荒ぶるのは金雄牛
古めかしい時計が、ボーンボーンと日付の変化を知らせる。怯えた様に肩を跳ねさせ、一人の女性が時計を見つめた。
「あぁ...驚いた。」
『ふん、くだらん...』
民家に潜む、金牛二那その人である。契約した精霊【母なる守護】は、名前に似合わぬ呆れた様子でせせら笑う。
『怯える必要はない。この狭い空間、我が一暴れすれば勝利よ。』
「それは、私も危なくないの?」
『我を信用せんと?』
「そういう訳じゃ...ごめんなさい。」
素直に頭を下げる彼女に、それはそれで面白く無いと、彼の精霊は呟いた。
どうすれば良いと言うのか。困った彼女は、ひとまず外に目を向ける。
「本当に静か...まるで人が居なくなった世界みたい...」
『あながち、違ってもいないがな。日常生活のプロトコルが、取っ払われたのだ。肉壁程度にはなるが...貴様のような臆病者に、これはゲームであり現実ではないと知らしめる、良い雰囲気だ。』
「だって...ケンカなんて」
『ケンカではない!これは己の欲望のままに、他人を蹴落とし夢を掴む試練ぞ!まったく...』
認識の相違。現実で社会の中においては、重要な常識や倫理、道徳。それを真っ向から否定する精霊の言葉は、この世界ではむしろ正しい。
一時の夢の如く、儚い七日間の世界。そこでは、武骨で血と泥にまみれる事こそ、求められる理想なのだ。参加者が行動しないのならば、ノイズは排除するしかないのである。
『おかげで潜みにくくなったがな。貴様の利点は、一般大衆共に溶け込みやすい事だったと言うのに...』
それを活かして奇襲など、出来るのならば溶け込めてはいないだろうが。昨晩しか暴れられていない精霊は、次々と愚痴を溢す。本当に守護とは名ばかりだ。
『それで、どうする?もう十分に休んだろう?』
「まだ場所はバレて無いでしょ?朝まで」
『たわけ!昨晩の抗争を見なかったか!既に他の参加者は、己が精霊を従え争っているのだぞ!』
「...ごめんなさ」
『そこだ、謝るな!我を従え、指揮し、駆り立てよ!貴様にはそれを許していると言うに、何故すぐにへりくだる!気に食わん、まったく...!』
散々に吠えた【母なる守護】は、荒く鼻息を吐く。苛立たし気にかく前足の所為か、床が荒れている。
対応が分からず途方に暮れる二那に、精霊はついにあきらめた。
『ここまで言われれば、普通は怒るものだと思うが?』
少し穏やかになった口調に、二那は安心して口を開く。
「だって、貴方は私を守ってくれるから...嫌いじゃないのに、怒れないもの。」
『ふん...くだらん、実にくだらん。契約者が居らねば、暴れられんからに過ぎん...』
軽く角を押しあて、【母なる守護】は再び告げる。
『良いか、ここにいるということは、手段を選ばない程の苦難を負っているのだろう?ならば、貪欲であれ、傲慢であれ。貴様は、怯えと穏やかを、甘さと優しさを履き違えている。』
「それは...」
『何の為だの、深くは聞かん。興が冷める。だが、せめて我の契約者として相応しくあれ、分かったな?』
「...えぇ、分かったわ。」
頷く二那に、本当だろうな、と訝しむ精霊。相応しく、とは。この場合は侵略を辞さない雄々しさと、得るものを求める強欲な覚悟だ。彼女には、到底見当たらない、と精霊は評価していた。
『まぁ良い、今夜のうちに動くぞ。我は損傷しにくい身であり、他所はそうでも無い。昨日の疲れも傷も残る筈だ。人もおらず紛れるのが困難な以上、此方が動く他あるまい?どうやら、射手も移動した様だからな。』
「でも、何処へ?」
『ふん、若造が示したろう?人は騒ぎに集まるのだ。』
「それって...」
首を傾げる二那に、【母なる守護】は口角を上げて見せた。
何度目かの轟音。警察は夜は動かないのか、幸いにも妨害は無い。
「ねぇ、【母なる守護】。流石にやりすぎ」
『喧シイ!スグニデモ来ルト思ッタガ...ドイツモコイツモ消極的ナ!』
苛立ち紛れに角を振り上げれば、路上に止まっていた車が裏返る。波紋のような跡がつづく、謎の大通り。矢の跡も目立つそこで、【母なる守護】は大暴れしていた。
火こそ出てはいないものの、辺りの様子は悲惨である。掘り返された地面、潰れた車、倒れた街路樹。その角が近隣の建物にまで届く頃、ふと空が暗くなる。
『ナンダ?』
「上よ!」
首にワイヤーを結び、離れて見守っていた二那が叫ぶ。金属の角が打ちすえ、弾いた物は鉄骨だ。
その質量に裏打ちされた衝撃は、強かに【母なる守護】の頭蓋を襲った。
「人が寝てんのにゴタゴタと...煩いと思ったよ。」
『俺は満足な相手だがなぁ。行くぜ、レオ!』
「眠ぃんだっつの...!」
屋根の上から飛び降りた二つの人影に、確認をするまでも無く【母なる守護】は突進する。滾る思いをぶつけたそれは、自分よりも獰猛とも思える笑みを浮かべていた。
『潰してやんよ!ダアァァララララアアァァァァ!!』
契約者の前に立ち、拳を乱射する。金属を打つ硬い音が響き、蹄が地面の上でスリップする。速度×質量。あまりにもシンプルな撃力は、ダイレクトに【母なる守護】とぶつかり合う。
