~happy birthday to ♉~
安堵は暗示に変わり、混沌とした自由よりも彼女を締め付けた。もっと早く、気づいていたら...いや、気づいてはいたのかもしれない。
必要最低限を残して家具の消えた部屋で、当てどない思考がグルグルと回る。電気代節約の為、明かりを灯さない部屋は暗く余計に鬱屈とした。
二年前。勤めていた宿泊施設が潰れ、職を失い。何とか旅行会社への就職を果たし、新生活を始めようとした頃だった。
二十三歳から三年間付き添った、同棲者の浮気を友人が発見し、開き直った彼に追い出される様に上京。恨みきる事も出来ず、身を引く事しか出来ない自分に、嫌気が差していた頃だった。
「二那さん、お電話出てくれるかい?」
「はい、ただいま!」
午前中に慌ただしかったその日は、皆の昼休憩がずれ込み。その時に事務所にいたのは、ほんの数名だった。
「はい、こちら染色トレベル サービスセンターです。本日は如何されましたか?」
『七月の六日に予定を入れてる、保木です。相談したい事がありまして、来店予約を入れたいんですが。』
「保木様ですね、かしこまりました。いつ頃がよろしいでしょうか。」
その日の夕方、という事をメモに取り、上に報告する。ここまでやれば、後の事は手が空いた先輩方がやってくれるだろう。まだ一ヶ月しか経っておらず、顧客の質問に答えられる程の経験は無い。
先月の統計をとってまとめ、宿泊施設の資料のコピーをし、広告等を作成した頃には、既に夜も更けていた。
「あ、終電...間に合うと良いけど。」
簡単な掃除の後に会社から出ると、冷えた夜風が肌を刺す。手袋とマフラーだけでは暖かいとは言いづらく、思わず首を竦めれど、耳が裂けるような空気を防ぐ事は無かった。
(マフラー、大きいのを買っておけば良かった。)
使い古したそれをキツく首に巻き直し、駅へと急ぐ。自然に小走りになる彼女は、足元への注意が疎かになっていた。誰かのイタズラか、自然にそうなっていたのか。石張りの歩道のブロックが一つ、飛び出していたのである。
気づいた時には、掌と膝に熱い痛みがあった。冷たい地面から起き上がると、破れたストッキングには血が滲んでいる。
「もぅ、なんなの...」
ほんの小さな事だったが、それがトドメになったのか、積み重なった思いは制御出来ず。知らずに涙が滲み、脳裏には次々と嫌な記憶が走る。
側を走るヘッドライトが照らす中、起き上がる気力も失せていく。深夜では、誰の邪魔になるでも無かった。
いっそ、このまま横に飛び出してやろうか?少しは誰かの記憶に残るかもしれない。そんな事を考え、ボンヤリと車道を見つめていると、フワリと温かさが身を包んだ。
「お姉さん、どしたの?大丈夫?」
長袖の薄いセーターを来た、派手な髪色の男性。肩を掴み、顔を覗きこむ彼に、二那は少しずつ焦点を合わせていく。
整った顔だな、等と考える程には思考が現実に戻ってくると、今の状況を再認識する。大丈夫だと、上着を返さなくてはと、慌てて立ち上がろうとした二那は、足の痛みでバランスを崩した。
「おっとと。大丈夫じゃなさそう?」
「いえ、あの!大丈夫です!すいません!!」
「いやいや、手ぇすっごい冷たいって。」
肩に置かれた二那の手に、自身の手を重ねながら男性は言った。驚いてサッと手を戻した二那に、彼は笑いかける。
「愉快な人だね、お姉さん。」
「え?あ、ありがとう、ございます...」
「ハハッ、なんでお礼?」
本当に可笑しそうに笑う彼は、そこでふと自分の肩を見てギョッとする。視界の端にチラリと写った赤に、半信半疑だったのだ。
「うお、これ血?」
「あ、ごめんなさい...!」
「あ、お姉さんの?怪我してんなら、大丈夫って訳でも無いでしょうよ。こんな時間だし...」
「あ、終電...!」
弾かれた様にポケットを探る彼女に、男性は腕時計の文字盤を見せる。
「間に合いそ?」
「あ...いえ。」
