【辿りそして逆らう】
まずするべき事。それはこの建物から出ることだ。
大人の男相手に細く小さな少女が適うはずも無いが、さらに大きな差は数。この閉所、一人を追い立てるなら数人いれば事足りるだろう。
怯えからか近づいては来ないものの、それもいつまで持つか。出てこない彼女を確認したい、襲ってこない精霊が怖くない。そんな感情が現れるのはそう長い時間ではないだろうから。
「とりあえず、奥に行きたいの。お願い出来る?」
『キュ!』
この廊下に立っていては、いつ銃弾が当たるとも知れない。とにかく身の安全を確保、その後に脱出。この建物の裏手の扉が、無事に開けばいいのだが...それはたどり着いてから考えるべきだろう。最悪、健吾を見習って飛び降りて離脱する他無い。
散りばめられたガラスの破片の上を、這うようにして進む。穴だらけになった扉のうち、半端に開いた一番奥の扉。そこの隙間に身体を滑り込ませ、一息着く。
「ここは...なんの部屋なんだろう。」
自らの記憶...というには不可解な知識を探って行き、特徴から推察していく。窓は無く、入口は一つ、刺々しい壁に、分厚い扉。
何らかの録音スタジオだろうと検討をつけ、その顔を曇らせる。立てこもるには最適だが、脱出を目指す今、もっとも入ってはいけない部屋だ。
「追ってきてるかな...引き返せるか、見てきてくれる?」
『キュー!』
扉を潜り抜け、外へと精霊が行った瞬間、弾丸の嵐が集中する。引き返すのは難しそうだ。
他の出口を探り、室内へと視線を巡らせる仁美だが、やはり窓や扉は見当たらない。ガラス張りの部分があるが、開閉は不可能なようだ。
向こうに見える機材から、この部屋のマイク等に繋がる部屋だとは推測できるが、その部屋へは外へ出ないと移動できないだろう。このガラスを割るには、仁美は力不足だ。
「【辿りそして逆らう】の力で、どうにか割れないかな...」
ガラスは弾性が驚くほど低い。少しでいい、どうにか変形させることが出来れば、割れてくれるはずだ。
没データの精霊、【辿りそして逆らう】の能力は力の流れを辿る事と、それを逆まく事。元の力に全てが依存する能力だ。増幅や蓄積の方法を考えないとならない。
もしくは...
(外で撃たれている弾丸を、どうにかここに誘導出来れば...)
着弾し、止まった弾丸はもう還せない。動いてるままに誘導する必要がある。
一番現実的なのは跳弾だろう。ガラスの面に跳ねさせるために弾道を把握する必要はあるが、それは不可能に近い。こんなに様々な場所から撃たれていては、タイミングを合わせるのは困難だ。
しかし、それは把握するならの話。見たあと、知っているのならば難しくは無い。【辿りそして逆らう】ならば、それが出来る。
「【辿りそして逆らう】、戻ってる?」
『ルルゥ...』
「怖かったの?ごめんね...ここに一発飛び込んできたら、その道筋に一発、辿らせて欲しいの。お願いできる?」
『シュー!』
撫でられた手に額を押し付け、【辿りそして逆らう】は扉の付近で漂う。弾道を通すために少しだけ押し開ければ、あっという間に何発も飛び込んでくる。
これでは危険すぎて、跳弾を狙う余裕は無い。少し狭めた隙間から奥の壁へ突き刺さった弾丸が、数発になったところで扉を閉める。方向と位置から弾道を計算し、頑丈な板を探す。
少し逸らすだけならば、狙い通りに飛ばせるだろう。反響板だろうか、金属製の板を構え、精霊に合図を送る。
『キュ〜?』
「うん、お願い。」
扉を押し開け、外に出た精霊が辿らせる弾丸を探る。一度触れる必要がある為、警官達に接近しに行ったのだろう。
その間は無防備になるが、こんなリスクだらけの場所に襲撃してくる真樋達では無い。この中に居る限り警官達の攻撃は通ってこないだろう今、精霊が離れる事はリスクにならない。
(後は弾丸が貫通しない事を祈るだけ...多分、大丈夫な筈だけど。)
大きな的、そこに逸らすだけならば少し逸らすだけでいい。掠めるように当てるだけなら、裏にいる自分は怪我しない...筈だ。
経験がある訳では無い、実際に物に触れる事さえ、まだ慣れない。確信というにはあまりに、か細く儚いそれに縋り付き、その時を待つ。
『キュ!』
精霊の一声と共に、部屋へ侵入した弾丸が火花を散らす。次の瞬間には横で弾けたガラスが、仁美の肌を傷つけて散らばった。
すぐに戻ってきた【辿りそして逆らう】に治療を任せながら、割れた場所から飛び移る。倉庫に通じる扉から、横の通路へ。そして裏口へと駆ける。
外に出れば、その方面は細い路地だった。建物と崖に挟まれた、自転車でさえ通るのを躊躇する道。唯一、今立っている場所は広いが、そこから降りる階段は朽ちて壊れている。
「飛び降りるにはちょっと、高いかな...」
狭い中に降りては、思わぬ怪我に繋がりそうだ。跳ねて降りる程の身体能力があればいいのだが、仁美に飛んだり跳ねたりは難しい。
