英雄願望に憧れた炎
炎の壁の中、争う気配が止まることが無いのを確認し、四穂はひとまず腰を下ろした。
やっとの思いでたどり着いた精霊の隣は、僅かに湿っており心地よいとは言えない。堅い甲殻、冷たい肌、濡れた地面。しかし、彼女の安心がそこにはある。
『主様、如何致しますか?』
「えっと...どうしようか?多分、時間は稼げたとは思うんだけど。」
『そうですね、ルクバトならば既に到着し、此方に向かっているかも知れません。』
「そっか、帰ってくるかもしれないのか。こんな危ないのに...ちょっと嬉しいって思っちゃうね。」
ふやけた様な笑みを浮かべる四穂は、随分と弱さを見せている様に感じた。疲れや寂しさ、恐怖。全てを笑顔の下にしまい込んだ主の姿は、そこには無い。
本当に限界なのだと、言われずとも分かる。今一度自分のすべき事を決意し、【泡沫の人魚姫】は契約者を抱き締める。
『主様、とにかく離れましょう。あの炎の傍も、面妖な精霊も危険ですから。』
「そうなんだけど、あの人をどうしようか?あのまま放置するのは、流石に気が引けるんだけど...」
自分を庇った形で負傷した八千代に、四穂は遠慮がちに視線を向けた。そんな彼女に、八千代は立ち上がって妖艶に微笑んでみせる。
「心配いらないわよ、死にはしないわ。逃げて潜むくらいは易いもの。」
『あの傷があって、ですか?』
『シィィ...!』
「かすり傷だそうよ?」
顔を潰した【泡沫の人魚姫】に、挑発ともとれる言葉を残した彼女は、そのまま自らの精霊の元へ寄る。
顔を半分潰された【魅惑な死神】だが、それを気にした様子も無く、契約者を乗せて走り去る。あの様子、この時間ならば、そのまま闇に紛れて逃げ切るだろう。
「タフだねぇ...」
『主様も大概ですよ。』
「え、そかな?ボクは結構弱いよ?」
『虚勢でも見せることの出来る人を、弱いとは言いませんよ。』
足の無い【泡沫の人魚姫】では、肩を貸すことも出来はしない。口惜しく思いつつも、彼女に出来る事をする。
周囲に泡を散らし、警戒を広げようとした時。背後の音に、確認するまでも無く甲殻を展開する。鉛が甲殻を削る音が数発響いた。
「なに!?」
『銃撃ですわ。すると、もう...』
隠れる事を止め、草陰から身を出したのは三人の警官だった。返り血が随所に散っており、あの場で前線に立っていた者だろう。
「被害と現象は確認できていないが...異常発生者だ、殺るぞ。」
「「はっ!」」
左右に散った二人から銃撃がとび、優先して四穂が狙われる。片腕を失った【泡沫の人魚姫】では、片方しか防げない。
左腕で防ぐので、当然左側の方が易い。残る右側の銃弾には、下半身を精一杯に伸ばす。引き締まった魚の肉体は、力を込めれば銃弾が貫通することは無い。
『く...この程度!』
弾力の高めた泡を撒き、触れた物を弾いていく。一度二度ならばまだしも、何度も当たる度に体勢は崩れていく。
地上では動けない【泡沫の人魚姫】も、此方に招けば戦える。遂に一人、尾ビレで打ち据えられて地面に倒れる。
「まだいける?【泡沫の人魚姫】。」
『えぇ、問題無く。追い詰めるのに、少し集中しなくてはいけませんが...』
泡は発生した箇所から、緩く昇るだけ。弾かれた先に泡がある様にし、それが自分の元に来るようにしなくてはいけない。
相手の体勢にもよるので、狙った位置に飛ばすのは不可能だ。自然と泡も増え、比例してルートも増える。
「警部補!手を!」
「助かる!」
