僕とジゼル
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ジゼル・バーネットさんが僕たちの住む屋敷に来て、一月余りが過ぎた。
ジゼルさんは、日中何もせずに無表情でボーッとして無気力そうに椅子に座り、宙を眺めているか、たまに窓の外を眺めて過ごしていた。
食事の時間になると、ノワールさんに促されるままに食堂に来て機械的に目の前の料理を口の中に運んでいるようだった。
最初の頃は師匠が作った料理を食べるのを嫌がっていたが、ノワールさんに諭されて諦めたように、師匠の作った料理もこだわらずに食べるようになった。
それでも、相変わらず師匠のことが怖いらしく、たまに師匠と目が合うと体を強ばらせるか、震えて目をそらした。
師匠とジゼルさんについて話したとき、師匠の言った言葉は「あの娘はいま、心が闇に囚われておるのじゃ無理はさせられん」だった。
僕が「どうすればジゼルさんの心を、闇から解き放ってあげられるのですか?」と問うと、師匠は「人の心というのは皆一様ではない、こればっかりは儂にもどうすることもできん。何かあの娘の心に光を灯すきっかけがあればいいのじゃが。とにかく今は時間があの娘の心を癒してくれるのを待つしかない」と言った。
「でも、いくら待っても心が闇に囚われたままだったらどうなりますか?」
「さてな、どうなることか。もしかしたら一生あのままかもしれない可能性もある。何しろエルフの寿命は長い。儂らはただの人間に過ぎん。永遠にあの娘の面倒を見ることもできんからのう」
「そうですか。そうですよね」
僕は師匠のその言葉を聞いて、暗い気分になった。ジゼルさんが何か辛い思いをしてきたのは僕にもわかる。それを何とかしてあげたいのに、それなのに僕には何もしてあげられないなんて、僕は自分の無力さを恨んだ。
そんなある日のこと。
その日は朝から雨が降っていた。
そのため、その日の畑仕事は中止になり僕は、工作用具と板切れを持って屋敷中を駆け回っていた。
僕は日雇いの仕事をしていたときに大工の手伝いをしていたこともあるので、屋敷の簡単な修繕ならできるのだ。
何しろ、この屋敷はあちこち傷んでいて、手をつけないといけないところが多すぎる。
そして、僕が修繕のためにラウンジに行ったとき、ジゼルさんが一人で椅子に座り、視線を宙にさまよわせていた。
僕は、ジゼルさんに「こんにちわ」と挨拶をしてから、ラウンジの壁の傷んだ箇所を修繕してから、部屋を出ていこうとすると不意にジゼルさんから声をかけられた。
「あなたは、あの闇魔術師の奴隷なの?」
僕は驚いて振り返るとジゼルさんの方を見た。ジゼルさんの目はまだ、宙を見ているように、やや焦点が合っていないようだったが、それでも僕の方を見つめていた。
「違うよ。僕は奴隷なんかじゃない。僕は師匠の弟子。闇魔法使いの弟子なんだ」
「そうなの。あなたも、闇魔術を使って人を殺す修行をしているのね」
「そんなことはしないよ。僕は闇魔法を自在に使えるようになったら、その力で他の人を助けてあげるんだ」
「闇魔術なんかで他人を助けることができるの?」
「できるよ。多分。わからないけど。でも僕はそれを目標にして闇魔法の修行をしているんだ」
「でも、闇魔術を学ぶなんて御両親は反対しなかったの?」
「僕にはもう両親はいないよ。でも、母さんは生きていた頃僕に『あなたは、父さんと私に望まれてこの世に産まれてきたのよ』って言っていたんだ。だから僕は誰からか望まれる生き方がしたいんだ」
「両親がいない。私と同じね。それでそのために、あの闇魔術師の弟子になったの?」
「そうだよ。でも、師匠のことは闇魔術師じゃなくて闇魔法使いって呼んだ方がいいよ。何だか師匠はそこら辺にこだわりがあるみたいだから」
「そう、それであの闇魔法使いの先生に弟子入りして、誰かに望まれる生き方ができると思うの?」
「できるよ」