走るのも不慣れで、まだ足を痛めると言うのに。とにかく、ここから移動しなければならない。降りるのが危険なら、僅かにある足場を伝って移動するしか無いだろう。
「少し手を置かせてね、【辿りそして逆らう】。」
『シュルゥ〜。』
宙に浮く精霊を手すりに、ゆっくりと建物の横へ回る。弾丸が掠める壁から向こうを伺えば、ビルへの発砲は続いているが、その数は減っていた。
別働隊で動いているのだろうか?だとしたら何処へ?ビルの中へ入ったのだとしたら、ここも直にバレるだろう。とにかく西へ、当初の目的通り進むのがベストな筈だ。
「居たぞ、そこだ!」
「逃げるぞ、追え!」
足音と弾丸。背後から近づくその音に肝を冷やしながら、壁や塀へ回り込みながら走り続ける。数は随分減っているが、それでも四、五人はいる。
追いつかれれば、瞬く間に命を落とす。その確信だけは強く胸中にあった。その恐怖が足を動かしていく。
「あっ...!」
目の前に広がったのは、溶けた道。下水道だろうか?一人ほどの深さのそれは、足を止めるには十分だった。
南へ一直線、北方向は派手に弾けており、超えるのは難しい。超えるしか無い、降りようとした仁美の耳元を弾丸が飛び去った。
「追い詰めたぞ!」
「降りてる時間は、無い...お願い!」
合図を出すと共に、足元の水滴状のアスファルトを放り投げる。浅く緩い放物線を描くそれを辿り、跳んだ仁美の体がありえない高さに投げ出される。
しかし、仁美の力が弱かったか、向こうに僅かに届かない。穴へと落ちていく仁美だが、その顔は確信に満ちている。
「目の前で人が飛んだら...警戒してる人は、撃つ!辿って、【辿りそして逆らう】!」
空中高くにいる仁美へ、発砲される弾丸。力を辿り、仁美の体が勢いよく吹き飛ばされる。
逆らわない事、それによって得られる、【辿りそして逆らう】の機動力。本人の制御は一切効かないそれは、契約者にとっても諸刃の剣だ。
案の定、凄まじい勢いで迫るのは向かいの建物の壁。精霊が間に入り、逆巻く力によって反動を殺しこそしたものの、飛んだ瞬間と激突から転回への僅かなラグは、人体にダメージを残す。
「あぐ...でも、高い、ところには、逃げられた...」
ここに追いつかれるまでには、相応に時間がかかるだろう。見晴らしも良く、状況を把握するのにも有利なはずだ。
「さっきの人達、は...諦めては、くれてない、みたい。」
眼下に見えるのは、溝を越えようとする人達。全員で四名だったようだ。他の人は見えない、四穂や八千代が逃げることが出来たのであれば、そちらを追ったのかもしれない。
見通しのいい場所は、他には...あった。まるで大きな爆弾でも幾つも放り込まれたかのような倒壊の跡。火の手が上がり、ひっくり返った装甲車らしきものも幾つか見える。
「多分、魔羯登代と...健吾さん達、かな。無事だと良いけど...」
いや、今は他人の心配をしている場合では無いだろう。天球儀まではまだ少し距離がある。一度、北に見えるホテルを目指すのが良さそうだ。
中央に近い立地のそこは、高級感のある高い建物。何故か警戒態勢に置かれており、人の目が多い。故に、今まさに町を巡回している危険な勢力からは死角となりそうだ。
「バレないで入る方法があれば良いけど...健吾さんから瓶、預かって置けば良かった...」
あれがひとつあれば、かなり楽になっただろう。自分からアクションを起こせない精霊が、ここまで悩ましい事になるとは思わなかった。
とにかく、ここから降りなければ。健吾も【積もる微力】も居ない今、飛び降りるのはかなり賭けだが致し方無い。
「せめて、クッションみたいな物を辿れば、少しでも衝撃を減らせる筈...」
思考を口からポロポロと零しながら、窓から室内へ入って物色する。オフィスの倉庫だったようで、幸いにも丸めたマットがあった。
仁美が入るのがやっとだった窓からは出せず、ドキドキしながら廊下を通り、ちゃんとした道から再び屋上へと戻る。上がった息を整えた頃には、【辿りそして逆らう】によって治療が完了していた程だ。
「一応、メイン電源は切ったけど...階段もあるし、そろそろ登って来るよね。」
後ろの扉を気にしながら、ついでに持ってきたボールを放り投げる。その軌道を辿らせ、遠くまで飛んで行ったマットレス、自らもそれを辿る。
遥か高くから自由落下し、マットレスの上へと落ちる。反発力を最大限に遡らせた【辿りそして逆らう】により、骨が折れたりと言った事は無さそうだ。
「急が、ないと...」
動きを止めたマットレスは、辿ることも遡らせる事も出来ない。白く大きなそれは目立ち、下に降りたことを知られてしまうだろう。
そうなれば、無線機一つで捜索が始まる。それまでにできる限り離れておく事が重要だ。痛む体に鞭打って、道の先に見えるホテルへと急ぐ。少女一人で出歩くなど、この状況下では異常。道を逸れ、細い路地を走る。
日が傾いている。真っ赤と藍色の混ざった空は、このゲームの終わりを知らせていた。