星空の高潔
倒れ伏した精霊だが、霊体化も粒子化も始まってない。【混迷の爆音】は、まだ生きている。
確信を持って近づいていく登代が、そっと手を触れる。ピクリと動いた【混迷の爆音】が、ゆっくりと瞼だけを動かした。
「遅れたわ、【混迷の爆音】。大丈夫?」
『生きてはおりますよ、お嬢。面目無い有様ですが...』
小声で話す登代へ、口を動かさない程に僅かな動きで語る【混迷の爆音】。大きな欠損こそ無いものの、負傷損傷は大きく、到底動けるとは言い難い。
少し離れた所にいる健吾が、仰向けに倒れているのをチラリと確認し、次に周囲を見渡す。そういえば、倒れていた少女が見当たらない。あの傷で移動できたのだろうか?困惑が強くなる。
『お嬢、此方を...解毒であれば、口に含む必要があるでしょう。反動が酷いようなので、お覚悟を。』
「これ...そう、ありがとう。」
若葉色の透き通る瓶を受け取り、登代は山羊頭の精霊を労った。こんなになってまで自分を後回しにする、まるで死にたいとでも言っているようで、僅かに羨ましささえ感じる。
もし、自分に死ぬ勇気さえあれば、もっと事はシンプルだったのに。そんな考えを振り切るように、瓶の蓋を捻り、僅かに口に含む。
「ゲホ、えほ...かなりキツいのね、これ...甘味も濃すぎないかしら?」
『...本来は薄めるものなのでは?』
「そうかもしれないわね。とりあえず、残りは貴方に上げるわ。」
琥珀色の透明なお酒を振り掛け、中の目減りした瓶に栓をしてしまい込む。傷の癒えた【混迷の爆音】が、倒れ伏したまま目を動かした。
『疲労は回復するとは言えませんが、傷はある程度、癒えましたね。』
「それなら酔わないでしょう?あとは任せるわ、【混迷の爆音】...」
『お任せを。憂いが無くなった以上、気にする事はございませんので。』
身体の具合を確かめながら立ち上がり、【混迷の爆音】が笛をかつぎ上げた。すぐにその動きに気づいた健吾が首を巡らせ、ギョッとしている。
「お前、マジでバケモンかよ...!」
『一度は死ぬかと思いましたよ、美酒のおかげです。』
「あ〜、忘れてた...レイズ、行けるか?」
『はん、俺のスタミナをテメェのと一緒にすんじゃねぇよ。とっくに準備出来てんだよ。』
顕現して肩を並べる精霊が、その両拳に闘気を滾らせる。片角の精霊が睨むのは、片足隻眼となった獣。手負いのそれは、本来なら手を出す事も烏滸がましい弱者の相貌だ。
しかし、この精霊に対しては死力を尽くす必要がある。そう断じた【混迷の爆音】が、短く「お嬢」と声をかけた。
「分かってる...!」
「あいつ、いつの間に。」
健吾がその動向に目を凝らせば、胸元から引き出した首飾りが緩く発行した。
あまりに明るい月明かりと星々の視線の中、【混迷の爆音】の笛が明滅する。蠢く怪光に手を這わせ、従者は得物を肩へと上げる。
『おまたせ致しました、何時ぞやの続きと参りましょうか。』
『レオ、こっちも使うしかねぇ。』
「まだどっかに、あのサメとか残ってんのにか?俺死ぬぞ。」
『なら気絶しながら戦り合えってか!?』
「振らせなきゃ良いんだろうがよ!」『おい?クソが!』
走り出した健吾へ、置いていかれる前に取り憑く【積もる微力】。距離を詰めてくる契約者へ、迎撃の為に腰を落とす。互いの隙間を詰めていく足音を、カウントダウンとして腕に力を込める。
「レイズ!」
『仕方ねぇな!』
ゼロ。十分に詰まった距離に、腕を突き出す健吾。それに追随するように顕現した左拳に、迎撃するように笛を押し...込めない。
健吾の手に握られた、空瓶が目に入ったからだ。このまま振れば、笛を盗られる。しかし振らねば、拳に打ち抜かれる。
『腕以外を打つしかないか...!』
笛を方向転換するには、時間が無い。強引に腰を捻り、二の腕めがけて蹴り上げる。
しかし、笛が動かない以上、音波は発生しない。つまり、意識を吹き飛ばす事が無い。気絶しない【積もる微力】に、対応が出来ない攻撃では無い。
『捕まえた...ぜ!』
右腕で掴んだ足を、思い切り引き寄せる。バランスを崩した【混迷の爆音】へ、引き戻した左拳を突き出した。
一撃でも貰えば、力が蓄積する。そうなれば苦戦は免れない。即座に笛を吹き鳴らし、気絶した健吾と【積もる微力】を吹き飛ばす。
姿勢を戻すには無茶が過ぎたか、背中から地面へと落ちる【混迷の爆音】だが、すぐに立ち上がり跳躍する。下へと飛びかかっていた一人と一柱の蹴り足が空振り、一瞬の隙が出来る。
『潰れなさい...!』
落下する笛が受ける風、その全てを爆音へと変えて加速する。意識を吹き飛ばす音が健吾達を襲い、次いで質量が襲う。
衝突の瞬間の圧力が、爆音に変換される。一際大きな衝撃が襲い、【積もる微力】の頭をカチ割った。止まる笛、消える爆音、弾ける血。
『痛ってぇなあ...おい!』
ふらつきながらも、直感に従って突き出した腕が【混迷の爆音】を捉える。顎へめり込んだ拳が、歯を押し込んで口の中を錆の臭いで満たした。
頭から垂れる血をふるい落とす【積もる微力】、口から滲む血を吐き出す【混迷の爆音】。双方が睨み合い、互いの武器を構える。
