海中の死闘
獲物を屠る顎門の様に、下へ向けられる鋏は獲物の来訪を待っている。しかし、待てども待てども【浮沈の銀鱗】が姿を表さない。
「...逃げた?」
『いえ、遠くに流れた泡も、地表で動いていませんから...これは、迷っている?』
「ボクたちの場所の事?分かるんじゃ無いの?だって、あんなに正確に...」
四穂が目撃しただけでも、三日目の夜に梯子を立てかけた真樋、今夜の走るルクバト、地中からの攻撃はどちらも位置を知っていた様に感じる。
それが、今は出てこない。何が違うのか...それを見つければ有利になるかもしれない。
「そういえば、彼女はともかく、彼女の服も液状化しないよね。残念!」
『残念なのは主様の考えた結論ですわよ...ほら、出てきましたわ。』
契約者の息継ぎの為だろう、離れた所に浮上し此方を睨みながら旋回する【浮沈の銀鱗】を示し、【泡沫の人魚姫】はその甲殻を守りの形態へと変化させる。
盾のように広がった鋏を、自身と四穂の前にしっかりと据えた。
『どうして襲ってこないのでしょう。距離も詰めて来ませんし。』
「出来ないか、必要がないかの二択だ!ってクロさんなら言いそうだね。」
『襲えないのは、場所が分からないからでしょう。必要がない...そういえば、もう一人の契約者は?』
「それならさっきから視線を感じるし、あっちのコンテナの裏じゃない?泡も間にあるし、今は何も出来ないでしょ。」
再び潜航した【浮沈の銀鱗】を睨み、他の事は意識から閉め出して集中する。気も漫ろでは、負けたって文句の一つも言えないだろう。
またも襲って来ない【浮沈の銀鱗】に、四穂は段々と焦りを感じる。
「あー、もう!ボクは待つの苦手なのに!」
『場所を変えますか、主様。水中ならば、私から攻めることも出来ましてよ?』
「そうだね...海まではそんなに無いし...走り抜ければ行けるかな?」
振り返って確認しても、【疾駆する紅弓】に影響がある程は離れないだろう。
泡に乗ったままでは、風で流れるに任せるままになってしまう。靴紐を結び直し、深く息を吸う。
「よし、行くよ【泡沫の人魚姫】!出てきたらお願いね!」
『承りましたわ!』
地面に跳び下りて、すぐに直線を走り抜ける。数回ほど地面を蹴ると同時に、踏み出した足が沈む感覚が襲う。当然、そこからの回避は間に合わない。獅子堂健吾とは違うのだ。
故に、取れる手段は防御。迎撃などと言って余計な気を回し、怪我をすれば目も当てられないのだから。ここはまだ、敵のフィールドである。
『そのまま走ってください!』
「ありがとう!」
すぐさま【泡沫の人魚姫】が足下に顕現し、現れた【浮沈の銀鱗】の口内へ甲殻を差し入れる。とんでもない馬力がそれを歪め、表面に荒い傷を残した。
その甲殻へ足を踏み出し、そのまま跳んだ四穂は更に走る。堤防から飛び出し、最大限距離を稼いだ先にあるのは、宙に浮く泡だ。
「わ、とと...戻れる?【泡沫の人魚姫】。」
『すぐに!』
『逃がす訳が無かろう!』
更に顎に力を入れ、噛み砕かんとする【浮沈の銀鱗】から、盾状の鋏をバラバラにして身にまとい逃げ出す【泡沫の人魚姫】。
噛む対象が無くなり、硬質な音でその牙がうち鳴らされた。口に残った一部の甲殻を吐き出し、自身の周囲の液状化した地形からイルカの様に飛び出した【泡沫の人魚姫】を追いかける。
『ちっ、追いつかんか...』
泡にバウンドし、みるみる距離を離した【泡沫の人魚姫】は、そのまま海の中へとダイブする。
『ふぅ...ようやく、地上から離れられましたわ。貴方も見えるだけありがたいでしょう?』
『ちっ...振動で判断している事にも気付かれた様だぞ。』
「しょうがないやん、サメとまんま変わらんし...あ、ウチはやっぱり分からんからね?海水の中で目は開けられんわ。ゴーグル持っとけば良かった...」
『そんな事より、着替えの心配でもしておくんだな。海に出るぞ!』
コンクリートが飛沫をあげ、そして固まっていく。堤防を超えて海水を跳ね除けるように突進し、涼し気な顔の【泡沫の人魚姫】にその牙を突き立てようと開く。
それが閉じられた時、悲鳴を上げたのは海水だけ。鋼の様な歯の隙間から漏れ出るのは、精霊の血液ではなく無念の吐息だ。
『奴め、思った以上に素早い。』
『その程度なら、諦めた方がよろしくってよ?』
『舐めているのか?すぐに喰らってやるわ!』
浮力を調整し、上下方向の突進を繰り出す【浮沈の銀鱗】。先程よりも数段は早くなったその攻撃に、【泡沫の人魚姫】も回避は難しいと判断する。
カウンター気味に鋏を開き、突撃するサメの鼻頭目掛けて掴みかかる。咄嗟に頭を振って、頭突きの様に弾き飛ばした【浮沈の銀鱗】の体当たりが彼女を襲う。
天を仰ぎながら海上へ飛び出し、甲殻越しに伝わった衝撃に呻きを上げる精霊に、深くに潜り反動をつけた【浮沈の銀鱗】が再び迫る。
「下!防いで、【泡沫の人魚姫】!」
『はい...!』
背中に最大限に弾力を高めた泡を生成し、一瞬の浮遊感を感じながら覚悟を決める。
