牛の落とし方
潜航していく彼女達を尻目に、真樋は立ち上がって足の様子を確認する。違和感や痺れにもにた鈍さはあるが、痛みはない。
飛んだり跳ねたりは難しくとも、走るくらいなら訳ないだろう。
「相手は女性一人なんだし、問題ない...いや油断は禁物かな。」
八千代に押し倒されたのを思い出し、真樋は転がっている中から大きめの瓶の破片を拾う。破れたズボンの切れ端を巻き、指に突き立てれば血が滲んだ。
簡易的なナイフとしては、十分だろう。脅すにも殺すにも、武器はあるに越したことはない。
(まぁ...僕に人殺しが出来れば、だけど。)
自分の感性が、一般的と呼ぶにはズレている自覚はある。だがそれは、倫理観を超えて行動できる程では無いだろう。
初日に精霊に命じた時も、【積もる微力】が連れ去られた夜も、そしてこの山での事も...死ぬその瞬間を予期し、目撃する事の衝撃は大きく、今なお脳裏にこびりついて離れない。
死体も死後の姿も、腐るほど見てきたし慣れてきた。だが生きていた物が目の前で死ぬのは...まったく違う。
(とはいえ、いかないと終わらない。ピトスまで勝手に動くんだ、僕が足掻かない理由は見つからない。)
顔を見せず、何事にも従順であり、まるで己の手足や傀儡のようだった精霊。己を見ているようでいけ好かなかったが、何か理由を見つけたのだろうか、と思考をさ迷わせる。
いや、最初から熱い奴だったのかもしれない。勝手をする理由は、変わったのは、おそらく自分だ。
「らしくない、訳では無いけど。若気の至りって奴で、もう少し我儘に行ってもいいかな?」
「...突然、何の話しなの?」
「さぁ?僕にも分かってないんだ。」
精霊の様子が伺えて、隠れやすそうな位置をウロウロしていれば、すぐに見つかった。そもそも誰かから隠れるという事に慣れていないのかもしれない。
手に持つ物をみれば、相手の意向は理解出来たのか、二那は真樋が近づくのに合わせて後ずさる。自分が誰かを追い詰めるなんて、普段とは真逆の立ち位置。モヤモヤとした違和感が真樋を包んでいた。
「近寄らないで。」
「じゃ、リタイアしてくれるかい?」
「それは...無理よ。私にはもう後が無いの。」
「そうかい、同情するよ。」
後が無い。そんな言葉は聞き飽きたし、それを言う人間は多くの場合簡単に救える立場であった。逃げないだけ、頼らないだけ。自分一人で全て出来るとでも思い込んでいるような人。
言葉だけの慰めを吐いて、真樋は二那を追い詰める。ここは山であり、街中とは違う。木に、崖に、天然の袋小路が多い。
「あ...」
「どうする?飛び降りるか、刺されるか、投降するか。」
「なんで、そうまでして。人を殺すなんて、怖くないの?」
「なんで、ね...僕が聞きたいよ。けど人殺しが怖いかと聞かれれば...それほどでは無い、って答えようかな。」
未知への恐怖。罪悪感ではなく、それに近しい震えだと。二那への言葉なのか、自分への言葉なのか分からないまま、そう答えた。
NPCとは違う、命あるプレイヤー。擬似的空間でのゲームとはいえ、手にかけてなんとも思わない程に自分は冷たい人間か?それは分からない。
「最善としては、投降してくれないかな?精霊を引っ込めて大人しくリタイアだ。そこまでは連れてくよ。」
「信用出来ない。」
「そっか、なら仕方ない。」
即席ナイフを前に構え、すぐに反応できるようにゆっくりと距離を詰める。目か、首か。この小さな破片で致命傷を与えられるのは、そこくらいのものか。
届くと判断した瞬間に、一気に距離を詰める。怯えた二那が咄嗟に顔を逸らし、それは目ではなく耳を切り裂いた。
散った血が手に斑を作り、ジワリと垂れる。暖かく、赤く、生きた物の血。僅かに真樋の決意が鈍ったのを察し、突き飛ばした二那が走り出す。【母なる守護】に合流しなければ危険だと判断したからだ。
「行かせるとでも...!」
「思って、ないから、走ってます!!」
「く、思ったより速い!」
前を走る二那が、少し開けた場所に出た瞬間、顔のすぐ横を小刀が掠めていった。真樋の足元に刺さったそれは、【宝物の瓶】が握っていた物だ。
真樋の契約精霊である彼が探知出来るのは、精霊の気配。いきなり出てきた人間である二那へ、小太刀を投げつけられるとは考えづらい。
「押されてるのか。」
「良かった...無事?【母なる守護】!」
『む?そこにおったか、何をしていた?』
底なしの体力から、まったく衰えぬ暴れぶりを披露する精霊が、叫び掛けられて初めてこちらに気づく。
余裕を全身に見せながら、契約者の元に歩く【母なる守護】に、武器を失った【宝物の瓶】が踊りかかる。
『Please、私を見てください?』
『えぇい、めんどくさい!』
手刀を眼球へ突き出す【宝物の瓶】に、角を突きつけて跳ね飛ばす。鮮血が散り、宙を舞った精霊は着地する時には無傷だ。
『本当に厄介な!』
「そんな...どうすればいいの?」
『えぇい、貴様が決めんか!契約者だろう!』
怒りを顕に地を蹴る精霊は、なおも追い縋る【宝物の瓶】に角を振り上げる。腹立ち紛れに暴れる【母なる守護】には、不死身である者しか近づけない。
