最後の一矢
よろけながらも立ち上がった【混迷の爆音】は、その笛を肩に乗せてゆっくりと歩き出す。感電のダメージは目に見えて残っている。
焦げて所々に穴の見える燕尾服も、焼けた皮膚や毛の臭いも、軽くはないだろう。
「もう動けるの?」
『精霊相手はキツいでしょうが...人相手ならば負けません。あちらの精霊は、力を使い果たした者と満身創痍の片割れですので。』
『俺っち、オマケ扱いかよぉ...片割れは酷くね?』
三成の左肩で尾を立てるポルクスに、瞑目して答えない精霊は、最後の確認とばかりに主の言葉を待つ。その感情を、哀れみにも似た僅かな期待を払い除け、登代は命じた。
「叩き伏せて、【混迷の爆音】。」
『かしこまりました。』
一言だけ落とし、山羊頭の精霊が飛び出す。光の蠢く笛が爆音を撒き散らし、それが【狩猟する竜巻】の風によって流されていく。
それならばと笛をぶん回し、直接叩きつけにいく。出血からか、笛の音からか、靄のかかる頭に喝を入れ、右腕を上げて引き金を引く。
『ぶちまけな...!』
カストルの風が運ぶ金属の塊は、黒山羊の眉間へ猛進する。これで止まると信じ、二発目を登代へ向ける三成だったが、それが間違いだった。
バキン、と硬質な音が響き、風圧が三成に迫る。弾丸が【混迷の爆音】の角にめり込んだのだと理解するのに、時間は要らなかった。
『まずは一人。』
『させねぇっつーの!』
「危ないっ!」
ポルクスが三成を突き飛ばし、そして弥勒が押し倒す。地に伏せた二人の上を、爆音を伴って過ぎ去った明滅に、朱が混じる。
遠くで数回跳ねて転がった白い精霊には目もくれず、【混迷の爆音】が笛を折り返す。ほんの僅かに意識を失っていた二人だが、笛の止まったその一瞬に覚醒し、散開する。
転がった二人の間に笛は叩きつけられ、土砂を巻き上げた。その粉塵の中から、雷光が迸る。
「はぁ!」
『むぅ、人の身でここまでとは!』
鋭い蹴撃が腕を打ち、僅かな痺れを伴う。片手で追撃に派生するのは厳しい、仕方なくその脚力を持って笛を引きづるように離脱した。
既にガタの来た身体には、その笛は重すぎるのだ。動きが鈍った【混迷の爆音】ならば、何とかなるかもしれない。そんな淡い期待を抱く弥勒の身から、弾けていた光が消えた。
『申し訳ありません、早乙女様...今ので精一杯、です。』
「っ...いえ、助かったわ。ありがとう【純潔と守護神】、ゆっくり休んでいて。」
限界を超えてもなお、龍の召喚の反動が重すぎた。静かに霞となる己の精霊に、自分の不利を理解して口を引き結ぶ。
そんな彼女に、片足を引きづりながらカストルが飛び乗る。ポルクスよりも弱いが、鋭く早いその竜巻が弥勒を中心に吹き荒ぶ。
『微力ながら、力を貸すぜ。もう旦那の方は動けないんでな。』
「夫婦とかじゃ無いから!」
『いや、そういう意図で言ってねぇって。それより、マジに頼むぜ。来るぞ!』
カストルに向き直っていた弥勒に、鋭く激を飛ばす精霊に従い、横へと身を投げ出す。靴を掠めた笛の感触に背筋を冷やしつつ、受身をとって反転、向き直った瞬間の顎を蹴りあげる。
『ぐ!』
「ふっ!」
重そうに構えられた笛に踵を落とし、バランスが崩れたその一瞬で襟を引く。軸足を素早く転換し、足を払う。
カストルの風で加速し、鋭くなった一連の動作は洗練されていた。たが所詮は人間。【混迷の爆音】の自慢の足を払いきるには至らず、厚い壁でも蹴ったような反動に混乱する。
『少々、お転婆が過ぎましたね。』
襟を掴んだ弥勒の手を掴むと、強く引き寄せて蹴りあげる。対等な戦士に向けて放たれる、一切の容赦が無い一撃。体をくの字に曲げ、数メートルも空を舞う。
「っあ、かは。」
『頑丈な...背骨をおるつもりで蹴ったのですが。』
『だろ、うな。ち...くしょう。』
全力で風を吹かせたカストルが、弥勒の懐から這い出る。激しく渦を巻くそれは、ほんの僅かに正中心から逸らし、ほんの僅かにクッションとなった。
それでもなお、この威力。カストルの下半身は完全に潰れ、弥勒の腹部にべっとりと落し物を広げていた。
「カストル...戻れ。もう君には無理だ。」
『バカ言え、兄弟。こんな無茶ぶり、最初からだろ?今更、降りろなんて...言わせねぇよ。』
もう顔の血色さえ読むのも馬鹿らしい程に、白くなった三成を風で押しやって。立ち上がろうとしていたものを転ばせる。
弥勒も暫くは動けないだろう。三成に至っては助かるかも怪しい。そんな中で、逃げる?出来るはずもないのだ、なんせ彼は...