「ん〜...近くに御友人とかいたりする?俺で良ければ、家が近いから、手当くらいならできるよ?消毒とバンソーコー貼るくらいだけど、ね。」
ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべ、どう?と聞いてくる男性。最初は遠慮しようかと思ったが、せっかくの厚意を無下にするのも失礼かと思い直す。
どうしようかと悩む彼女に、男性は再び手を伸ばした。何度も断る勇気は無く、半ば流される様にして二那はその手をとった。
一晩を共にし、帰った後に上着を返し忘れた事に気づき...なんやかんやと理由が見つかっては、何度か会う事になった。その中で、彼は壇上瑛人と名乗った。笑うと、えくぼの愛らしい顔になった。
上の不祥事に巻き込まれる形で退職し、今はフリーター。いい機会だと思い、夢を追うのだと眩しいくらいの笑みで語った。年が離れたとは言い難い年齢ではあるが、若さや活力といった物を感じた。
「あ、二那さん。こっちこっち!」
「ごめんなさい、仕事が長引いちゃって。」
「また押し付けられたの?本当にお人好しだなぁ。」
いつもの人好きのする笑みを浮かべ、彼は立ち上がる。サッと手を取ると、二那を連れてすぐに歩き始めた。
「それじゃ、行こーよ。良い旅行先、見繕ってくれんでしょ?」
「良いかどうか、自信は無いけど...」
「いやぁ、期待してるよ!本職じゃん!」
「う...頑張ります。」
グイグイと引っ張っていく彼に、時々追いつけなくなりながらも、こうして連れ出されるのは悪い気はしなかった。自分は人に必要とされているのだ、という安心感があったから。
瑛人は飽き性なのか、あまり長く同じ場所にはおらず、待つのも嫌いだ。旅行地や宿を手早く見つけるなら、新鮮さは無くともメジャー所を探す方が良いだろう。
「ここと...ここなら宿が近いわ。あまり高くも無いし、見所も集中してるから、すぐに次の場所に行けると思うの。」
「へ〜、どんなとこ?」
「ここは紅葉が綺麗で...近くの動物園は、この前パンダの赤ちゃんが産まれたのよ。ここの裏には、確かギターのお店もあったわ。」
「マジ!?そこにしよっかな〜...あ、でも遠いな。手持ち足りるっけ...」
うんうんと唸り始めた彼は、とても残念そうに見える。悲しげな表情に放っておけなくなり、二那は少しだけ踏み入った。いつもならしない様な事も、彼の接しやすい態度に絆されたのかもしれない。
「その、良ければ一緒に行きません?まだお礼も出来てませんから、旅費くらいなら持ちます。私も誰かと一緒に行きたいと思ってましたので。」
「え?マジ?ホントに良いの?」
「えぇ、勿論です。」
これが、始まりとなるとは、思っても見なかった。
一年が過ぎた。冬も過ぎ、暖かさを感じるのも目の前に迫った頃。どちらから言った訳でも無かったが、いつしか二人は互いの部屋に連泊することも多くなっていた。
もしかしたら、同棲となるのかもしれない。そんな事を思い始めていた頃合だった。
「二那さん、最近明るいねぇ。猫でも飼い始めた?」
「猫、ですか?」
「うん。ちょっと疲れてそうだけど、凄く楽しそうだからさ。あ、これは猫ちゃんだな?って思ったんだけど...違ったかい?」
「楽し...そう、でした?」
「え?うん。...もしかして、これってなんとかハラスメントとかになる?」
少し慌て始めた上司に、本当に気が弱い人だな、等と思いながら大丈夫だと告げる。安心したような上司の隣で、自分の事を思い返してみる。
(楽しそう...か。)
思えば、あまり人にそう言われた事はない気もする。地味で落ち着いた、面白みの無い優等生。愛想笑いと泣き顔で出来た仮面、等と評された事もあっただろうか。
特にここ数年は、不幸な事も多かった気がする。もし明るく見えたなら、それは間違いなく彼のおかげだと思えた。
「猫ちゃん、か。」
「あ、やっぱり飼ってる?」
「ちょっと、二那さ〜ん。松村さん無類の猫好きなんだから、面倒くさいよ〜!」
