エピローグThe♑
埃臭い空気、濡れた土の匂い、そして凪いだ心。
こんなにも穏やかな心地は、何時ぶりだろう。誰もいない空間、誰も来ないとわかっている場所。安心した眠りのような物だった。
夢の中で行われた物は、あまりに過激であったが。それでも、彼女にとってはあまりに優しい悪夢だった。
「コーヒーでも、入れようかしら。」
電源は生きているし、コーヒーメーカーも動いている。そんなに拘りは無いので、ここに保管されてあるものでも十分だ。
「【混迷の爆音】、貴方は...って、出てくる訳、無いわね。」
あれはゲームのキャラクター、ここに居る筈が無いのだ...いや、この心には、居ると信じたい。
湯気が登るカップに、そっと口をつけ、苦味を舌の上で踊らせる。鼻腔に満たされる香りを楽しみながら、窓の外を見る。まだ昼を過ぎた頃、動き出すにしても、人が活発な時間。
「真っ当に清算する覚悟は出来たけど...まだ人混みに行く勇気は無いわね。」
ゲームの中で正気に戻れたのは、【混迷の爆音】が居たおかげもある。また一人で街中に行けば、多くの感情に当てられて狂乱するだけだ。
「少しずつ慣れていくしか無いのよね、きっと...」
誰も答えない空間で、日が傾いていく。風の音を聞きながら、そろそろ動こうという時、急に胸中に焦燥が訪れる。誰か来た、と思うにはあまりに十分。
(さっきのゲームの運営者...!?)
この場所を知っているのはそれだけだろう。この焦り、確実にこの場所を目的として訪れている。それも、変化しては遅い物。
つまり、移動の恐れがある自分。すぐに逃げなければ。
(...他の部屋に行ってる?)
開け放たれる扉の音、それは離れていっている。運営者では無い、のだろうか。
と、携帯がピリリリと甲高いベルを鳴らす。この電話の番号を知っているのは、運営者と...
「そう警戒しないで貰えるかな?」
「っ!?...なんで知っているのかしら?」
「予想は着いているんじゃないかな。私は探偵だ、社会で暮らしている人を探すなら、そう難しくない。」
コール画面の映るスマホを仕舞い、三成が椅子へ座る。
「頂いても?」
「私のじゃないし。」
「ありがとう。」
喉を潤す三成には、警戒の文字は見当たらない。が、その心中を感じている登代には落ち着かない。
そして、見つけた。コートの下にある冷たい反射。
「私、今はメスなんて持ってないわ。それ、下ろして。」
「ん?...あぁ、失敬。癖でね、悪気は無かったんだ。それに、今は弾も無い。」
どこまで本気なのか。ジトリと目を細める登代だが、彼はどこ吹く風と言った風体だ。香りを楽しみながら珈琲を眺めるその姿は、リラックスしている。
「警戒、解くの早くないかしら?」
「ここはデスゲームじゃないのでね。それに、君は早乙女君の友人だろう?」
「彼女がまだ、そう呼んでくれるなら。」
「答え等分かっているんじゃないかい?私よりも遥かに長い付き合いだろう。」
「当たり前じゃない、貴方に負けるような仲じゃないわ。」
挑発的に笑う彼に、つい言い返してしまった。それがツボにハマったのか、笑う三成に苛立ちが募る。
さっきから、自分の感情ばかり湧いてくる。彼の感情の動きが、微細過ぎるのだろう。珍しい感覚に、戸惑いが募る。
「それより、来客だ。」
彼が示した扉が、勢いよく開けられる。
焦り、悲しさ、次いで困惑と歓喜。ぐちゃぐちゃに押し寄せてきた感情が、訳も分からないままに登代の涙腺も崩壊させる。
「登代...!」
飛びついてきた旧友は、中学の頃よりも大きくなっていて、細った身ではその差に悲しさが募る。しかし、温かい。久しく感じなかった、人の温もりだ。
「もう...離さないから。逃がさないし、泣かせないから!」
「なんで、そんな事言うのよ..全部終わって、貴女に会いたかったのに。」
これでは、惜しくなる。甘えてしまいたくなる。最後の砦は、【混迷の爆音】と共に壊されたのだから。
弥勒の感情に流され、顔がぐしゃぐしゃになるまで泣いている二人を背に、三成はそっと扉を閉じた。
ようやく落ち着いてきた二人が、これからどうするべきかを話していると、三成が部屋へ入ってくる。
「私の所有権が届く物件の全てだ、全て郊外にある。好きなものを選ぶと良い。」
「どういうつもり?」
「ゲームの中では、炎や血で鼻が効かなかったんだが...まぁ、なんだ。着の身着のままというのも、不衛生では無いかな?」
言わんとする所にカチンと来るものはあったが、苦笑いの弥勒を見て何も言えなくなる。
「貴方が介入する意味を聞いたのだけれど。」
「それが依頼だからね。アフターフォロー、という奴だ。ちなみに、君の捜索願も指名手配も無い。普通に街中へ出ても問題は無いだろう。」
「私のコレ、忘れた訳?」
「思うに、集中する対象が無いのが原因だと思うよ。早乙女君が居れば大丈夫だろう。」
視線を向けられた弥勒が、任せてという様に頷く。自分の生活もあるだろうに、と心配が勝る。
「そんな迷惑をかけるつもりは無いわ。」
「大丈夫よ、ついでに双寺院さんの所にも行くし、対して変わらないから。」
「依頼は完遂したと思ったんだが...」
彼の驚いた声を遮って、登代が一枚の紙を差し出す。それに目を落として、三成が眉を歪めた。
「そんな顔もするのね、勝った気分だわ。」
「いきなり自宅を提示されれば驚くだろう。」
「事務所に住んでるの?」
まさか、と目を大きくする登代だが、その肩を掴まれて大きく揺さぶられる。
犯人は考えるまでも無い。目の前でため息混じりに書類を片付ける三成以外には、一人しか居ない。
「何考えてるの、登代!いきなり男性の家に住むなんて。」
「いいじゃない、貴女が寄る場所が減るわよ?」
「そういう問題じゃない!」
もう二人で話し合ってくれ、とでも言うように外へ出た三成の感情を感じなくなってから、登代が耳打ちした。
「怒ってる理由、二つ無い?」
「何が。」
「私の心配と、ちょっとした嫉妬。貴女のこんな感情、初めてだわ。」
イタズラが成功した子供のように笑う彼女に、怒るより先に驚きが来た。
「ゲームの中では、あんなに変わってたのに...」
「仕方ないじゃない。必死に大人の仮面を被ってたのに、叩き割られちゃったんだもの。」
「だとしても、そんな冗談は止めてよね。」
「あら?冗談じゃないわよ?」
何を当たり前のことを、と首を傾げる登代に、今度は弥勒が溜息を吐く。
そうだった、昔から少しズレていた。特に距離感と貞操観念が、独特なのだ。
「それなら私の部屋でいいじゃない。」
「いいの?私には年上趣味は無いのだけど、貴女と居ると分からないわよ?」
「そんな、四六時中考えてませんから!」
「ふふ、弥勒が良いなら、それで行きましょう。私も、貴女と居たいもの。」
楽しい日々になりそうだ。この楽観的なワクワクは、己の物か、弥勒の物か。どちらにせよ、胸中に湧いたのなら大事に受け止めるまでだ。
まだ、彼女と自分を比べて落ち込む事はあるだろう。でも、きっと。【混迷の爆音】が認めてくれた自分を、好きになれる日まで。支えてくれる人に、精一杯甘えて生きていこう。