「災禍」の戦い
急接近した二柱の精霊、しかしその速度は段違いだ。【疾駆する紅弓】が矢で突くより先に、目前に肉薄した精霊が背後へと抜ける。
振り向く時間は無い、感じる視線のままに、攻撃が来ると見当をつけた場所へ矢を運ぶ。一瞬遅れて衝撃、蹄が背骨へと食い込んだ。
腕、肩と衝撃を吸収していなければ、折れていたかもしれない。蹴り飛ばされながら空中で体勢を整えた精霊へ、【混迷の爆音】も跳び上がり、踵を振り上げている。
『速い...!』
蹴り足を受けて痺れる手は、矢を動かす事を叶えない。咄嗟に上げた徒手で受ければ、亀裂が走る音を聞きながら地面へと加速する。
瓦礫に埋まる【疾駆する紅弓】へ、自由落下する【混迷の爆音】が飛び蹴りを見舞う。咄嗟に矢で払い流すものの、すぐ横に落ちた蹴り足を軸に、回し蹴りが飛んでくる。
頭を下げて回避した先には、地面に立てられた矢。瓦礫がしっかりと押さえるそれが、【混迷の爆音】の脚を深く傷付ける。
『対応してきますか...!』
『直線的だからな、食らいつけようとも。』
新しい矢を抜く【疾駆する紅弓】は、敵の喉へ向けて鋭く突き上げる。
凶器を持つ腕を払い、取り、横へと流し倒す。抑え込んだ狩人の精霊へ、勢いよく振り下ろしたのは...拳。
鼻を潰された【疾駆する紅弓】が、顔を赤に呑まれながら抑え返す。矢を抜く暇はない、狙ったのは喉、片腕で締め上げる。
殴り、掴みかかり、あまりに泥臭い死合。丁寧に整えられた燕尾服も、綺麗な装衣も、あっという間に血とコンクリート粉に塗れて行く。
『くっ...離れなさい...!』
『弓があればそうするがな...!』
この距離での取っ組み合い、得意の跳躍力を活かす事も出来ず、力は均衡している。時間ばかりがすぎる中、体力が消耗していく。
角を捕まえ、頭を押し下げる【疾駆する紅弓】。顎を狙い、何度も拳を振り上げる【混迷の爆音】。転げ合う二柱の精霊の元で、ガラリと音がする。
『なに!?』
『これで...終わりです!』
瓦礫の崩落。【積もる微力】が作っていた、積もった力による空洞が、今この瞬間に崩れたのだ。
宙に投げ出された二柱が離れ、そこに【混迷の爆音】の脚が差し込まれる。勢いよく伸ばされたそれを、身体を捻り流そうとする【疾駆する紅弓】だが、砲撃のようなそれを空中で流しきれるはずも無い。
底へと叩きつけられた狩人の精霊へ、踏みつけるように燕尾服の精霊が降り立つ。咄嗟に転がった【疾駆する紅弓】の横で、【混迷の爆音】はフラつきながらも襟を正して狩人を睨む。
『まだそんなに敏捷に動けますか、契約も切れているでしょうに、タフな事で。』
『ふん、貴様にその気が無いだけだろう。我の体術で対応出来る事がおかしい。』
『見事な物でしたが。』
『射手に多くを期待しすぎだな。』
新しい矢を抜き、二槍の構えを取る。この狭い中では、敵の機動力に柔軟に対応するより、いち早い致命傷こそを欲した結果である。
軽く土を払い終えた【混迷の爆音】が、会話を断ち切り自然体となる。来る、そう雰囲気で伝えられ、頭と胸の前で矢を強く握る。
それと同時に爆発のような衝撃を発し、【混迷の爆音】が突進する。砲弾のように接近する【混迷の爆音】の角を、矢で受け止めて後ろへと跳ぶ。減衰した精霊へ矢を突き立てようとするも、振り上げられた角に二本とも弾きあげれる。
新しく抜こうとする彼の両手を、ガッシリと握り壁に押し付ける。