一人では厳しくとも、二人ならば泡の舞う空域からの脱出も可能だ。突き飛ばされるように泡の軌道から逸れた警官が、すぐに拳銃を構え発砲する。
『本当に狙いが良いですわね...!』
「撃ち慣れてるよね、絶対。酷い世界だよ。」
一人が脱出できても、一方向の攻撃ならば防御が間に合う。甲殻を盾状に展開し、一発の弾丸を防ぐのに当てる。
十分すぎる面積で覆えば、どこを撃ち、どう跳弾しようとも問題ない。そのまま泡の発生場所を調節し、もう一人をおびき寄せる。
「化け物め...!」
『承知の事実ですわよ。』
ハンマー状にした甲殻を振り下ろし、意識を刈り取る。死んではいないか不安になるが、ともかく二人の無力化には成功した。
未だ銃を下ろさない最後の一人は、泡の範囲から離れつつ此方を観察している。怖気付いたのか、冷静なのか。どちらにせよ、二度と泡の中へ踏み入れる事は無さそうだ。
『早々に離れたいのですが...銃を構えられては危険ですね。』
「ボクらの移動速度じゃ、ちょっと不安だよね。」
次の攻め手を考えていると、背後から視線を感じる。すぐに振り返れば、真樋が瓶を構えて走って来ている。
「ウソぉ!?炎の中を走ってきたの!?」
「しまった、見たらダメなんだっけ...」
標的を四穂から精霊に変え、真樋は瓶を投擲する。万が一、瓶口に当たれば取り返しが付かない。しかし、回避が出来るほど素早くも無い。
「勝手に...逃げんじゃねぇ!」
『ハックー、逃げるのに許可とる人っているの?』
投げ込まれた石が発火し、その勢いが瓶も泡も吹き飛ばす。すぐに立ち止まり、後ろを睨む真樋に挑発的に笑い、一哉は構え直す。
「ほら、精霊だけじゃ相手にならねぇぞ!」
『Sorry、マスター。想像以上に炎の勢いが強く。』
「これは...どうしようかな。これ以上消耗したくは無いけど、流石にそろそろ減らさないと不味いし...」
四穂の方に視線を移し、悩ましく唸る真樋に対し、一哉は荒れる衝動のままに殴り掛かる。
「女ばっかり見てねぇで、ちったァ俺と遊んでけよ!」
「弱った獲物しか狩りたくないんだ、セオリーだろ?」
速度では圧倒的に勝る【宝物の瓶】が、間に割って入り受け止める。刀越しに伝わる熱も、白布に顔が隠れていては苦しいかどうかも分からない。
「だぁ、やりづれぇ!」
『上!ハックー、上見てって!』
「あぁ?」
確認した彼の頭上にあったのは、美しい瓶。ピタリと制止しているそれは、一哉が見上げた瞬間に蓋が外れる。
ほとんど反射的に頭を逸らし、焼けるような痛みにそれが正解だったと悟る。飛び出したのは、おそらく弾丸だろう。
「ちぃ、肩をやられたか...逆に避けとけば良かったぜ。」
『それ僕に当たるからね?ねぇ、ハックー?』
耳のすぐ横で騒ぐ精霊を押し込めるフードもなく、ぶつける先の無い苛立ちは全て真樋に向いた。
左腕が動かない。アドレナリンのおかげで感覚が鈍く、それ以外に支障は無い。ならば気合い十分、他はいらない。
「今すぐ、叩きのめしてやるよ!」
「遠慮させて貰うよ。」
何度立ち向かおうとも、精霊の方が早いのだから阻まれる。【宝物の瓶】に有効打は入らず、一哉には少しずつ刀傷が増えていく。
しかし、その間にも火の手は回る。契約者も多少は耐性があるのか、それとも気合いで堪えているだけなのか、熱で消耗していくのは真樋の方だ。
「スカした面ぁしやがって。まだ余裕かよ?」
「まだ動ける人に言われても、ね。そろそろ限界じゃないのかい?」
