Episode.No10
次の記録だ、昼間は派手な事にはならんだろう。早くリプレイを回せ。次は...そうだな君が決めたまえ。
Replay Code.Capricornus
現在時刻、7時。
残り時間、24時間。
残り参加者、6名。
ギシリ、と音が鳴り、土やコンクリートよりも遥かに柔らかい感触を知覚する。
埃とカビ、薬品の臭い。瞼を開ければ、白い天井。乾いた口内は、僅かに血の味。そして、耳障りのいい声が聞こえた。
『お目覚めですか、お嬢。』
それだけ。他の感覚は来ない。いつも悩まされていた、波のように襲う感情。心の奥から沸く後悔と虚しさ、絶望を攫ってくれる波。
『目覚めに珈琲をお持ちしましょうか?』
「そうね、頂くわ。」
今は五感で誤魔化すしか無い。どのみち、こんなに不安定な状態で他人の感情を受け入れてしまえば、再び自己を見失って暴れるだけだ。気分のいいものでは無い。
見渡した室内は、見覚えのある物。混乱が収まりきらずに身を隠した、廃病院の一室だろう。たしか...尾咬総合中央病院、だったか。
『どうぞ。』
「ありがとう、貴方も飲む?」
『それでは、お言葉に甘えましょう。』
背筋を伸ばしたままに、長いマズルを上に傾ける姿は、ややシュールだ。冷静に考えれば、頭だけ被り物のように山羊なのが、既にシュールなのだが。
丁寧で生真面目な態度が、それに拍車をかけている。つい笑ってしまった登代に、【混迷の爆音】は首を傾げるしかない。
『如何なされました?』
「いえ、何でもないわ...あら、良い香り。」
『ここの病院の持ち主の趣味でしょう。この街は、かつて実在した街をそのままデータにインプットしていますので。』
「実在した、ね...何があったのかしら?」
『そこまでは、私の知る由も御座いません。』
「そう、まぁ良いわ。」
話の内容に意味は無い。言葉を口に出し、耳で聴く。舌の上を苦味と芳醇な香りが踊る。これで、幾分か気が紛れるだろう。
感情をしまうのは慣れたものだ。何事も無かったように、奥に閉じ込め蓋をする。溢れた時は大変だが...それは今考えることではない。とにかく、この七日間を生き残る。そうすれば全て解決だ。
『...お嬢、申し訳』
「貴方が謝ることは何も無い。あの怪我でここまで運んでくれたのね、感謝してるわ。」
『しかし、私は貴女の心を』
「【混迷の爆音】、止めなさい!もう...いいの。分かった?」
『...かしこまりました、お嬢。』
「少しだけ、一人にして...」
一礼し、頭を下げたまま背景に溶けていく精霊に、当たってしまった事を後悔する。また、後悔ばかり。自分は何一つ、自分一人さえ満足させることの出来ない、出来損ない。父親の言う通りだ。
流し込む濁流が途絶えてしまえば、残るのは弱く脆い、少女の頃から変わらぬ心だけ。怪物というには、あまり不甲斐ない戦士。
「私が...生まれてさえいなかったら...」
弥勒は泣かなかっただろう。
母が死ぬ事もなかっただろう。
父の心も離れなかっただろう。
全てが幸せのまま、進んでいたに違いないのだ。
なのに、死ぬ勇気も消える覚悟も無い。ただ元に戻すだけの簡単な答えさえ、実行出来ない。浅ましく惨めで、狡く汚らわしい怪物。
(結局...恐ろしくてもそうでなくても、私は怪物。)
鬱屈とした気分に頭まで溺れ、むしろ気分は晴れていく。そう、どうしようも無いのだ。どうにもならないほど、あまりに救われない。そんな自分だから、仕方ない。何も出来なくても...
このまま、消えても。
(その筈...なのに...)
