夜闇に紛れ轟く
月を落とさんばかりの衝撃が辺りを震わせ、吹きすさぶ風も霞む程の圧を放つ。
質量と力。真っ向からぶつかるそれは、生物的な恐怖を抱かせた。
『ヴァアアアァァァ!!』
『モゥオオオォォォ!!』
吐息なのか咆哮なのか、叫びとともに力を入れる両者は、精霊としての能力は使っておらず。単純なフィジカルだけで周囲を圧倒していた。
突き上げる角の勢いが徐々に勝り、重い笛を持ち上げて行く。このまま姿勢が後ろに流れれば、押しつぶされるのは必須。
『なんという力...!』
『この程度、重りにもならんわ!』
押し切られる前に自ら跳び退いた【混迷の爆音】は、笛を振り回しながら担ぎ牽制する。
何処から攻めるべきか、地を蹴りながら睨む猛牛は、契約者に怒鳴りかかった。
『こういう時に機転くらい効かんのか!』
「えぇ?えっと...」
成り行きを見守っていた二那は、すぐに周囲を見渡して何か利用できないかを探る。
視線を逸らした二那を見初めた瞬間、【母なる守護】を飛び越える【混迷の爆音】。すぐに転換するのは苦手であり、契約者を守るには届かない。
『避けろ馬鹿者!』
「人間には無理よ。撃ち落として、【魅惑な死神】!」
気付くのが遅れた二那に代わり、八千代が叫ぶ。背後に顕現する精霊から、鋭い一撃が放たれる。
宙でそれを避ける術はなく。笛を盾にすれば、せっかくの勢いは削がれ、二那の元には届かない。
『小癪な事をしおってからに。』
『契約者を離し、気を逸らし、あまつさえ頼る等。私に協力しているのかと思ったのだが?』
『貴様ぁ...!』
皮肉を宣う【混迷の爆音】に、【母なる守護】は歯が折れるかと思う程に顔を歪め、突撃する。
小難しい策など弄さず、正面から叩き潰す。生憎とここに金属は無いが、笛を吹かせる間もなく突進を続けるなら、能力はどちらも無し。フェアだ。
「方向転換の隙なら、【魅惑な死神】が埋める。好きにやりなさいな。」
『言われるまでも無い。』
「足元に気をつけて。相手の精霊は跳ねるから、貴方とは違うわ。」
『なに、轢けば変わらん!!』
落ち葉を撒き散らしながら、山の斜面をものともせずに駆け抜ける。細い木ならばそのままへし折り、猛然と角を振りかざす。
潰されるのは御免な為、出来るだけ【母なる守護】の後ろへと回るように、【魅惑な死神】の狙撃を警戒しつつ跳び回る。
『厄介な...お嬢、消耗は仕方ない。』
「そう、分かったわ。星霊具使用、お願い【混迷の爆音】!」
『ヴァアアアアアアァァァァァァ!』
掲げられた巻貝が光り、願いの力が精霊に宿る。笛を回すように一振し、肩に担ぐ頃には蠢く波紋が表面を流れていた。
鋏を前に構え、警戒を露わにする【魅惑な死神】とは対象的に、【母なる守護】は突撃を止めない。何が来ようと、その角と質量で押し返す自信があったからだ。
『短慮な...傲慢な事だ。』
確かに、それは事実であり。たとえ自動車で突っ込んだとしても、かの精霊は止めたであろう。しかし、それは角を打ち付け、踏ん張るからこそ。
動き出した【混迷の爆音】を、確かにその目に捉えていた。たが、次に【母なる守護】が気づいたのは、痛む頬と冷たい土の感触によってである。
『バカな...何が!』
『私は【混迷の爆音】。神々さえも混乱する阿鼻叫喚を告げる音色。囚われれば正気では無い。』
倒れ伏した【母なる守護】の頭を、蹴りぬこうと蹄を振り上げる。巨体故に、一度倒れれば起き上がりにくい。すぐに避ける事も、踏ん張る体勢になることも出来ない。
咄嗟に金属を探す【母なる守護】の額に、蹄がめり込んで赤を滲ませる。続けて笛を叩き落とそうとする【混迷の爆音】だが、攻撃性の気配を感じて顔を上げる。
「潰れなさい!」
八千代が斧を振りかざし、走りよる。あまりに無謀、しかし怯えや錯乱は感じられない...すなわちフェイク。
すぐに周囲を探るが、感じられるのは緊張や心配、屈辱や憤怒。その発生源は足元その契約者。何も出来る筈も無い。
「戻って、【混迷の爆音】。精霊相手に、私は自衛しきれないわ。」
『すぐにでも。』
一度の跳躍で登代の元に戻った精霊は、その笛を緩く振るいながら警戒する。周囲に微かに響く音色は意識を昏迷に誘い、眠気にも似た感覚を周囲に与える。
何処から来ても、音を防ぐ物は無い。解放された【母なる守護】も、その中へ突っ込む気は無かった。風が止み、辺りを静寂が支配した頃、変化は訪れる。
「今よ、走って!」
八千代が二那を連れ添って駆け出し、山を下る方を目指す。困惑する二那と、置いていかれた【母なる守護】は隙を晒すが、襲われる事は無かった。