真樋は、その場から微動だにせず一哉の観察を続ける。【宝物の瓶】も、守るべき場所が変わらないので、確認の為に振り向いたりなどしない。
正面から人と精霊が渡り合い、精霊が負ける道理は無い。ただ淡々と一哉の猛攻が捌かれていき、疲弊していく。
「だぁ、クソ!!もういい、全力でやれ【意中の焦燥】!」
『死ぬ気!?』
「うるせぇ!やれっつったらやれ!」
『後で文句言わないでよね!』
「言う!でもやれ!」
無茶苦茶だが、薬品まで使い昂っている一哉には、もう言い返すのも馬鹿らしい。
そう判断した【意中の焦燥】が、その羊毛を大きく広げていく。一哉まで包み込んだそれは、次の瞬間に発火し炎としてまとわりつく。
「あ、がああぁぁぁ!」
「何でそこまで...」
「意地だ!俺がムショ暮らししてねぇのも、人を恨んでねぇのも!ギリギリで踏みとどまってんだ!その一線を超えねぇように、俺は諦めるだとか負けるだとか、そんな事があっちゃいけねぇんだよ!」
当然、そんなことをいきなり言われても、真樋としては分からないとしか言えない。
しかし、話にはならないという事は分かった。このまま山火事が進むのは御免だ、すぐに鎮圧に移る。
「斬り捨てろ、【宝物の瓶】!」
『Yes、マスター!』
「滾れぇ!【意中の焦燥】ぁ!」
『耐えてよねぇ!』
斬りかかった【宝物の瓶】が、再び傷を刻む...事は無かった。視界を刀が塞ぐ一瞬、一哉は後ろに回り込み拳を振り上げる。
「歯ぁ...」
『What's?』
「食いしばれぇ!」
すぐに振り向いた【宝物の瓶】の顔へ、燃えている拳が打ち付けられる。鈍い音が響き、後頭部から地面へ墜落する精霊に一哉は追撃を仕掛ける。
振り上げた足から炎が迸り、爆発的な発火が推進力を生む。それは大きな物では無いにしろ、コンマ数秒の加速になる。超至近距離の一哉の間合いでは、それは致命的だ。
腹を踏みつけた一哉は、そのまま燃える足を精霊に押し付ける。肉の焼ける匂いが立ち込め、一哉の顔が歪む。【宝物の瓶】も呻き声は聞こえる為、効いているのだろう。
『Please、下りて頂けますか?』
「は、随分と冷静な声じゃねぇか...余裕だ、な!」
再び振り上げた足を精霊に叩きつけるも、すぐに攻撃に転じた【宝物の瓶】に斬り付けられる。痛みに一瞬だけ力の抜けた一哉に対し、焼けるのも構わずに猛進した精霊の一太刀が浴びせられた。
舞う血が自分の物だと理解するのに、数秒。
細く息を吸う音、無言で睨む視線、肩から響く叫び声、驚愕する気配、そして...冷酷なまでの幽鬼の威風。
『Just、ようやく酔いが回ってきました。』
「奥の手まで引っ張り出されるなんてね...手負いの獣は慎重に行くべきだった。」
真樋の元に跳躍して戻った【宝物の瓶】は、狩衣こそ煤けていれど白布と肉体は火傷さえ見当たらない。
左手を斬り飛ばされた一哉が、炎で止血をしながら問いかける。興奮剤が切れれば、痛みで気を失ってもおかしく無いだろう光景に、四穂の顔は更に青くなっていた。
「てめぇ...ナニモンだ。さっきまで焼けてたじゃねぇかよ。」
『Yes、痛かったですよ。』
「君には言ってなかったかい?僕は負け試合は嫌いだし、準備は十分以上にするんだ。負けると思うなら...姿なんて見せないよ。」
冷たいのは、風か背筋か。怖気を吹き飛ばすように、更に炎を滾らせた一哉は拳を構える。
「だったら、それごとぶっ潰す。」
「どうぞ、無理無茶を続けてくれ。」
焼ける山を、一陣の風が吹いた。




