その手が届くには
一歩、強く踏み出して肉薄し、メスを振った腕を取る。軽く痺れた腕は抵抗が出来ず、振りほどくことも出来ない。
そのまま肩を押し出すようにしながら、一回転。うつ伏せに地面にたたき落とし、腕を背中へと押し当てた。
「やっぱり、貴女には敵わないわね。」
「もう諦めてくれる?」
「まさか。」
「じゃ、諦めてくれるまで離さない。」
「強情ね、昔から変わらない。」
肩に力を入れようとも、弥勒を動かすことは敵わない。そもそも、関節の角度のせいか、力が入れられなかった。
「久しぶりなのに、もう顔を見せてくれないのね。」
「私は嫌いじゃなかったの?」
「それは貴女といる時間が嫌いなだけよ。貴女はいつも、わたしの憧れだった。」
「矛盾してるわ。」
「しないものよ、自分が嫌いな人にとっては。」
ズキリ、と心の痛み。いまさら自分が感じる事は無い、きっと弥勒の痛みだ。感情移入しやすいだなどと、どの口が言うのか。
だが流石というか、力が緩む気配は無い。武人というか、脳筋というか、そこも変わらないらしい。
「ねぇ、痛いわよ?」
「じゃ、メスを離してくれる?」
「痺れちゃって、指が開かないの。」
「もう電気は流れて無いのに?」
「そうなの?気づかなかった。」
このまま話していても、進展は無い。そう悟った弥勒が彼女を連れ去ろうとした時だった。
『お嬢から離れて頂こう。』
声が聞こえると同時に、自分が仰向けに倒れていた。爆風で吹き飛ばされたのだ、と気づくまでの数秒に、登代は立ち上がり砂を払い終わっていた。
下敷きにしてしまった【純潔と守護神】に詫びながら、弥勒もすぐに立ち上がる。
「遠慮しなくてもいいのに。」
『申し訳ありません、お嬢の反応が違いましたので...』
「変わらないわ、誰一人。あっちは終わったの?」
『途中で邪魔が入りましてね、あちらに任せて来ました。』
「そう、なら前に集中しましょう。」
臨戦態勢、といった雰囲気の一人と一柱に、弥勒達もまた気持ちを整える。話し合いにはならない、ここで逃げられたり負けたりしては、チャンスはもう巡って来ない気もした。
「力を貸して、【純潔と守護神】。」
『勿論です、私の持てる力の限りを。』
「貴女の願いは知らないけど、折らせてもらうわ。【混迷の爆音】!」
『それがお嬢の望みとあらば。』
名を叫ばれた能力達が、各々の権限を行使せんと動き出す。
笛を振り上げて飛び出す、法杖を地面に突き立てる、その動作の結果が、数瞬の後に発現する。
『ヴァアアアァァァ!!』
『トゥバン!』
振るうだけで爆音を撒き散らす笛にも、その範囲の外からならば意識を刈り取られはしない。
瞬間的に顕現した龍が、雷を落として消えていく。龍が落とす雷は先程までの比では無く、衝撃による硬直どころか、全身の筋肉が収縮し微かに焦げた臭いまで漂わせた。
『これで』
『ぬぅ!』
どんな言葉を紡ごうとしたのか、理解するのは難しい。だが今目の前で投げられた笛の行方なら、手に取るように分かる。
「くっ...!」
音が届くより早く、大きく飛び退いて回避した弥勒の後ろを、豪速で笛が通り過ぎた。攻撃の直後だった為に、龍は呼べずに精霊はその下敷きだ。
お世辞にも頑丈とは言い難い精霊に、その一撃は致命的であり。【混迷の爆音】が、ゆっくりと歩を進めて笛を担ぎ上げるまで、ピクリとも動かない。
「【純潔と守護神】...」
『精霊はそう易くは死ねはしない。それよりも...己の身の上を心配したら如何かな?』
怪しく蠢く光が、目の前を煌々と彩る。手負いとはいえ、精霊を相手に何が出来るだろうか。
「上手くいって良かったわね。」
『お嬢、気を抜くには早計かと。』
「あの一撃で倒れないようなら、私たちの負けよ。致命的なインターバルが出ないくらいには、脱力して能力を使うでしょうし。次は無いわ?」
『私はもう少し粘れます。』
「見かけによらずタフガイね、貴方。」
己の精霊の隣に立ち、かつての友を見下ろす登代の目は、あまりにも冷たい輝きを反射していた。完璧で、美しく、逞しい彼女の思い出を、今の泥に濡れ敗北した姿でかき消していく。
「...無様ね、弥勒。」
「随分じゃない?精霊に頼りきりで、その言い分は。」
「精霊は、私達の覚悟と決意の現れだそうよ?立ち上がれないのは、貴女の欲がその程度という事よ。私の、全てを掛けた願望とは違う。」
バッサリと切り捨て、登代は弥勒に詰め寄った。額が触れるかと思う程の距離、目が離せない中で登代は口を開く。
「弥勒、諦めて。もうリタイアするの、出来るでしょう?」
「...すると思うの?ようやく、こうして手が届くのに。」
「貴女なら大概の願いは自力で掴めるわ、きっと。」
「そう、なら掴んであげる。」
登代の肩を掴み強引に引き寄せる。あまりにも穏やかな心に油断していた登代が、それを堪えるには無理がある。
地面への衝撃を予想し、反射的に目を閉じたが...登代が感じたのは、柔らかい温もりだった。
「なにを」
