天で引かるる弓より地上へ
去っていく蹄の音に、僅かに弓弦が振動する。
目を閉じて深く息を吐き、目を開く。ピタリと固定された様な弓弦は、標的の中心へ狙い済まされていた。
『...主、残った事に後悔は無いな?』
「勿論。だってボクが必要なのは、今は君だろう?」
おちゃらけて答える契約者に、精霊は苦笑する。仕える主が、守るべき契約者が、すぐ後ろにいるこの状況下。恐るべき集中力を維持するには十分だ。
自分の性格を把握されているというのは、むず痒いものだ。それを誤魔化す様に、目の前の現実を直視する。
「もう良いかしら?」
『待たせたようなら申し訳ない、すぐに楽にしてやる。』
手始めとばかりに数発を射掛け、目と尾節を狙う。
分厚く変化した触肢と、硬い尾の針。慣れてきたのか、飛んできた矢に対応してみせた【魅惑な死神】に、続けようとしていた四射目を諦める。
『少しばかり手を変えるか...!』
「奇を衒っただけでは、何も変わらないわよ?」
「ボクの騎士様を甘く見ないでよね!」
弓を背負い、矢を構えた精霊が距離を詰める。元より俊敏な上に、変化して速度に磨きのかかった【魅惑な死神】だが、その体躯は大きく動きは大振りだ。
風の者たちには一歩劣るものの、【疾駆する紅弓】とて遅くない。予備動作を見切り、回避する事は難しくは無い。
『そこだ!』
突き出された矢が、再生中の触肢に突き刺さる。甲殻に詰まった肉組織を千切ながら、深くまで差し込まれた矢を蹴りこんで離脱する。
激しく吹き出した蒸気の熱に、僅かに火傷した腕。上着を取り去って外気に晒し、痛みからは目を逸らして次の矢を握った。
「再生を塞ぐつもり?」
『異物があれば脆かろう?』
「その前に、貴方が焼けるわよ。」
『そこまで遅いと思われたのであれば遺憾だな!』
咆哮と共に飛びかかった【魅惑な死神】を紙一重で躱し、相手の自重も利用して矢を突き立てる。肉から吹き出す蒸気は脱いだ上着で軽減する。
上から襲い来る尾節を蹴り飛ばし、背後に回り込む。すぐに弓を取り出し、立て続けに三射。追うように振り向いていた【魅惑な死神】の、折れた触肢に二本が突き刺さる。
『シィアアァァ!』
『流石に痛みを感じたか?それとも威嚇かね?随分と本能的な獣だが、危機感はその類では無いらしいな。』
二本を纏めた射る【疾駆する紅弓】だが、一本は無事な触手に掠め、一本は尾針に弾かれた。
「後ろよ、【魅惑な死神】!」
『遅い。』
振り向く精霊の横を掠め、もう一発放たれる。大きく、しかし渇いた木にそれが刺さった瞬間、嫌な音が響いた。
すぐに避けようとする【魅惑な死神】の脚へ、十全に引かれた弓が矢を押し出した。絶たれたそれが力を伝えるはずも無く、巨木の下敷きになる。
『さて、出てくるまで何秒かかる?十か?二十か?それまで甲殻が持つと良いな?』
放たれた矢が甲殻を穿つより早く、次の矢を番える。目玉に、脚に、傷口に、尾に、関節に、甲殻に。次々と付きたった矢から蒸気が吹き出し、辺りを熱と霧で埋めていく。
「【魅惑な死神】!」
人間には耐えられない熱に、今なお続く猛攻。近づく事もままならず、契約精霊の名を叫ぶしか出来ない。一際大きな轟音と共に音が止み、蒸された木が霧より転がり出た。跳んで契約者の元へ着地した【疾駆する紅弓】が、ダメ押しとばかりに矢を放つ。
『弾かれたか...まだ元気な様だな。』
「えぇ、君があれだけやったのに!?」
『愚直に攻めるしか脳のない精霊だからな、我は。それで押しきれぬなら...本物の化け物だった、という事だろう。』
吹き出した蒸気に霧が晴らされ、中から紅の精霊が這い出でる。突き刺された矢が再生を阻害してはいるが、足や尾等の細い部位は貫通したのか、既に再生しきっている。
冷たい目がこちらを向き、無造作に針が放たれる。矢で弾き、そのままそれを番えた【疾駆する紅弓】に、間髪入れずに紅蠍は飛びかかる。
『ち、大分その身にも慣れてきたと見える!』
契約者を抱え、後ろへ跳んだ精霊が、空中で弓を引き絞る。着地する頃には、放ち終わったその腕で四穂を抱え直していた。
「ふぅ、ちょっとドキドキした。」
『落とさんとも。信用出来ないか?』
「ううん、出来てる。」
『それならば良い。』
いつまでも四穂を巻き込むのは疲労を招く、戦線をずらすべく、八千代へと弓を射る。
間に走り込む【魅惑な死神】を見届け、更に八千代を攻め続けた。【疾駆する紅弓】の矢を打ち払うのに注力する間は、自由に動けない。
「いつまで続くかしら?」
『無論、我かそやつが消えるまで。』
「そう、残念ね。貴方は素敵な精霊なのに。」
『ならば、殺されようと本望だろう?』
放った矢と共に走り込み、【魅惑な死神】の寸前で飛び上がる。触肢は防御に使っている為に来るのは当然、尾の一撃。
矢で流しながら踏み台にし、ついでとばかりに弓を引く。数発を放ちながら飛び越えた先は、八千代の前だ。
『観念するか?』
「素敵とは言い難いジョークね?」