『ぐ...見た目にそぐわない怪力だ。』
『鍛えておりますので。』
こうなっては、逃げられない。ルクバトが来る前に終わるとは、情けない限りだ、と呻く。
『...どうした?』
『取引と行きましょう。』
『取引だと?』
舐めているのかと怒りを表す【疾駆する紅弓】へ、しかし燕尾服の精霊は淡々と告げる。
『これは精霊としてでは無く、私個人的な願いです。』
『...なに?』
精霊としてではない。役目の放棄にも似た、あまりに【混迷の爆音】にそぐわない枕詞。役目を軽んじている事への怒りよりも、興味が勝り、口を閉じる。
『どうか、お嬢を...止めてください。』
瓦礫から飛び出し、笛を拾って跳び上がってくる精霊。己の従順で頼れる精霊の帰還に、登代が安堵を顔に表す。
血はどうしようも出来ないが、土埃を丹念に叩き落とし、服装を整えた精霊に、声をかける。
「終わったの?」
『二柱は逃しましたが...追いますか?』
「そうね、急ぎましょう?馬が消えたなら、もう移動出来ない筈だもの。」
『まずは行き先を探りましょうか。痕跡が残ってればいいのですが。』
契約者を抱き上げ、燕尾服の精霊はクレーターから抜け出す。地上に着地すれば、周囲はあまりにも静寂。
『ふむ...時間をかけましたので、避難が済み部隊の者が来ていると思いましたが...』
「妙ね...?【混迷の爆音】、上へ登って確かめて来てくれる?」
『承りました。少々お待ちください、お嬢。』
彼女を下ろし、高く跳躍。高所を渡り次ぐように最大高度へと跳び、眼下を見渡す。あまりに静かな街、その中で長く伸びる集団。回転灯が上へ下へと照らす、ひっくり返ったパトカーと装甲車の群れ。
『なるほど...そういう事でしたか。』
地上へと降りた【混迷の爆音】が、登代を抱えて再び跳び上がる。質問よりも先に、しっかりと首に手を回す彼女へ、状況を報告する。
『此方から山まで、向かって来てはいたようですが、破壊されています。』
「破壊?どういう事かしら。」
『おそらく、獅子の精霊でしょう。紅馬は山に向い、仕方なく迎撃して回ったというところでしょうか。』
「そう、さっきの赤い精霊の契約者を回収しに行ったのかしら?」
『そう考えるのが妥当かと。』
追って行けば、すぐに発見出来た。アクセルを吹かせど前に進まない装甲車、壁から落ちてこないパトカー、宙を舞う白バイ。
発砲音が響く中で、ライオットシールドと精霊に守られる健吾が見える。隠れる余裕は無かったようだ。
『オラオラ!死にたくねぇなら失せてろ!』
「レイズ!なるべく殺すなよ!」
『なるべく、な!ダァラアァ!』
走ってきた白バイを掴み、乗っていた人間を振り回して落とし、パトカーへと投げつける。契約者が隣にいる【積もる微力】の膂力の、なんと恐ろしい事か。
周りの事は、【混迷の爆音】の能力であれば気にしなくても勝手に吹き飛ぶだろう。このまま襲いかかる事こそ、ベスト。
『お嬢、使用許可を。』
「最後まで持つ?」
『持たせましょう。』
「ふふ、珍しく熱いのね。いいわ、行って【混迷の爆音】!」
懐の巻貝の光に呼応し、妖しげな光が蠢き、纏わりつく。契約者はビル群の上へ、そして変化した笛を振りかぶり、自身は強襲する。
激しい爆音に否が応でも意識が集まる。投げつけられたタイヤを打ち払い、地面に到達する瞬間、笛を叩きつける。