金属の硬度と質量。しかし、蹄が滑ってはその力を伝えられる事は無い。押し込もうとする【積もる微力】と、踏ん張る【母なる守護】。あっという間に逆転した。
『ヌゥ...正面カラ我ガ突撃ヲ防グカ!』
『スニーカーでも履いて出直しやがれ!ダラァ!』
止めと言わんばかりに、引き絞った拳を撃ち出す。ぼんやりと揺らめく闘気が、積もりきった力の証明。既に何もせずとも、【母なる守護】をその場で踏ん張らせている。
『ふん、猪口才な!』
金属化を解いた精霊は、その角を【積もる微力】に差し向けた。殴られている訳では無いいま、重要なのは金属の硬度より蹄の摩擦。
積もった力を強引に捩じ伏せ、そのまま頭をかち上げる。確かに威力を抑えている筈だが、それは易く【積もる微力】を吹き飛ばした。
「何やってんだ、レイズ。」
『受け止められると思ったが...首だけじゃなく、前足まで使って来やがった。思ったより力あるぜ、野郎。』
「見りゃ分かるよ...なら、完全に止まるまで叩き込んでやれ。」
『溜めすぎたか、そろそろ溜まりが悪いんだがな...まぁ良い、動くなら動けなくするまでだ!』
闘気が押し付ける負債にも、限りはあるらしく。不満そうな【積もる微力】だったが、すぐに切り替えて【母なる守護】を睨む。
『随分と楽しそうだな、童子!』
『ハッ、たりめぇだ!てめぇもだろうが!』
関節に向けて蹴りを放つ【積もる微力】に、その足を潰す様に角を落とす【母なる守護】。轟音を上げて襲い合う二柱の側で、健吾は緊張しつつ立ち続ける。
その距離、約三メートル。本当に目の前である。仁王立ちで行く末を見守る彼は、離れた場所で身を隠す二那とは対照的だ。...【積もる微力】の特性上、強いられている事だが。
「レイズ、のんびりしてんじゃねぇよ。早く帰って休みたいんだ、仁美も起きちまうかもしれねぇだろ。」
『あーってる!少し待ってろ!』
『嘗めるな童子が!』
頭に積もる重さを、鬱陶しげに振り払うかの如く、角を振り回す。数歩退いて様子を見る【積もる微力】が、闘気を滾らせて踏み込もうとした時だった。
警鐘を鳴らすのは、本能に近い勘。健吾と【積もる微力】は、まったく同じタイミングで飛び下がり、訪れた衝撃に備える。
『attack、再び行きます。』
落とされた車が潰れ、漏れでた燃料は引火し、赤々と周囲を照らす。木の上、彼等を見下ろす様に、白布で顔を隠した精霊は瓶に手をかけた。
『マタシテモ邪魔ナ...!』
『先にぶっ潰してやる、軟弱野郎!』
燃える車を押し退けて出てきた【母なる守護】が呻けば、それより早く【積もる微力】が木に向かって駆ける。振り上げた拳は、幹を撃ち据えて大きく震わせる。
『danger、戦闘を続行しますか?』
「あぁ、そのまま押しきれ【宝物の瓶】!」
何発か貰った【積もる微力】と、闘気の紋様が浮かぶ【母なる守護】。ここで逃すつもりは無いのか、二那の近くの路地裏から現れた真樋は、追撃を命じる。
狩衣を翻し、【宝物の瓶】が小太刀を鞘から滑らせる。それを引き絞って構え、鋭く放つ。空気を裂いて迫るそれを、【積もる微力】は猛然と膝で蹴り上げた。
『っ!』
『顔なんざ隠してる奴に...負ける訳ねぇだろうが!ネクラがぁ!』
片手が上に伸びきった精霊へ、上半身を回転させてのストレートパンチ。顔に吸い込まれる様に突き進むそれを、一つの瓶で防ぐ【宝物の瓶】。
当然だが、拳を構わずに突き出す。瓶が割れたその瞬間、低いブゥンという音。嫌な予感に咄嗟に腕を引いた【積もる微力】たが、その時には遅かった。
『っ...エンジンかよ!』
モーターボート等に使う、大きなファンのある原動機。水に流れを作るためのそれは、極限まで抵抗を減らす為に非常に鋭い。
付属部品の無いそれは、すぐに止まってしまう。だがその僅かな間に、【積もる微力】の肩口を裂くのには十分だった。
『question、誰に何でしたか?』
『クソが...!』
腹立たしげに鉄塊へと変貌させ、そのまま殴り飛ばし。【積もる微力】は健吾の元まで下がる。
「無事か?レイズ。」
『問題ねぇ。だが、してやられたな...苛立つぜ。』
飛び散った血を拭うと、強く拳を握りしめる。視線を戻せば、その先では【母なる守護】が【宝物の瓶】を轢き潰そうとしていた。
瓶を開き、そこから飛び出るのは消火器だ。小太刀で貫かれたそれは、粉末とガスを振り撒いて視界を潰す。
『ムゥウウウゥゥゥゥ!!』
「落ち着いて、【母なる守護】!下にっ!?」
『please、喋らないで頂けますか?』
首筋に当てられた小太刀が、冷たく死の気配を押し付ける。この精霊は躊躇しない。それは直感的に理解できた。
白い煙幕の中へ、ゆっくりと波紋が近づき...重い金属の牛は沈む。咄嗟に金属化を解こうとも、もう遅い。【積もる微力】の闘気もあり、抵抗さえ出来ず落ちていく。声にならない悲鳴が、二那の喉から漏れた。
「ピトス、その人は放置だ。脅威にならない。」
『Roger、次の行程へ。如何します?』
「問うまでも無いだろう?」
『ダアァァララララアアァァァァ!』
『yes、排除します!』
真樋へと走りよる健吾とその精霊へ、小太刀の煌めきが割って入る。一瞬の膠着、僅かな確認。それは、雲から月光が漏れた瞬間、咆哮にかき消された。