引かれた弓を突きつけられたとは思えない態度で、八千代は微笑を湛えて肩を竦めた。
【魅惑な死神】が振り返って攻撃するまで、ほんの僅かな時間。疑い悩む間は無いと判断して、引手を解放する。
しかし、その寸前に視界が塞がれる。広がった蒸気、流れる空気、直感で放った矢。白い視界の中で、呻く声が聞こえた。
「これで当てるなんて、デタラメね精霊って。」
『狙えた訳では無い、その賞賛は複雑な心地だ、な!』
背後の精霊から追撃が来る前に、【疾駆する紅弓】は高く跳び上がる。霧から抜け出て、すぐに弓を引き絞って八千代を探す。
向けられた視線を感知し、すぐにそちらに弓を向けて放つ。見る必要は無い、背後に弓を向け、当たると勘づいた所で放つ。
「うっ!」
『まだ慣れんな...』
肩に続き、脚を射抜かれた八千代が転げたのを見届け、下の精霊に狙いを変える。
ルクバトがいるならば拾って貰えたろうが、今は自己防衛をせねばならない。霧の中へ矢を構え、一直線に落下する。
『穿て...!』
確かな手応えに、つい欲が出た。ねじ込むように矢を押し込み、吹き出す蒸気の中で更に力を込める。何かを潰した感触に勝ちの気配を感じ...背筋が急激に冷える。
咄嗟に弓を間に押し込むが、それで抑えられるはずも無く。尾針は刺さらなかったが、熱くなった尾節が裸体に打ち付けられ、吹き飛ばされる。
『ガハッ...!』
『シイィィ...』
眉間に深く突き立てられた矢から、蒸気を吹き上げながら【魅惑な死神】が振り返る。あれだけの怪我を負わせた筈なのに、すでに再生している。
深く到達した背と何本も付き立った折れた触肢は、再生出来ていない。しかし、今なお激しく吹き出す蒸気が、再生を諦めていないのだと悟らせる。
『ここまで、だな...』
せっかく離れた四穂の元へ戻り、精霊は彼女を抱えあげる。すぐに跳び退いたその場所で、射出された尾針が土を巻き上げる。
『主、ここを離脱する。』
「出来るの?」
『可能だ。ルクバトを追え、そして...あれを渡してやれ。』
精霊が視線で示した先は、彼の肩にかかっていたペリースだ。八千代に投げ捨てられたままにされているそれは、土に塗れている。
「あれをどうするのさ?」
『獅子の毛皮を加工した物だ。我は少し複雑でな、様々な逸話から少しずつ拝借してきるのだが...それは良い。あれならば、これ以上無い力になるだろう。』
「ん〜?よく分かんないけど...それなら自分で持っていけば良いんじゃない?」
振り向いた四穂は軽く押し出され、距離を開けられた。背を向け、弓を引いた精霊の意図を察し、その背中に声をぶつける。
「囮になる気?」
『戯言を。人馬宮は、荒ぶる天蠍宮を牽制するのが仕事だ。勝つのは我以外、有り得んよ。』
嘘偽りを吐くような性格では無い事は、このゲームを過ごす中で分かっている。勝算のない戦を挑まない事も。
「すぐ追いついてよね!」
『無茶を言うな、主。我が終わらせる前に、戻って来るが良い。さぁ、走れ!』
言葉と共に射られた矢が、瞬時に紅蠍の脚を貫く。触肢の折れた半身は防御する手段が薄く、脚の一本や二本は奪える。
すぐに再生が始まり、怒りを表現するように蒸気の勢いが増す。針が打ち出される前に尾節を射抜き、連続して放った三射で尾を切断する。
『さて、我が契約者は皆が離れ、貴様の契約者はそこで立てずにいる...互いにする事は決まったろう?』
八千代が死ねば、その瞬間に【魅惑な死神】は契約者を襲う権利を失う。
火の手が迫る中で、弓を向ける場所は考えるまでも無かった。契約者へ弓を向けて制止する【疾駆する紅弓】が、その指を放す。
『ほぅ、間に合うか。』
己の腕が、肺が悲鳴を上げているのは心の奥に押し込めて。割り込んだ【魅惑な死神】に反撃を許さない程に、弓を引き続ける。
矢は無尽蔵、弦も張り替えたばかり、相手の契約者は動けず、横槍を入れる存在もいない。己の体力の持つ限り、ひたすらに射る。
穴が空き、傷が付き、ヒビが走る。それも、蒸気に隠れた数瞬で綺麗になる。それでも、射る。
火傷が痛み、腕が下がり、爪に血が滲む。それでも、狙いを外すことはしない。ただ、射る。
『付き合ってもらおうか、我の意地にな。』
現在時刻、00時。
残り時間、1日と7時間。
残り参加者、9名。
響く蹄に揺れる馬上。痛む傷口に顔を歪める健吾に、【辿りそして逆らう】が心配そうに鳴いた。
「大丈夫だ、問題ねぇよ。それよか、急がねぇと。コイツを借りたまんまだと、アイツが戦えるか分かんねぇだろ?」
『ブルル』
心配は無用だとでも言いたげに嘶く彼を、首筋を撫でて宥めながら仁美は振り返る。
「獅子堂さん、場所は分かりますか?」
「とりあえず道に戻らねぇとな。山頂の近くに行きゃ、何かしら閉じ込めるに向いた建物とかあんだろ。」
契約者としての、精霊に引っ張られるような感覚は働いていないらしい。まだ精霊は消えていないとは思うが、弱っているのは間違いないらしい。
焦燥感を胸に抱きながら、駆けるルクバトに揺られ続けた。