僕はやや語気を強めながら言った。
「どうして、そんな風に言い切れるの?」
「僕は師匠を信じているからだ。師匠から学んだことを実践すれば、誰かが僕を必要としてくれる。そのために野菜を育てたり、料理の練習もしてるんだ」
「なんで、そこまであの先生のことを信じられるの?」
その質問に一瞬、僕は言葉を詰まらせた。
「わからない。でも僕は師匠を信じると決めたんだ。それだけのことだよ」
「そうなの。でもどうして野菜や料理をつくるの? 闇魔術とは関係ないみたいだけど」
「それは、美味しいものをたくさん作って、大勢の人にお腹いっぱいになってもらうためだよ。それが人の心の闇に光を灯すことに繋がるって師匠は言っているんだ。僕も、この屋敷に来る前は空腹を我慢して眠ることが少なくなかったから、わかるんだ。そのために僕と師匠は時々、庭で、できた野菜を安価で売るために街に運んでいるんだ。本当はタダで配ってもいいんだけど、そうすると逆に怪しまれてしまって、誰も貰ってくれないって師匠が言っていたから、わざと安い値段で野菜を売っているんだ」
「人の心の闇に光を灯す」
ジゼルさんは、そう言うとしばらく何かを考えるように、黙りこんだ。
「ねえ、もっとあなたたちのことを教えて」
ジゼルさんは、再び口を開くと僕にそう言った。
「え、いいけど。何を話せばいいのかな?」
「なんでもいいの。なんでもいいから話してみて」
「それじゃあ──」
と僕は言ってから、僕が師匠の弟子になった経緯から話し始めた。
それから僕は、この屋敷に住むようになってから起こったことの数々を話した。
すると、ジゼルさんもそれにつられるように、自分自身のことをポツリポツリと話し始めた。
気がつくと僕たちは時間がたつのも忘れてお互いのことを、話し続けていた。
子供の頃の思い出。楽しかったこと、辛かったこと。好きな物、嫌いな物。その他色々なこと。
そうしているうちにジゼルさんは、徐々に饒舌になっていった。
僕たちはいくら話しても話し足りないくらい、お互いに話題が尽きなかった。
話の途中で僕が“ジゼルさん”と言うと彼女は、自分のことはただのジゼルと呼んで欲しいというので、僕も同じようにジゼルに、僕のことはただのアルバートと呼んで欲しいと言った。こうして僕たちはお互いの名前を呼び捨てで呼び合うようになった。
僕たちが話し始めて既に数時間が経過した頃。
それは僕が、師匠と僕が街に行った時に通りがかった子供が師匠の顔を見て怖がって泣いてしまい、困った師匠は必死に子供を泣き止ませようとして、二人で子供の前で踊ったり歌を歌ったりしていたら周囲の人間から「闇魔術師が街中で怪しい儀式を行っている」と通報されて衛兵に連行されたことを話していた時のことだ。
ジゼルは、その話を聞いて笑ったが、不思議なことにジゼルの顔は笑っているのに、その大きな青い瞳からは涙が止めどもなく流れ落ちていた。笑いすぎて涙が出るというのとは違う、顔面の筋肉は笑顔を形作っているのに目だけは本人の意思に逆らうように涙を流し続けているようだった。
ジゼルは「え? ちょっと、これは違うの。そんなのじゃないの」と訳のわからない言い訳のような言葉を口にしていたが、その目から流れ出す涙は止めようがないようだった。
そんなジゼルの様子を見て困惑した僕は、自分の魔力を全て解放した。
こうすれば、僕の魔力を感知した師匠か、ノワールさんが来てくれるはずだ。
すると、予想通り師匠とノワールさんが急いでラウンジに入ってきた。
師匠は、泣いているジゼルを見ると「これは、何事じゃ?」と僕に尋ねてきた。
僕が答えようとするより先に、ノワールさんがジゼルに歩み寄って行き、そのまま優しくジゼルを抱きしめた。
今やジゼルはノワールさんの腕の中で、僕たちの目も憚らずに泣きじゃくっていた。
ノワールさんは何も言わずにただ優しくジゼルを抱きしめ続けた。師匠と僕も何も言わずに、そんな二人の姿を眺め続けた。
