2.主婦、姿が変わる
あーどうしよう。
まさかボタンをポチッと押しただけで現実世界からおさらばするなんて思わなかった。
戻れない可能性とか勘弁してくださいよ本当。
そういう大事なことは、赤字で太く大きくはっきり書いてほしいんですけど。
息子のお迎えどうするの。
晩ご飯だってまだ用意してないのに。
まあ今日の晩ご飯はスーパーのお惣菜にスープに野菜切っただけのサラダの予定だけれども。
はい、注意事項をちゃんと読んでない私が悪いですねすみません。
いつもこれで失敗するのに、中々直せないんだ。
そう、あの時も。
あれは10歳の時だった。
クラスの係で水槽の掃除を頼まれて綺麗にしたまでは良かったのだ。
新しい水にカルキ抜きの薬品を入れるのに、説明書きを読まずに入れすぎて、飼ってたウーパールーパーを死なせてしまった。
その時は原因不明の突然死として、校庭の隅にお墓を作って終わったのだった。
つまり私のミスは無かったことになったんだけど、それは私が申告しなかったから。
でも罪悪感が消えなくて、失敗をした時にふと思い出す。
あの時に戻れたら、ちゃんとクラスのみんなに私がした事を伝えて謝りたい。
まあ無理なんだけど。
とか考えている内に視界が開けてきた。
どうやら森の中のようだ。
生い茂った木々に太陽が遮られているのか、辺りは薄暗い。
少しひんやりとした感じが足元からするので見ると、裸足だった。
靴下履いてた筈だけど、どこに行ったんだろう。
どころか……
「え、え?」
私、服着てない。
しかしそれより問題な事。
服を着てない時点で大問題なのにそれより上があったとは。
叫ばせてもらってよろしいでしょうか。
「なんじゃこりゃあーーっ!」
貧相ながらもあった筈の胸のふくらみが、下にあった筈の茂みが、綺麗に無くなっている。
ついでにかろうじてあったくびれも。
腕も足も細く小さくなっていて、肌に無くなりつつあったハリと弾力がある。
何より視界が低い。
自分の顔や頭を触ってみる。
頭以外が毛深くなっていたり獣の耳や角が生えていたり牙があったりということはないようだが、これは……
私、どうやら子供になったようです。
さっき10歳の時に戻れたらとか思っちゃったから?
そんなまさか、いやでも異世界に行けるくらいだから、姿が変わるのはおかしくない事なのかも。
もしかしたら、この世界では強く念じるだけで簡単に願いが叶えられたりするのかな。
だとしたら何というパラダイス!
とりあえず、服よ出てこい!
……無理だった。
そりゃそうですよね。
念じるだけで何でもできるんだったら、即現実世界に帰るって。
しかしどうしたものか。
この格好で誰かに会ったとして、怪しまれずに済む方法が分からない。
全裸は子供って事でギリギリ許されるかも知れないけど、子供が一人で森の中をうろうろしている状況をどう説明すれば良いのか。
そもそもこんな所に人が入ってくるのだろうか。
それ以前に、この世界がどういうものか全く分からない。
この森に何が生息しているかも見当がつかない。
シカやイノシシならまだ何とかなりそうだけど、クマなんか現れた日には助かる道はないだろう。
注意事項にはその辺の事も書いてあったのかなあ。
正に後悔先に立たずだ。
いや、そもそも前提が間違っている可能性はないだろうか。
ここは異世界じゃなくて、ただ自宅から離れた場所とか。
私が子供になった説明がつかない気もするけど置いといて、だとしたら話は早い。
さっさとこの森を抜けて警察に駆け込むのだ。
子供の足で森を抜ける事が可能かと聞かれても、元の身体であったとしても無理だから。
できるできないじゃない、やるしかないんだ!
決意を固めた私の背後で、カサカサと音がした。
背中に緊張が走る。
動物だろうか、どうか小動物でありますように!
振り返って目に飛び込んできたその姿に、私は息を飲んだ。
人間の男。
黒い短髪、切れ長の黒い瞳、筋の通った鼻に薄い唇。
異世界冒険譚でよく見る冒険者の格好をしたその人は、怪訝そうな表情で私を眺めていた。
そうか、今まで現実だと疑いもしなかったけれど、これは夢なんだ。
どうしてその事に思い至らなかったのか、逆に不思議になる。
だって、彼がここにいる筈がないんだから。
そこで私の意識は一旦途切れた。
ウーパールーパーがカルキ抜きの入れすぎでお亡くなりになるかどうかは試した事がないので知りません。
知っているのはウーパールーパーが可愛いという事だけです。