山中地獄絵図
重力に囚われ、狩衣が風にはためく音を聞きながら、精霊は迫る死の牙をしかと見つめる。
「八番!」
『Roger、マスター!』
宙を滑った瓶が蓋を開かれ、二柱の間で中身を解放する。地中から襲う【魅惑な死神】だったが、出現した鉄板に阻まれた。
強引に突破する力は、【魅惑な死神】には無い。硬さと毒。これがこの精霊の唯一絶対の武器なのだ。
「ふぅん、まだ手札があったのね。」
「あれだけで終わりだと思わないで欲しいな。僕は十分以上の準備が好きなんだ。」
「そう、なら全部引き出してあげるわ。」
『私を忘れないで下さる?』
弾力を極限まで高めた泡から、弾き出されるように甲殻の塊が精霊達に襲いかかる。
既に一度負傷した【魅惑な死神】を仕留めようと動く【泡沫の人魚姫】だが、それは小太刀に阻まれる。防ぐのに用いた甲殻は、攻撃には使えない。
『Sorry、貴女の相手は骨が折れるので。』
『でしたら手出し、しないでくださる?』
「あら、うちの子を忘れないであげてね。」
『Yes、当然です。』
落とされる尾針に小太刀を合わせ、【泡沫の人魚姫】へと誘導を仕掛ける。【宝物の瓶】には、甲殻を砕く力も毒のような決定打も無いからだ。
傷を負った【魅惑な死神】は、毒を恐れずに速度でも勝る【宝物の瓶】は相性がいい。当然、有線順位は決まってくる。
まさに三竦み。倒せる者を倒した途端、不利な戦いに放り込まれるのだ。睨み合う二柱だったが、その空気をものともせずに襲う者がいた。
『ルシャァ!』
「おっと...凶暴な事で。」
射出された針を大きく飛び退いても躱し、真樋はそのまま四穂へと走る。精霊を潰せないなら契約者を。契約者の状態は精霊の力に大きく影響するのだから。
「わっ!お兄さん、ちょっとボクとお話しない?」
「年上にお兄さんなんて、呼ばれる趣味は無いけどね!」
「あ、年下さん...え、嘘!?」
失礼な反応を返す四穂だが、その身体は態度と違い限界に近い。回避行動も防ぐ体勢も、真樋の接近に間に合わない。
瓶の蓋を開けた真樋が、その口を横に向ければ、介入のタイミングを伺っていた八千代へ弾丸が飛び出した。忘れていないぞ、という警告か。
その瓶を懐にしまうこと無く、接近を続ける真樋に、狙いが分からずに四穂は混乱する。そんな四穂に、八千代の声が飛ぶ。
「瓶を避けて!中に仕舞われるわよ!」
「うぇ?そういう事!?」
倒れ込む様に避けて、そのまま転がって距離を取る。何が悲しくて泥まみれに、と思わなくも無いが。それに構っている余裕は無い。
不満そうに八千代を睨む真樋に、彼女は挑発的に笑う。
「あら、か弱いレディを虐めるのが好み?」
「悪いけど興味無いかな、嫌な記憶が出てくるもので。」
「そう、でも私を襲う顔よ。」
「しませんよ。貴女の精霊は、まだ活きてて貰わないと。」
つまり、用済みなら消すと。【魅惑な死神】の針で【泡沫の人魚姫】を刺すのが目的なのは分かる、ならば【泡沫の人魚姫】を退場させる訳にはいかない。
この場の方向性を定めると、八千代は【魅惑な死神】に引き下がって守るように命じる。興奮状態だった化け蠍だが、不服そうにしながらも退いた。
「嫌な一手かしら?」
「それほどかな?」
「ちょ、しつこいんですけど!?」
瓶の口を四穂に向け、追いかける真樋。捕まるのも時間の問題だろう。どうも、直接は殺傷沙汰を起こす気概は無いと踏んだ八千代は、上着一枚を盾に走り出す。
殺陣の稽古も、簡単な武道の練習も、人を取り押さえるには役立つ経験だ。体格は勝っているとは言えないが、十分に自信はある。
「美女に押し倒されるのは初めて?」
「自分でそういう事言う人は初めてかな。」
「あら、だって私の努力は結果を結んでるもの。下手な謙遜は失礼よ。」
「なんかフクザツなんだけど、ボク...」
さっきまで追い回していた相手に、助けられた形なのも拍車をかける。【魅惑な死神】の恐怖は、鮮烈に残っているのだ。
ともあれ、ここで逃げる選択肢は無い。逃げたところで圧倒的に機動力で負けているのだ、追いつかれて終わるだけ。
「泡を広げて、【泡沫の人魚姫】!まずは周りを」
「させないけどね。止めろ、【宝物の瓶】!」
精霊同士が接近していれば、当然【魅惑な死神】が乱入してきた場合、双方が危険となる。故に徹底するのは接近戦。
そうなった時、回避しやすい【宝物の瓶】の方が有利なのは間違いない。攻撃を押し付け、後の先を取る。
とにかく相手の意図を潰す。焦らせ、苛立たせ、ミスを誘う。それを見逃さないように、集中しつつ。決定打を持たない精霊にも、戦い方はあるのだ。
「僕がもう少し動けたらね...」
「あら、諦めるの?」
「美人に迫られるなら、そう悪くもないでしょ。それとも、自信無い?」
「生意気な子ね、貴方。」
手は押さえつけているので、瓶に仕舞われる事は無い。とはいえ思い切り力を込められると、少し分からない。緊張の中、待っていたタイミングが訪れた。
微動だにせず待機していた【魅惑な死神】の、尾針が再生し終わり射出される。抑えられていた真樋に向けて、だ。
「危ない、な!」