「登代...私の願いは、無いの。貴女がここにいるかもって聞いて...それで参加したのよ。貴女にただ、会いたかった。話したかった。」
「それだけの事で、こんな訳の分からない物に...飛び込める人だったわね、貴女は。」
呆れにも似た笑みが零れ、登代の体の強ばりが解ける。
「でも、ごめんなさい。」
弥勒の肩に手が当てられ、優しく、しかし明確に引き剥がされる。その拒絶が、一度は消えたと思ったからこそ、冷たさをより一層感じさせた。
「私が私でいる限り、誰かを傷つける事には変わらない。自分の激情でさえ制御出来ない人がいるのに、他人の激情を抑えられる筈がない。私は危険なのよ。」
「そんな事」
「無いって言えるかしら?この手で母を殺した私に。」
吐き捨てるように言われたその言葉に、辺りが凍り付いた思いがした。風が一陣吹いて静寂を浚えども、心は何かを感じることを拒否する。そんな数瞬とも永遠とも取れる刹那の時間は、登代のため息で終わった。
また逃してしまったと、慌てて手を伸ばしてももう遅い。予感していたはずなのに、その一言を聞きたくないと、彼女の過去を拒絶してしまった。その距離はうめようとして埋まる物では無いだろう。
「分かってくれた?私に居場所はないの。あるとすれば、誰も存在しない私だけの世界。私か、他人か、残る物を選ぶ必要があるのよ。」
「私は認めないわ、貴女の居場所は私が見つけてみせるから。」
「そういうことは、私に勝ってから言いなさい。」
『それが...貴女の言い分ですか?お互い、強情な契約者には、苦労を...いたしますね、山羊の公。』
『互いに倒れられぬ理由がある、と言うことか。』
回復した、とは言いがたい姿で立ち上がる精霊に、意外そうに振り返る奏者は構えをとる。精霊の戦いとは、相性も戦場も策略も準備も欠かせない。だが精霊の力の源となり得る覚悟、感情こそが欠かせぬ物。
目的を目の前にした弥勒は、いまこの瞬間こそ一番の集中が働いている。常に緊張を強いられている【混迷の爆音】よりも、刹那的にその力は発揮された。
「ここで全てをぶつけるわ!【純潔と守護神】!」
『主神を祝う母の果実を護りし者よ、北天より降臨せよ。応えて、トゥバン!』
突き立てられた法杖より、十四の光が空を舞う。溢れた光は星を繋いで形作り、守護者を現界させた。
『来い、乙女の精霊達よ!』
『参ります!』『ギュアアアアァァァァ!!』
雲を纏い、空を駆ける龍が【混迷の爆音】を襲う。あっという間に目の前に迫ったそれに、迎撃する暇はない。笛を盾に直撃を避けるが、通り過ぎる直前に尾の一撃が横から迫る。
自ら跳ぶ事で衝撃を殺し、すぐに反転して反撃しようとした【混迷の爆音】だが、上空から落とされる雷に打たれ、接近さえ叶わない。
『やはり強力な。』
次々と降り落ちる雷に、回避で手一杯となる。しかし間に合わない程では無い。避けながら周囲を見れば、折り返してくる龍と法杖を掲げ続ける【純潔と守護神】。
『...試す価値はあるか。』
龍の突進を待ち、それをギリギリで回避した直後に強く蹴りこんだ。強固な鱗は、蹄の一撃に易く耐え抜いて見せ、空中の龍は僅かに揺れ動いたのみ。
だが【混迷の爆音】はそうはいかない。全力で蹴りこんだ反動は彼をその場から弾き出す...【純潔と守護神】の元へと。
『本体を叩かせて貰う!』
『いえ、無理です。』
その笛は、飛んでいる間も爆音を掻き鳴らし加速を生む。しかし、それでも間に合わなかった。
まるで障壁とでも言わんばかりに、【純潔と守護神】の前に幾筋もの雷が墜ちる。隙間さえ見えない光に向けて、飛び込んだ所で結果は知れている。
大きく笛を振り回し、前方の地面へ叩きつけて吹き鳴らす。衝撃と爆音がブレーキになり、ついでとばかりに周囲を吹き飛ばした。
「きゃっ!」『くっ...!』
当然、近くにいた弥勒と【純潔と守護神】も。追撃は龍が襲いかかる為に来ないが、強力な一撃は余波とて無視できない。
立つのもやっとな精霊と共に、法杖を支える弥勒には、登代の元まで行く手段が無かった。そして...
「このまま続いても、【混迷の爆音】が倒れる前に貴女の龍が還るわよ、弥勒。」
そう、雷だけでは埒が明かず、かといって近づけば数瞬だろうと意識を飛ばされる。笛ばかり警戒していたが、その足腰の頑健さとスタミナにも、目を見張るものがある。
笛を吹くために立ち止まる必要も無く、跳び、振るうだけで爆音を撒き散らす【混迷の爆音】の前では、少しの接近でさえ命取りだ。
逆に言えば、それを単体で抑えているトゥバンが、精霊として規格外なのだが...それは慰めにもならない事実でしかない。
「認めて、弥勒。貴女は私に届かない。」
「それなら、助力を求める。それが人の強さという物ではないかな?」
破裂音が響き、【混迷の爆音】の脚から血が垂れる。その僅かな停滞に、雷が数本降り注ぐ。
「もっとも、それは私の言える言葉でも無いのだがね。」
『へい、兄弟。自覚あんなら直したらどうだ?』
黒い得物を向けながら、白い相棒を肩に探偵が立っていた。




