3.主婦、心臓破裂の危機に見舞われる
私、寝ちゃったのか。
今何時だろう。
そろそろ息子が帰ってくる頃かな。
帰ってきたら一緒に買い物に行こう。
またお菓子ねだられるかな。
まあ良いや、夢で良いもの見れたし今日は好きなものを買ってあげよう。
それにしても面白い夢だった。
35歳主婦が異世界に飛ばされて子供の姿になるなんて。
それを夢だと認識できないなんて、夢だからこそだよ。
しかもそこに現れたのが入江大樹だ。
入江大樹は、息子が観ていた特撮モノに出ていた俳優である。
初めてその存在を認識したのは、息子と漢字違いの同名だったからだ。
息子の大輝という名前は、夫の大介から“大”を取って付けたもので、彼とは関係ない。
でも名前の読みが同じだったから興味を持って、経歴を調べて結構実績のある俳優さんだと知る事になる。
過去に出演した作品をいくつか観る内に気づいたらハマっていた。
SNSをチェックし、出演番組はリアルタイムで観られなくても録画して観る。
今では画面に後ろ姿が映っただけで彼だと分かるまでになり、SNSに上げている写真は見ているだけでドキドキするので注視できない。
これは恋!? という程の勢いだったが、専業主婦という立場上DVDやグッズに手を出す所までは行かなかった。
そんな彼が夢に出てきたのだから、嬉しいなんてものじゃない。
その瞬間、緊張がピークに達してしっかり目が覚めてしまった。
と思ったんですけど。
慣れた布団とは違う生地の感触に、私は飛び起きた。
そもそも私はリビングでコーヒーを優雅に嗜みながら就職情報サイトを見ていたのであって、布団になど入ってない。
いやそんな事は今関係なくて。
小ぢんまりとした部屋に雑然と色々な見慣れないものが置いてある中で、私は入江大樹(仮)の姿を確認した。
心臓が飛び跳ねる。
彼は私をちらりと見て口を開いた。
「起きたか。済まないが自分で服を着てくれるか? そこに置いてある」
身体にかけてあった布の下は全裸のままだった。
嫌だ恥ずかしい!
慌てて枕元にあった服と思しき布を掴み取り、大急ぎで広げる。
「悪いな、サイズが合わなくて。ここには俺の服しかないから我慢してくれ」
え、これ入江さんの!?
頭からかぶるタイプのそれに腕を通していた私は一瞬固まった。
心臓の動きが早鐘のように早くなるのを感じながら何とか着終わった私の顔は、真っ赤になっていたようだ。
近寄ってきた彼がこちらを覗き込む。
「顔が赤いが熱でもあるのか?」
ちょ、タンマタンマ!
おでこに手が! 手が!
「熱はなさそうだな」
近い! 顔が近い!
心臓が破裂するから!
目の前にある彼の顔を直視できずに、私は目を泳がせる。
思わず心臓の辺りに手を置いた。
「具合が悪いのか、大丈夫か?」
あなたのせいです!
なんて言えない!
声は出せそうにないから首を縦に振る事で答えとした。
彼は眉を寄せながらも一度身を引く。
そして何やら器を差し出した。
「何か胃に入れた方が良い。これ飲んでみろ」
あろう事か、私の手を取って器を握らせる。
しかもその中身は、彼が私のために用意してくれたものだ。
もう私の心臓はダメかも知れません。
夫に息子よ、私はこの異世界に骨を埋めます。
「気をつけろよ」
その言葉と共に手を離されて、少し冷静さを取り戻した。
熱いんだろうか。
器に半分くらい入っている青汁みたいな色の液体。青臭い匂いがする。決して美味しそうではない。
入江さんを見ると、促すように頷かれた。
そんなに近くで見つめられていたら、もの凄く飲み辛いんですけど。
ともかく口をつける。
苦い。
苦い苦い苦い苦い苦い!
飲んだ事ないけど青汁より絶対苦い!
悶絶せんばかりの私を見て、入江さんは少し口角を上げた。
ん? 目の前で人が苦しんでるのに笑ってる?
何これもしかして毒?
私この人に殺されるの!?
「毒じゃないから安心しろ。ただ、それはそのまま飲むものじゃないけどな」
あ、そうなんですか。
馬鹿にされてる気がするけど笑った顔が可愛すぎてそんな事はどうでも……良くない良くない!
入江さんはそんな私を尻目にスプーンともう一つ器を持ってきて、中身を私の持つ器に入れた。
かき混ぜると青汁みたいだった中身がみるみる色を変える。
見事なドドメ色に。
もしかしてこれ、飲めって言います?
私の視線は救いを求めた筈だったのだけど、入江さんは良い笑顔でどうぞのジェスチャーをした。
いや流石に入江さんに勧められたとしても無理です。
こんな色の飲み物が美味しい訳ないですもん。
「飲んでみろ、さっきと違って飲めるから」
必死で首を横に振る私の口元に、その液体をスプーンですくって差し出す入江さん。
そういえば息子が小さい頃、風邪を引いて病院でもらった薬が苦いから嫌だとゴネる息子に必死で飲ませたっけ。
あの時の息子と今の私は、きっと同じ気持ちに違いない。
あの時観念して薬を飲んだ息子のように、口にスプーンを入れる。
液体が喉を通る感覚がした。
あれ、苦くない。
全く苦味がない訳じゃないけど、普通に飲める。
美味しいかと聞かれると答えはノーなんだけど。
「どうだ?」
「はあ、飲めます」
「よし」
満足したのか、入江さんはようやく私から離れた。
「やっぱりお前は異世界から来たんだな」
「え?」
話が唐突に飛んだ気がしたんですけど。
話に付いて行けない私を放置して、入江さんは続ける。
「悪かった、お前が何者なのか分からないから試したんだ。俺はメトロ。お前は?」
私の名前は秋田智子。
でも、ここでそれを言うのは違う気がした。
何故かはよく分からないけど、多分ここではこの名前を名乗るべきなんだと思う。
「……私は、チカ」
「チカ。それ全部飲んだら説明してやるから、さっさと飲め」
聞いておきながら名前にはさほど興味なさそうに、入江さんもといメトロさんは言った。
説明って、何を説明してくれるんだろう。
元の世界に戻る方法でも教えてくれるんだろうか。
まあそんな虫の良い話はないか。
飲めなくはないけど決して美味しくないそれを、私は一気に飲み干した。