息を出し切った次の瞬間には、とんでもない勢いの銀色が泡越しに追突した。浮力の速度と鉄の様な鱗は、【浮沈の銀鱗】をまるで弾丸に錯覚させる。
『ぐぅ...!』
『割れんか...!』
その弾力で高く空へ弾きあげられた【泡沫の人魚姫】は、途中で形成した泡を乗り継いで海面へと帰る。海面を揺らして海へと戻った【泡沫の人魚姫】は、即座に海中に潜り観察する。
海面へと浮上せずに機会を伺っていた【浮沈の銀鱗】は、波紋が広がった時点で突進をしている。見つけた時には既に間近で、その牙の表面がくっきりと見える程。
『っ!』
『遅いわ!』
咄嗟に回避行動を選択したものの、それは手遅れ。甲殻を展開させる間もなく、その牙が腕へと深くくい込む。
海中に漂いだす血液が、視界を赤く染め上げる。肉を嚥下した【浮沈の銀鱗】が、血の霧から抜け出して海面へと浮上する。
「っぷは!なんか生ぬるかったんやけど...」
『美味とは言えんな。』
「うわ、グロ!無理無理無理!ちょっと離れてぇな!」
『我儘を言うな、来るぞ。』
向きを変え、再び噛切らんとする【浮沈の銀鱗】に、片腕となった【泡沫の人魚姫】が猛然と突き進む。残った腕に全甲殻を集め、大型の鋏を形成している。
断頭台を思わせる雰囲気さえ纏う、攻撃的なフォルム。それで【浮沈の銀鱗】に跨る寿子を狙う。
『沈むぞ!』
寿子に声をかけつつ、浮力を強めて【泡沫の人魚姫】の上を取る。当然だ、狙われたのは上に跨る寿子なのだから。
沈むという叫びに騙され、咄嗟に下へと泳いだ【泡沫の人魚姫】が間に合う筈も無く。慌てて上へと身を捻れば、【浮沈の銀鱗】の尾ビレが迎え撃つ。
『どうした?その程度ならば呆れ果てるぞ。』
『私、喧嘩は苦手では無い程度ですのよ...』
『ならば、諦めてエサになればいい。』
大きく口を開いて、トドメを刺そうと襲い来る【浮沈の銀鱗】の胸びれ。ぐったりした彼女に余力は残っていないと踏み、意識の外だった末端部位に、掴むことに特化した鋏がくい込む。
『えぇ、苦手では無いのですよ、お魚さん?』
『貴様、なにを?』
痛みはあるものの、致命的な傷にはならない。陸に打ち上げてやろうと、泳ぎ始めた【浮沈の銀鱗】だが、すぐに立ち止まる。
泡だ。海底から昇ってくる、無数の泡である。水圧から解放され、膨張している巨大な。水中では弾力を感じることは無いが、そこに飛び込めば自由を奪われる。気体は液状化出来ないからだ。
『焦らずとも良いではありませんか。お話でもしません?』
『なにを馬鹿げた事を。』
契約者の近くにいる【浮沈の銀鱗】が、海上に契約者を残した【泡沫の人魚姫】に力負けするはずも無く。引きづるように突き進む。
泡を避けての行軍は道を選ぶ。遅れ始めた地上への道のりの最中に、背中を叩かれる。息継ぎの合図だ。
『この状況で無茶を言う...!』
数分は経過しており、むしろ長い方なのだがそれはそれ。タイミングを恨みつつ、胸びれを引く人魚を見る。
『まさか、これを狙ってか!』
『さて、何の事でしょう?』
海底へと引きずり込む精霊は、今も泡を生成しているのか、海面で破裂している泡の数に比べ、周囲の泡は減っていない。
とにかく息継ぎを行わせようと、【浮沈の銀鱗】は無防備になるのを承知で泡の中へ突っ込む。相手も状況は同じ筈だ、致命的な不利は無い。
『息を吸う準備をしろ、3、2、1...今だ!』
「...っ!あ、うぅ!」
『どうした?』
大きく息を吸い込んだ寿子が、突如として頭を抑える。自然落下に任せて落ち、泡の下部から海中へと潜る頃には、ぐったりとして横たわる体温が鱗ごしに伝わってきた。
『空気では無いのか...?』
『海底に空気があるとお思いで?私、泡を生成するだけですのよ。』
『...水蒸気か。』
肺に入った物が少量であっても、呼吸が出来るわけでは無い。溺れないだけ幸運だが、既に肺は空気を欲して苦しみを脳に伝え続けている。
辛うじて捕まってはいるものの、それも時間の問題。【浮沈の銀鱗】の口の中にも空気は無く、海上に出るしかない。
『あの泡をかいくぐって、か。』
『させると思いますか?』
掴んだ胸びれを強く引き、泡や海底へと誘う【泡沫の人魚姫】。
『貴方の敗因は一つですよ。腕を食いちぎり、勝ちを確信し、慢心した。私の得意な事は、場所に閉じ込めたり守ったりする事。契約者を連れて海に行ってはいけないでしょう?』
『ふん、ならば...沈むまで!』
浮力を極端に減らし、空中を落ちるかの様に下へ下へ加速していく。この際、泡は何の抵抗にもならない。むしろ、【泡沫の人魚姫】も邪魔が出来ない状況だ。
グングンと海底に近づき、そのまま地中へと潜る。ここでは泡は出来ない。寿子の握力があるうちに、地中を経由して地上に帰るだけだ。
『させ...ません...!』
少しでも減速させようと、液状化していない場所に尾ビレを伸ばして擦らせる。柔らかいヒレから血が滲み、砂が動き...海水が渦を巻いて流れ込んできた。