「ピトスに太刀を返さないとな...」
「お兄さん、大丈夫やった?刺さっとらん?」
「生憎と無事だよ。君の方は?」
「そもそも近づけへんもん...」
『我を見るな、コヤツが日和るからだ。』
下へ目を向けた真樋に、即座に反論が飛んでくる。まぁそうだろうなと納得した真樋は、すぐに関心を【母なる守護】へ移した。
二那と言い争って...いや、一方的に怒鳴っている精霊は、こちらを襲うつもりが無さそうだ。隙だらけだが、それでも致命傷を追わないフィジカルがひしひしと感じられる。常に睨みつけられている様な【積もる微力】とは、また違った威風だ。
「やりにくいな、この手合いは...ピトス、動けるかい?」
『Yes、マスター。まだ当分は動けます。』
策を講じるでもなく、簡単に武器を手渡せた事に拍子抜けしながら問えば、精霊は簡単に答えた。
明らかな致命傷だったのだ、おそらくしこたま呑んだのだろう。反動を今更ながら危惧しつつ、寿子から瓶を回収する。
「あ、ええん?」
「契約者はもう、あっちにいるしね。僕が行った方が確実だ。君は逃げてていいよ。」
「...死ぬ気なん?うち、そういうの嫌なんやけど。」
「別に、そういう訳じゃない。」
適当にあしらいながら、どうあの牛へ報復してやろうかと考えていれば、寿子に耳を引っ張られる。
強引に顔を向き合わされ、深い海の様な瞳が視界に広がった。
「お兄さん、結構嘘つきよね。分かりやすいって言われへん?」
「初めて言われたね、そんな事。」
『貴様が勝手に距離を作るからではないか?コヤツには無駄な努力だったろうがな。』
ここぞとばかりに嘲笑いにくる精霊は無視し、どう誤魔化そうか思案する。
死にたい訳では無いが、死んでも良いかと思っていたのは事実である。何故かバレている以上、下手に嘘を言っても逆効果な気がしてきた。
「まぁ、脱出の目処が無いのは認めるよ。ピトスがアムリタを使いきってしまったし。でもあれに負けるつもりはない。」
「どうするんよ。もう瓶が無いんや無かったの?」
「最悪、契約者さえ始末出来れば良いんだ。そうすれば、精霊は僕らを襲えないから。」
「そうなん?」
「...君、メール読んでない?」
もはやルールなんて忘れたとばかりに首を傾げる寿子に、真樋は呆れた視線を向ける。
方法も説明したし、人が死ぬ所を見たくはないだろう。そういう意図で見つめても、どうも伝わっていない気がする。
「...つまり、早く離脱しなよ、って事なんだけど?」
「え?お兄さん、それでどうやって帰るん?」
「やりようはあるから。」
「でも、うちとアルレシャの方が確実やし早いやろ?」
「僕の息が持たない、瓶もない。」
「突破する時だけ潜ればええやん。襲ってくる精霊も、そろそろおらんやろうし。」
確かに彼女の言う通り、気配は離れた所に集中している。近いのはそこの【母なる守護】と、山頂に数個の反応があるだけだ...なんか増えた。
おそらく龍が召喚されたのだろう、と推測した真樋は焦る。最悪、この辺りも落雷の餌食になりそうだ。
「...はぁ、分かった。でも、隠れるか離れるかしててよ。あの精霊は、多分そっちは狙わないだろうし。」
『待て、小僧。貴様もだ。』
「手数は多い方が良いだろ?契約者なら僕も狙える。」
『...ふん、足でまといになるなよ。』
絡繰などと揶揄してはいるが、頑固な性格なのは理解している。無駄に頭の回る相手に説得は諦め、【浮沈の銀鱗】は寿子を放り出して潜水した。
落ちてきた彼女を受け止め...切れずに一緒に倒れる。
「重い...」
「失礼やない?」
「それより早く退いてくれないかい?ピトスが山頂に向かい始めてる。あわよくば押し付けるつもりなんだろうけど、僕が置いてかれると困るんだ。」
空の瓶を振りながら、真樋はそう宣う。なんでも一つ、収納出来るそれは切り札になり得る。というより、それが【宝物の瓶】の要だ。
二つとも真樋の手元にある以上、彼が離れる訳にはいかない。そのくらいの判断はして欲しかったが、呑みすぎてハイになっているのだろう。
「あ、そうや。そろそろ上着、返さんといけんと思っとったんよ。」
「あぁ、そういえば僕のだったね。いいよ別に、まだ寒いでしょ?」
「お兄さんも寒いんやないの?」
「僕は別に...生まれが北の方だから、このゲーム内はそんなに寒くない。」
差し出された物を押し付け、真樋は放り出していた即席ナイフを拾う。こんなものでも無いよりマシだ。
『おい、遅いぞ。逢い引きする暇があるなら走れ。』
「しとらんよ!?」
「足がまだ万全じゃないんだ。運んでくれるだろ?」
『貴様、遠慮や警戒が無くなってきたな?』
「無視せんでよ!」
契約者よりも早く精霊に跨る真樋に、怒気を孕んだ声音で【浮沈の銀鱗】が文句をぶつけた。次いで寿子が乗ろうとするが、スっと避けられた。
「なんでなん!?」
『後ろにいろ。山頂の戦場が近づけば、巻き込まれる恐れが高くなる。あまり離れられても困るがな。』
「え?うち走るん?ねぇ!...もう!」
大地の小波は、あまりにも素っ気なく足元に打ち付けた。