腰を浮かせ、地面に思い切り叩きつけた真樋。その瞬間、二人は押し出されるように転がり、背後で呻く声が漏れる。
倒れている見知らぬ男に驚愕し、八千代が一瞬停止したのを見逃さない。拘束を押しのけ、真樋はすぐに尾針を瓶に収納した。
「なにが、おこっ、て...?」
「喋らないでくれるかい?不快だし。」
針が無くなり、周囲を見渡す余裕が出来た男性が、真樋を見上げて呟いた。
瓶から出し盾にした癖に、随分と雑な扱いで見下ろすと真樋は彼を放置する。再び収納しようにも、瓶は一つ割れた。空きも必要なので、あまり必要と思わない物は入れないのだ。
「人を...持ち運んでたの...!」
「人じゃない、近い何かだよ。説明する気は無いけど...とにかく人じゃない。」
驚きを隠さない四穂に吐き捨て、新しい瓶を取り出す。すぐに八千代をしまおうとするが、流石に我に返った彼女に防がれる。
血を拭いながら真樋の足を払うが、彼は転げる勢いのまま八千代を地面に押し倒した。その地面には...置かれた瓶。
「かふっ...」
「悪いね、今は武器がそれしか無くて。」
「自分の毒に呑まれるなんて...役者冥利に尽きるわね。」
割れた瓶から出てきた毒針は、さきほど男性を穿いた物。致死性を高めた毒だ。それを確認するために、彼の様子を見に行ったのだ。
背中を裂く様な傷だが、溢れて表面を滴っている毒素は侵入したらしい。傷の程度よりも重く立ち上がった八千代を見れば、それは理解できた。
「さて、これで邪魔は無いだろ?」
『Report、【魅惑な死神】が暴走の危険。警戒を。』
「そこは頑張ってくれても良いよ、ピトス。」
『Roger、可能な限り。』
懐に隠していた瓶も浮き上がらせ、五つの瓶が彼の周りを回る。最初に比べ、随分と数が減った事に真樋は顔を顰めた。
先程割れた二本、これで六本も割れた事になる。再使用出来ないのは、後々にかなり不利になるだろう。ついでに二本、無くしているのもある。
「わ、そうだ!ぜんぶ割って確認しよ、【泡沫の人魚姫】!」
『いいのですか?彼は居ないのでは...』
「いいの!だってアッチのかとかなんて、勘だし!」
「あ、やっぱり失くしたのが射手座を入れてた奴か。場所を教えてくれるならありがたいね。ピトス、捕まえて吐かせよう。」
片手で瓶を弄びながら、真樋が四穂に迫る。一休みした真樋と、既に限界な四穂。逃げられる道理は無い。
「一つ聞かせてよ、【疾駆する紅弓】を取り戻して、どうするのさ。」
「聞く必要ある?嫌われてるだろうし、死んでもらうだけだよ。」
「なら、絶対教えてあげない!【泡沫の人魚姫】!」
小さな泡が、四穂を覆い隠す程に湧き上がる。空だ、空にいる。そのまま精霊の方まで、泡を渡り移動する四穂へ、真樋がナイフを投げつけようとした時だった。
「見つけたぜぇ...根暗野郎!!」
放り投げられた土が、真樋を囲む様に炎を走らせた。
頬を撫でる熱気に顔を顰め、彼は精霊の気配を手繰る。場所は分かった、そちらを振り返る事はせずに、後ろへ向けて言葉を投げかける。
「なんで君が?」
「あぁ?居ておかしいかよ。牛ならあっちでサツ相手に暴れてんよ。」
「いや、僕を襲う理由が分からない。」
「死にかけの女と取り逃した獲物、優先すんならどっちだ?スコア戦ってんなら、トドメを貰うけどな。」
『ハックー、説明になってないよ?』
ハイになっている一哉は、一切の躊躇はない。会話も程々に駆け出した彼は、燃えている拳を鋭く振った。
彼の思考は今、酷く単純だ。この場で動ける限り、敵になる者を攻撃し続ける。最後まで立っていた者が勝者だ、どうせ逃げられないのだから。
「イカれてるの...?自分まで燃やされるよ。」
「は!火に巻かれるのが怖くて、こんな羊を肩に乗せるかよ!」
『こんなって言った!?酷くない!』
上着を失い、秋も深まった夕暮れだと言うのに、二人はじっとりと汗を滲ませる。火に囲まれ、火を纏い、そして戦う。ここには熱気しか残っていない。
しかし元の身体能力が違いすぎる。真樋が劣勢になるのに、それほど時間はかからなかった。
「く、戻れピトス!!そっちは放置していい!」
『Roger、マスター。』
炎の中を、恐れる事も無く突っ切った精霊が一哉に迫る。鈴の音を思わせるような軽やかな斬撃は、その接近をすぐには悟らせない。
耳を大きく斬られ、吹き出した血が白布を染める。怒りを顕にした一哉が、振り向きざまに放った拳と共に。
『Crazy...想像以上に早い反撃です。』
「だろうね。彼の痛覚や疲労が戻ってくるまで、耐え忍ぶよ。」
「させっかよ!やれ、【意中の焦燥】!」
『難しい事言うなぁ、もう!』
やれと言われて何ができると言うのか。とりあえず抜け毛をバラ撒き、動ける範囲を減らしていく。
速いのは明らかに精霊の方、ならば一哉は無闇に動くのは下策だろう。つまり、動きにくい場所は一哉の有利になる。
「てめぇが燃えるのが先か、俺たちが燃え尽きるのが先か。もうサバイバルや止めだ、派手に潰してやるぜ!」
『Jesus...排除しますか?』
「あぁ、迎え撃て【宝物の瓶】!」
「火力を上げろ、【意中の焦燥】ァ!」
盛る炎の揺らめきに、小太刀の刀身が閃いた。