クモの巣状に広がる亀裂、数瞬遅れて爆音。アスファルトや車両の破片を吹き飛ばし、無音にさえ思う圧力の壁。連続して振るう笛から、途切れることなく波は発生し続け、【混迷の爆音】は加速する。
『吹き飛びなさい...!』
距離を取っていた事は流石だが、近づけば気絶する砲弾のような彼から、逃れる術はない。【積もる微力】を下からカチ上げ、空へと飛ばす。
一回り大きい体躯が地から離れ、そして爆音により吹き飛んでいく。この程度でくたばる様な精霊では無いと、更に追撃を仕掛ける。
周囲の警官は皆、意識を飛ばされて事故を起こしている。火を吹き上げる中、誰も動かない、動けない。
その中を駆けるのはただ一人、燕尾服を身に纏い、狂乱を呼ぶ精霊だ――『煩ぇなぁ...!』――け...の筈だった。
振るわれた拳がめり込み、亀裂の入った角と共に視界が歪み、積もった闘気が爆発する。横に飛び、突如垂直落下。不規則な飛び方をする頭に引っ張られた体も、無事とは言い難い。
『な、なぜ...』
『知るかよ、そういうモンなんだろ?コレが。』
声と共に目の前で翻るのは、金色の外套。輝きと大きさの増した鬣、勢いよく燃え上がる四肢の闘気。口に残った血を吐き捨て、土埃を豪快に払いながら、立ち上がった精霊は構える。
『ほら、来いよ。ビビってる訳じゃねぇんだろ?』
『平衡感覚が戻って無いのですよ、見れば分かるでしょう?』
『へっ、ならこっちから行くだけだ。おい、レオぉ!寝てんなよ!』
「ったく、オレがそれ投げてやったのに偉そーに...」
星霊具を使用した【積もる微力】は、多少なら距離を無視できる。振った程度の音波では気絶しない距離を取った健吾に、【混迷の爆音】が狙いを精霊に絞る。
この距離を無理に行けば、その隙に潰される可能性がある。それが目の前の戦士の精霊の恐ろしさだ。本当に小さい範囲、ほぼ不可能な絡め手、しかし真っ向勝負なら恐ろしいまでに一撃で致命的。
『そぉら、潰れろぉ!』
『お断り致します!』
接近し拳を振り下ろす【積もる微力】に、笛を蹴りあげて対応する。僅かに上がればそれだけで発生する爆音が、笛を加速させる。
激突する二つの武器、響いた打撃音が爆音に重なり空気を揺らす。しかし、気絶しない。拳を引くことさえしない。それが【積もる微力】の毛皮と闘気である。
『なんと...どう倒すべきか。』
『この笛も随分と頑丈じゃねぇか。どう壊してやっか、悩んでんだ...よ!』
蹴りあげ、笛を逸らした所へストレート。へし折られた角が、積もった闘気によって飛び続ける。
それがビルの中へ飛んでいくのを目で追う暇も無く、二発目。跳躍して回避し、上から笛を思い切り吹き込む。よろめく程の衝撃、吹手を上へと押し上げ、体勢を直した【混迷の爆音】が振り下ろす。
項を折る勢いで叩きつけたというのに、平然と振り向いた勢いで裏拳を放つ。眼前を掠めた拳に冷や汗が滲む。
『当たんねぇな...!』
『戦いにくい相手ですね。』
直感で動く【積もる微力】。感情を共振させようと、得られる物は攻める、躱す、受けるのみ。だがそれが分かれば、避ける攻めるの一瞬の判断が早くなる。
その一瞬が【積もる微力】の長所を潰す事になる。彼の反射神経、勘、自信。それは素早い動き出しを生み、超接近では大きな優位だ。
互いの契約者の恩恵は少ない。星霊具の力は相殺する以上の成果は薄い。であれば頼れるは、己の能力と肉体のみ。
距離を取った【混迷の爆音】と、拳を握り直す【積もる微力】。刹那の静寂の後、二柱は再度激突した。