リビングにはジゼルの泣き声だけが響いていた。
その状態のまま、しばらくしているとジゼルは嗚咽まじりの声で何かを言おうとした。
「ノワール様、私、私」
ノワールさんは、そんなジゼルの声を聞くと、優しげな声で「いいのよ、ジゼル。無理に話そうとしないで。もう少し落ち着くまでこうしていましょう」と言った。
「はい。ありがとうございます」
そう言うと、ジゼルは更に深くノワールさんの胸に顔を埋め、泣き続けた。
どれくらいの時間が経過しただろう。ジゼルの泣き声は少しずつ小さくなっていった。
「ノワール様。私」
ジゼルが再びノワールさんに話しかけた。
「どうしたのジゼル? 何があったの?」
ノワールさんは、今度は問い返した。
「お父さんと、お母さんが死んでしまったんです」
ジゼルは、涙と鼻水でグシャグシャにになってしまった美しい顔を上げると、そう言った。
「そうね。それが悲しくて泣いていたの?」
「そうです」
「お父さんと、お母さんのことを愛していたのね」
「はい。この世の誰よりも大切な人たちでした」
「それなら、悲しくても仕方がないわ」
「でも、そのことがなんとなく信じられなくて、両親が殺されたこと、ノワール様にその仇を討ってもらったこと、このお屋敷にきたこと、その全てに現実感が感じられなくて、まるで自分が長い間、悪い夢を見ているような気持ちでいました。もしかしたら、今までのことは全て夢で本当は、お父さんも、お母さんもどこかで生きていて、旅の途中で私とはぐれただけなんだ、というような気持ちでいたんです」
「そうなの」
ノワールさんが優しく、ジゼルの頭を撫でた。
「だって、あんなひどいことが現実だったなんて認めたら自分がどうなるか、わからなかったんです」
「そう」
「でも、アルバートと話しているうちに、自分が生きている世界が現実の物で、今まであったことが実際に起こったことだと自覚すると、お父さんと、お母さんが死んだという事実に耐えられなくなってしまったんです」
ジゼルがまだ目に涙を溜め、鼻水をすすり上げながら、途切れ途切れにそう言うと、ノワールさんは「そうなの。よく話してくれたわね」と言った。すると、ジゼルは無言で、またノワールさんの胸に顔を埋めた。
「闇に囚われていた心に急に光が灯り、感情が一気に甦って、精神が混乱したのじゃ」
師匠は僕だけに聞こえるような、小さい声でそう呟いた。
「お主が、あの娘の心に光を灯したのじゃ。よくやったな。アルバート」
そう言うと師匠は、僕を見た。
「じゃが、これからが本当の意味での始まりかもしれん。あの娘がどのようにして辛い現実と向き合っていくか。これから、それが問われることになる」
ジゼルは不意に、ノワールさんの胸から顔を上げると師匠の顔を見た。
その眼差しには、今までジゼルが師匠を見るときに感じられた恐怖の感情はまったく含まれていなかった。
「先生」
ジゼルは、師匠に言った。
「先生? 儂のことか?」
と師匠が問い返すと、ジゼルは「はい」と言ってうなずいた。
「なんじゃ?」
「私にも何か仕事を与えてください」
ジゼルは、まだ泣き顔だったが、その涙ぐんだ瞳から放たれる視線は、今までこの屋敷にきてから見せていた宙をさまような視線ではなく、そこから強い意思のようなものを感じさせるものだった。
「私も、心の闇の中に光を灯して、誰かに望まれるような生き方がしたいんです」
師匠は少し考えてから「うむ。よろしい。だが、今はまだ無理をせんでも良い。少しずつ色々なことを手伝ってもらうことにしよう」と言った。
「はい。ありがとうございます。私、なんでもします」
ジゼルが嬉しそうに言った。
すると、ノワールさんはまた優しくジゼルの頭を撫でてから「いい子ね、ジゼル。でも女の子が簡単に『なんでもする』なんて言っちゃダメよ」と微笑みながら言った。
こうして、ジゼルは僕たちが暮らす屋敷で働くことになった。