『俺は、アンタの契約精霊だ。願いや、欲望の一つも、聞かないまんまに...死なせるわけ、にゃ...いかんのよ。出来る出来ねぇに、関わらず、よ。』
「カストル...」
『ったく、出来の悪い弟に契約者を持つと、苦労すんね...』
『ならば、楽になると良い。そうまでなっても折れぬ、己の信念にしがみつきながら。』
精霊にとって、契約者の意向こそ全て。それを聞かされなかった【狩猟する竜巻】だが、その在り方は何処までも精霊であった。
皮肉に賞賛にも似た感情を込め、【混迷の爆音】は笛を掲げる。それを眺めながら、夜空で塗りつぶした様な毛並みを靡かせ、精霊は呟いた。
『そりゃ、アンタの方だよ、兄弟。』
『何?』
『転ばせる奴はノビてるし、薬売りは居ないけどな。』
瞬間、渦巻いていた風が一瞬強くなり、掻き消えた。すぐに探そうとした時、回した首に痛みが走る。
手を当てれば、紅いベッタリとした感触が手に着いた。
『へへ、やりぃ...』
『なんという速度...見事。』
笛を杖に、膝を着いた精霊の後ろで、カストルもまた地に伏せる。もはや黒い所を探す方が難しい鼬は、赤を地面にも広げていく。
極限まで圧縮した己の風は、凄まじい速度と爪の力を与えてくれたが、我が身をも切り裂く。文字通り、最後の一矢となる手段。
「...十分よ、【混迷の爆音】。引いていて。」
『面目ありません、お嬢。』
遅れた痛みが広がる首の傷は、浅くない。いくら精霊とはいえ、あまり長く顕現していては危険だと判断したのか、登代が精霊を下げさせる。
一礼したまま透けていった精霊を超え、登代は立つ。かつての友人の前に。
「弥勒、私の邪魔をしないで。もう貴女達に出来ることはないわ。」
「それ、でも...!私が貴女の、そんな顔を黙って見ていられる訳無いでしょ!」
どんな顔なのか、不思議そうに登代が自らの頬に触れかけ...関係ない事だと手を戻す。目の前の女性はお節介なだけの他人、無関係の人物の戯言だと。
弥勒の後ろで、三成がまだ銃を掲げようともがいている。何が彼をそこまで動かすのか、それこそ弥勒の人を惹きつける力なのだろうと、嫉妬にも似た感情が膨れてくる。
「そう...どうしても、リタイアはしないのね?」
「えぇ、絶対に。」
強く言い切る弥勒に、目を閉じて深く息を吐く。手に持つメスに、じっとりと汗が伝った。
こんな事は、何度かあった。その一回に過ぎない、ましてやゲームの中だ。今しか無い、今を逃せばチャンスは無い。すぐに『ってて...どういう状況だ?』
緊迫した静寂の中、妙に響いたその言葉に、全員の注意が向く。首を傾げたポルクスが、『ホントにどういう状況だ?』と風を展開する。
その結果、彼の視線は一箇所に釘付けられた。見開かれた目の中、瞳だけが獰猛に細まっていく。
『兄、弟...?おい、嘘だろ...?』
すぐに駆け寄った精霊だが、その姿を視認できる距離に来た瞬間に足を止めた。これ以上近づけば後悔する、それがはっきりと分かった。
『なぁ、契約者さんよ。もう少しで良いから生きててくれよ...?』
「マズイ...止まれ、ポルクス!私達の目的は」
『そこの女の目的は、だ!アンタのでも俺のでもねぇ!』
牙を向いた精霊が、荒れ狂う渦を発生させる。太い木々さえざわめき、立っているのもやっとな風。狭い範囲だが、その暴風を確かに操り、白い精霊は登代に襲いかかった。
風とは逆方向に振るわれた尾が、抗っていた登代を打ちのめす。想像以上に力強い尾の一撃に、肺の中の空気が絞り出された。
『俺は兄弟より速さにゃ劣るが、タイマン張るなら負けはしねぇんだよ。あのクソ丁寧なのは出てこねぇんだろ?アンタも打ち据えてやるからよ!』
「ポルクス!...く、本当に勝手な。」
止めようとする三成だが、この風の中で動ける体ではなく、むしろ意識さえ途切れていく。その間にも、さらに数回の殴打が登代に降り注いでいた。
「しつ、こい!」
『いっつ!?』
何度目かの一撃に合わせ、突き出されたメスが差し込まれ、尾の先端が宙を舞った。赤い線が描き出され、吹いていた風が止む。
四肢を広げ、毛を逆立てるポルクス。再び風を発生させようとする精霊に、その前に契約者を殺そうと走るが、その前に弥勒が立ち塞がる。
「登代、もう止めて。」
「なら、あの子を止めてくれない?」
「登代もポルクスも、二人ともよ。」
『知らねぇな、アンタは俺の契約者じゃない。』
再び風を発し、組み合う二人を留める。すぐに飛び上がり尾を振るうポルクスに、風に逆らいながらメスを突き出す登代と、二人を止めようとする弥勒。
その最中、唐突に風が消え、ポルクスが光の粒子となって解けていく。目を見張る二人の中で、精霊達が消えた瞬間、夜闇が訪れ...鮮やかな紅が、熱を伝えた。