『まだ、立てるのですね。』
『テメェこそ、しつけぇんだよ。』
「レイズ、いけるよな。」
無言で健吾の胸を叩いた【積もる微力】が、霊体化する。また来る、腰を落とす。一連の攻防において、負けていた訳では無い。繰り返せばダメージは向こうが大きいだろう。
次は対応してくるのだろうか? 己を...登代の願いを超えてくるのだろうか。期待と共に、させないという決意を込め笛を振りかぶる。
「打ち崩せ、【積もる微力】ォ!」
答えは無策。振り切られた笛を、気絶しながら拳で受け止める。闘気越しに衝突する衝撃は、最低限の物になる。止まった笛から音色が消えれば、戦士の目に光が宿る。
『ダアァァ...ララララァァアアアア!!』
乱打が笛を押し返し、負けじと反抗する精霊。
しかし、純粋なパワーでは差がありすぎる。すぐに均衡の崩れた押し合いは、【積もる微力】に有利なものだ。
『イグニ』
「レイズ、上だ!」
『あぁ?』
最後の一押しをしようとする精霊へ、僅かな影が刺す。
ビルの上から飛んだのか、ありえないほどに高空に見えるのは人影。間違いない、【宝物の瓶】である。
「このタイミングで乱入か?」
『あんだけ高いの、よく気づいたなお前。』
「たまたま目に影が入ったんだよ。」
『雑兵一人に、何を構っているので?』
そう問いながらも、【混迷の爆音】も上空から目を離していない。あの精霊ならば、このタイミングで見つかれば姿を消す事も考えられる。しかし現実には、落ちて来ているだけだ。
『何を考えているのか...』
『さぁな。』
真樋と【宝物の瓶】により、幽閉の結果を招いた精霊と契約者が毒を飲んだ精霊が眉根を寄せる。目の前の精霊よりも遥かに、警戒して然るべき相手だと踏んでいるのだ。
二柱が、その姿を視認できる距離、健吾が目を細めて必死に動向を探ろうとする距離で、途端に当たりを暗闇が包む。
次の瞬間、熱波。目の前の闇に炎がチラついた事で、ようやくその正体に気づく。
『放火した―――タンカー船か...!!』
『バカかよ...!』
ど真ん中に居たのでは、その衝撃は計り知れない。即座に移動を開始する。
今も朦朧としている登代を抱える【混迷の爆音】と、健吾を投げる【積もる微力】。山羊頭の精霊が跳躍しようとした時、戦士の精霊が拳を握った。
『イグニッション。』
健吾の胸と【混迷の爆音】の笛が輝き、爆ぜる。開放された衝撃が健吾を飛ばし、【混迷の爆音】の肩を押し飛ばした。
『貴様!』
『これで逃げられねぇだろ? 一緒に耐えようや、まぁ幸運を祈ってやるよ。』
『覚えているといい...!』
すぐに跳躍し、少しでも炎と飛散物が少なくて済むであろう場所を狙う。それを見届け、【積もる微力】もすぐに健吾の元へと移動する。
『生きてるか?』
「死にそうだよ!もう落ちるぞ!?」
『何とかなんだろ、とりあえずしゃがんでろや。』
「信じるぞ...!」
せめてもと赤いペレースを頭へ被る健吾の上に、金属とコンクリートの塊が降り注ぐ。芝生に衝突した船が歪み、割れ、溢れ出す。
炎が広がり、燃料と貨物に着火し爆発する。家ほどもあるような鉄骨や鉄板が飛び、周囲を廃墟に変えていく。芝生が燃え、残骸となった船を揺籃のように迎え入れた。
轟音、そして静寂。音というにはあまりに乱雑な、空気の波が消える。揺れ動いた木々が収まると同時に、残骸の上に【宝物の瓶】が降り立った。
『Finish、やっと集まってくださいましたね。残るは二柱...でも無いですか。』
『なるほど、勝利まで三柱でしたか。』
天井になっている船の元側面を蹴り飛ばし、登代を抱えた【混迷の爆音】が飛び出した。クレーンのワイヤーに絡まっている救命艇へと登代を入れ、そのハッチを閉める。
『残りの敵も、知りたい所ですね。』
『Please、自分で調べれば良いでしょう。』
『では、そうしよう。』
縮めた足が一気に伸び切り、笛が受ける風を爆音へと変える。空中で加速する【混迷の爆音】が、爆音を撒き散らしながら笛を薙げば、その音撃を利用し、【宝物の瓶】は距離を取っている。
元々ある能力の拡張だからだろうか、【混迷の爆音】のそれは制限が少ない。このまま逃げるだけではジリ貧だが、瓶のほとんどを失った【宝物の瓶】は、出来ることが無いと言っていい。
『Question、いつまで続けるので?』
『それは貴方次第です。』
隙間を抜ける風のように、笛の打撃を回避する。華奢なその身を包む、大きな狩衣が受ける音の衝撃は、気絶していようとも残り少しの距離を動かしてくれる。
『面を隠し、体型を隠し、まるで実体のない亡霊のようですね。』
『Joke?ならば、その笛に塩でも振りかけてみれば良いのでは?』
『生憎、潔癖なもので、ね!』
幾度目になるか、空ぶった笛だったが、脆くなった船体にぶち当たったのか鉄の破片を爆散させる。直撃を免れた【宝物の瓶】も、飛んできた破片に切り裂かれ、薄い若葉色の衣に赤が差した。
『どうやら、塩が無くとも良さそうですね。』
炎に照らされた片角の黒山羊が、目の前の精霊を見下ろした。