「おいおい、田辺君よ!それは失礼じゃない?」
じゃれ合い始めた職場の先輩達を見ながらも、脳裏には瑛人の事が浮かんだ。
気まぐれで、愛らしくて、ちょっとダメな所もある。確かに猫らしいかもしれない。自分が居てあげなくては、なんて少し傲慢にも思える事も考えてしまう。
「松村さん、これはアレっすよ。どちらかといえば、恋。」
「やっぱり猫ちゃん?」
「いや、松村さんの特殊性癖は聞いてないっす。」
「冗談だよ?ねぇ!本気で引かないで?」
後ろで騒ぐ声も聞こえないまま、日々の生活は過ぎていった。使う宛の無かった貯金は減っていき、部屋には彼の物や思い出が増えていく。
目的がある人生とは、なんと楽しい物か。給金が待ち遠しく、休日を待望するようになっていき、それが活力を生んでいく。
そんな風に、ただのルーチンやタスクだった日々が変わっていく中で、一人では行きにくいからと水族館に二人で行った時だった。
「大学も出て間も無いし、俺の事はガキみたいに思ってるかもしれないけど...やっぱ、なぁなぁなのは駄目だと思って。二那さん、俺と付き合ってくれませんか?」
「断れる訳、無いじゃない...よろしくね、壇上君。」
きっと過去は振り切れる、そんな風に思えた。
思い出しても、辛いだけなのだ。なので端的に述べよう。
彼は私に甘えて来た。そして、私はそれを許容しすぎた。それだけなのだろう。
気付けば、彼はバイトを止めていた。気付けば、彼は私に怒る事が多くなっていた。気付けば、痣が増えていた。気付けば、財布が軽くなっていた。気付けば、彼は帰らない事も増えてきた。気付けば、私にはルールが増えていた。...そして、気付けば。私の部屋には彼は居なかった。
昨晩は妙に荒れていて、疲れているのだと思った。我慢していれば、いつもの元気で可愛らしい、優しい彼が帰って来ると思った。しかし、私では受け止め切れなかったのか...彼は出ていった様だ。
「あ、お財布...」
確か、昨日は机の上にあったのだが無くなっていた。携帯の連絡先からも消え、彼の荷物は一切が無くなっていた。
「あの、すいません。ここ、金牛さんのお宅ですか?」
「...はい、何方ですか?」
「すいませんね、我々も仕事でして...おい、取り掛かれ。」
「待って...なんですか貴方達!」
「壇上瑛人、知ってますね?若い女と、仲間内の金を持ち逃げしましてね...四千万、返してね?あぁ、手荒な真似はしませんよ。貴女が黙ってる間は、ですけど。」
「そんな...」
それが、一ヶ月前の話。警察等に行く事も考えたが、それ以上に恐怖が勝る。どうしようも無い、自分が払えないのが悪いのだと、それで納得していれば怖くないのだから。
家から出ようにも、周囲の目が恐ろしい。どうにも出来ない。あの日から、何も進まない空間で、未だに彼が帰って来るのを待っている。全て夢なんて...願いながら。
「失礼しますよ、っと...」
「...何方、ですか?」
「田辺先輩ですよ〜、一月も無断欠勤はダメじゃない?...ってのは建前で。」
不法侵入だし住所は教えて無いのに、等と言う気力も失せていた。
「俺の副業...本業?の案件でね、適合したんだよ。携帯にメール来てなかったかい?」
無言で差し出すスマホは、電源を落としていた。いつからか、覚えてはいない。
「あぁ、部屋もなんか大変な事に...あれ?このスマホ、なんで連絡先一つも無いの?ロックも...はー、そういう事ね。」
大きなため息を吐いて、倒れたゴミ箱を戻した彼は、取り繕ってこう言った。
「この一件、清算出来るなら、どうする?」
「え?」
「貴女は選ばれた、十二の勇士に。貴女は招待された、願いをぶつけ合い、凌ぎ合う戦に。我々の...「精霊舞闘会」に。」
寒さが際立ちはじめる、そんな時期の事。
半ば投げやりな、半ば夢現な心地で。私は怪しげな悪魔の誘いを、伸ばされた唯一の手を取ってしまったのだ。