記憶の中の弥勒が、母が、どれだけ沈めても浮き上がる。
許しを、心配を、愛を。叩きつけてくる。
「違う!私は...私は!」
投げられたカップが壁を黒く染め、珈琲の香りを部屋へと広げた。
医薬品の匂いと混ざり、優しかった頃の父の顔が浮かぶ。そういえば、珈琲の匂いが離れない程に愛飲していた。気づかないうちに、趣味が似ていた事に複雑な物が胸中に渦巻いた。
「そう、そうよ...私には、あの男の血も、流れてる。娘を張り手にしようとし、母を殺そうとする男の...」
責任転嫁だという自負もありながら、父への恨みを思い出す。あぁ、救われない。救われてはいけない。そう、自分を説得する。
少しずつ、落ち着いてきた。自己の否定。これだけは自分の気持ちだと、信じられる。繰り返して、詰め込んで、他の物を追い出して。そうして心を安定させてきた。
「...片付けないといけないわね。」
ベッドから立ち上がり、割れたカップを一つずつ拾っていく。まだ熱の残る珈琲が、鼻腔を満たす。薬品の匂いを感じなくなり、より一層記憶が過去へと落ちていこうとする。
「い...っ!」
指から伝う血がカーペットに垂れ、一気に現在へ意識が戻る。小さな切り口の割に、出血が多い。とても綺麗な傷口になっているようだ。
病院だったのは幸い、薬や絆創膏は豊富だ。出来るだけ効能の強そうな物を見繕い、処置をしていく。これだけ綺麗なら、傷はすぐに塞がるだろう。
「あまり濡らさない方がいいわね...【混迷の爆音】、居る?」
『お呼びでしょ...どうなされました?』
「少し切っただけよ、直に塞がるわ。ただ、絆創膏を濡らしたく無いの。片付けをお願いしてもいいかしら?」
『最初からお任せください、怪我をなさる事も無かったでしょう。』
何故カップが割れているのか、それを追求する事は無く、黙々と破片を拾う。白い手袋に染みが広がり、同時に登代の心にも黒いものか広がる錯覚を覚えた。
「ねぇ、貴方に私を殺せとお願いすれば...貴方は私を殺すかしら?」
ピタリ、と動きが止まった燕尾服の精霊は、振り返る事無く淡々と作業を進めながら答える。
『私は、お嬢の忠実な下僕です。』
「誤魔化さないで。私の心、分かるでしょう?消えたくて、死にたくて...自分を殺したくて、堪らないの。」
『貴女の道は一つでは』
「一つよ、弥勒を殺した時点でね。私は、八年前から...なにも変わっていなかったのよ。」
今回は状況が違った。そう言いかけた【混迷の爆音】だが、その言葉を口から出すことは無かった。登代の想い、やっと決めた覚悟、それをズラしたくない。
それは、願いだった。切なる願い、欲であり望み。登代の異常共感性により、それを知ってしまった以上、精霊である【混迷の爆音】に否定を示す事は出来ない。
『お嬢...では、勝ち残りましょう。その術こそ、私です。』
故に、彼もまた願うしか無いのだ。己が契約者を救う者を...
新しく淹れた珈琲から上る湯気が、少し心を落ち着かせた。ささくれだった思考が纏まり、契約精霊を気遣う余裕が戻ってくる。
「意地悪だったわ、ごめんなさい。」
『いえ、本来なら、そうならぬ様に努める事こそ私の使命。力不足をお許し下さい。』
「貴方は、本当に謙虚ね?卑屈と言ってもいいわ。」
『...そうかもしれませんね。』
それは契約者にこそ言える、と思うものの、それを口にするのは野暮という物だ。そんな事、登代が一番理解しているだろう。
現に不服の念を感じている筈の彼女だが、それに言及してこない。燕尾服の精霊が沈黙を守る間、登代が飲み物を口に含む音だけが病室に僅かに聞こえた。
「...そうだわ、あの後はどうなったの?」
『と、言いますと?』
「あの山よ。何人が残って、誰が消えたの。」
『すぐに撤退しましたので、詳しくは把握しておりません。ですが、最後まで衝突していた二人の脱落は確実でしょう。精霊の消失は確認しておりませんが...』
「そう...なら、確認しに行ってもいいかもね。」
街中に出る選択肢が登代から出てきた事に、驚いた顔を見せる精霊。そんな彼に、登代は微笑んで首を傾げる。
「なに?変かしら?」
『いえ、申し訳ございません。』
「構わないわ、自覚はあるもの。でも、知らないと対策の立てようもないでしょう?」
『その事なのですが、私の能力は消耗が大きくありません。ギリギリまで隠れて粘り、焦っている者を遊撃、撃破するのがベストかと。』
「ふぅん?...まぁ、そうね。私も焦っているのだし、他の人もそう、よね。貴方に任せるわ。」
先程まで軽く錯乱していたせいか、疲れたようにカップを置くと、ゆっくりベッドへと横たわった。
「それなら、暫くは動かない方が良いわよね。」
『えぇ、ここは私が守りますゆえ、お休み下さい。』
「お願いするわ。」
再び目を閉じた彼女の横で、精霊は笛を横に置き座り込む。倒した精霊を除き、警戒すべきは【魅惑な死神】に【疾駆する紅弓】、【浮沈の銀鱗】。他の精霊が奇襲を仕掛けることは、まず無いだろう。
とはいえ、彼らの攻撃や接近は、察知するのは彼には不可能だ。諦めて目の前の扉のみに集中する。
「ねぇ、【混迷の爆音】。」
『なんでしょうか。』
「ありがとう。最期に会うのが、貴方で良かった。絶対に私を勝たせてくれるわよね?」
『...私は、お嬢の望むままを。』
己を救わぬ為に、楽になる為に、進み続けようとする契約者の横で、願望とは何かを考え...そして止めた。
精霊には、その答えに意味はない。ただ主の欲望のままに動く。それしか許されていない記録媒体。
『救いを望まぬものを救おうとするとは...あの女性は、大層な精神をお持ちだったのでしょうね。』
寝息を立てる契約者の、友人を名乗った弥勒を思い起こし。彼女がもっと、力があればと思わずに居られない。【混迷の爆音】にとって、登代の願いと願望が、一致しているとは思えなかったから。
(救いを求めぬ者などいない...それを拒む理由があるだけ。お嬢、貴女のそれは、本当に乗り越えられぬ壁なのでしょうか?)
その答えは、誰も教えてはくれないのかもしれない。だが、誰かが動かしてくれるなら...精霊の身でありながら、願わずにはいられなかった。