
「ぐ、あがああぁぁぁ...!!!」
骨が歪み、肉が千切れる音と共に、身体が上に持ち上げられる。ユラユラと狙いを定める尾節が、目の前に突きつけられた。
月光を照り返す湿りが、濃厚な死の気配を漂わせている。腕の千切れそうな痛みより、身体を捻って抜け出す事に専念する。
それでも、獲物が逃げられるなら捕食者とは呼ばれない。ただ出血が増えるだけの腕に、焦りばかりが募る。
「クソが、外れろ...外れやがれぇ...!」
振り上げる足が甲殻を叩く音が、虚しく響いていく。脱皮で使った体力が戻ったのか、ピタリと静止した尾は心臓にまっすぐに向けられた。
引き絞られた尾が、突き出された瞬間に赤が宙を舞った。