飛び出そうとするまでも無く、【混迷の爆音】に行動の選択余地など無かったからだ。盛り上がった地面から尾が伸び、地中からの一撃が背筋に突立つ。
『ぬぅ!』
「下よ、叩いて吹き飛ばして!【混迷の爆音】!!」
『承知...!』
痛みと倦怠感をも払う様に、大上段から地面へ叩き下ろされる笛は、その爆音も伴い兵器の如き一撃となる。
土砂を撒き散らしながら、地中にいた【魅惑な死神】を真上に吹き飛ばすと、返す一撃でうち飛ばす。
『シュアァァァ!!』
『硬い上に軽い...これでは潰す前に吹き飛ぶな。』
宙にいた精霊は建物へと叩き飛ばされるも、すぐに動き出す。痛覚があるのかさえ疑う動きに、やりにくさを感じた。
僅かに回る毒に、視界が鈍る。精霊の中でも、精神的頑健な【混迷の爆音】故に、まだ戦えるに過ぎないのだ。支障が無いとは言い難い。
「続けられる?」
『無論、抜かりなく。しかし、二柱相手となれば、確実とは言い難いでしょう。』
『我の事か?あそこまで契約者が離れては、何一つ出来ん。此度の闘争、降りさせて貰う。』
霊体化する【母なる守護】に、契約者が既に遠くにいることを悟る。彼の感情は愚直と言っても良く、ブラフを用いるタイプとは思えなかった。
問題は荒ぶる【魅惑な死神】である。どうも契約者との距離はあまり関係ないらしく、力の衰えを感じさせずに此方に走りよる。
「うわ...思ったより虫っぽいのね。」
『不快でしょうが、目を離さぬ様。避ける事も頼みますので。』
「えぇ、理解しているわ。それにしても...感情らしい感情が感じられない。気分的には楽だけど、やりづらいわ。」
『私にはそれが普通でしたがね。後ろへ、お嬢。』
光蠢く笛を肩に担ぎ、腰を落として待ち構える【混迷の爆音】。尾針を飛ばし、対応させている間に再び潜った精霊だったが、そう何度も奇襲させはしない。
『震えて眠れ...!』
柄頭で針を弾くと、潜った地点へと跳び出して一気に笛を振り下ろす。脚力による加速、轟く爆音、それによって破壊力を高められた一撃は、易く大地を割った。
吹き飛ばされる土砂に混ざり、【魅惑な死神】も地表へと姿を晒される。そこに追撃を加え...そして気づく。吹き飛ばされた方向に、展望台があることに。
『しまった...これが狙いか。』
恐らく、契約者に指示されただけで【魅惑な死神】にその意図は無かったのだろう。僅かな駆け引きで、感情を知られる事を悟り、契約者達は遠くへと退いたのだ。
よって、気づくのに遅れた。【魅惑な死神】が掘り進んだ穴により地盤が緩み、傾いた展望台の付近で闘っていた事に。
『お嬢!』
「【混迷の爆音】!」
手を伸ばし、掴もうとする二人の足元で地面が崩れ始める。崩れる展望台に触発され、乾いた土や落ち葉を巻き上げて土砂崩れが発生したのだ。
落ち始める中で、しっかりと登代を抱き抱えた【混迷の爆音】は、その笛を高らかに吹き鳴らした。爆音が土砂を退け、生き埋めになるのを防ぐ。
『お嬢、ご無事で?』
「ありがとう、でも油断しないで。あの蠍は地中を動くわ。」
『承知致しました、近くに木々でもあれば良かったのですが...』
地面から離れられそうな場所は、ひとっ跳びとは言えない距離にしか無く。契約者を抱えての跳躍に集中すれば、狙撃されてしまうだろう。
勢いをつけていては、突然の攻撃で思わぬダメージに繋がる恐れもある。じわりじわりと後退し、山頂を目指す。そこなら視野が開け、地中からの攻撃にも対応しやすいと考えたからだ。
「傷はどう?」
『問題ありません。怪我自体は少しつっぱりますが、毒は少量だった様で影響は薄いです。人間用なのでしょう。』
「それなら良かったわ。でも...この蠍、しつこいのね。」
地面の下からくる殺意に、冷や汗を流す程に緊迫感を感じながら、登代は嘯いてみせた。その緊張は、精霊の物か己の物か。それも判断がつかなくなるほど、心を乱される。
木々が乱立する場所まで来た瞬間、根だらけの地中は諦めたのか、飛び出しざまに針を放つ【魅惑な死神】。既に木上へと跳び上がっていた登代達を狙うには、少し遠かったが。
『狙う時間を与えれば当たるでしょう。そうそうに潰しますよ、お嬢。』
「えぇ、大丈夫。精神状態は良好よ、いつでも行って【混迷の爆音】!」
まだ斜面の残る場所ではあるが、想像以上に鬱蒼とした木々の根は蠍の奇襲を通りにくくしている。
葉陰から向けられる殺意を感じながら、【混迷の爆音】は笛を担ぎ、三度低く構えた。




