テニスの神様
「40-30 マッチポイント」
「まだだ、まだ諦めるな!」
「う…うん!まだだよ!」
僕たちは互いに、祈るように叫ぶ。
相手はボール突きをいつものように、1…2…3回と繰り返した。
次第に応援の声が消えていく。
完全にこの空間から音が消えた、その後、ゆっくりとトスが上げられた。
この場にいる全員が、息をすることも忘れ、ボールを見ている。
体を大きく反らし、予備動作が完了した。
――来る!
勢いよく放たれたボールは、センターぎりぎりに。
それを僕はなんとか返し、ボールの行方をみる。
――やられたっ!
その瞬間、半ばその後の展開を予想できてしまった。
ふわり、と上がったボールは前衛の真正面に飛んでいった。それを相手は勢いよく叩く。
体制を整える間もなく、僕の真横をボールが通りすぎていく。
ゲームセット ウォンバイ コーラ・午後の紅茶ペア 6―3 6-4 7-5
観客が一斉に立ち上がる、拍手と歓声がコートを埋めつくした。
その日、僕達は中学全国大会の決勝で敗れた。
一年後
――カーンコーン
学校の終わりを告げるチャイムがなる。
「ポカリ、今日暇ならゲーセンに寄って行こうぜ」
「…ごめん、今日は気分が乗らないや…」
同じクラスの友達からの誘いを断り、ゆっくりとした動作で帰路に就く。僕の通っているウォーター高校は、自宅から1時間半かかり、なそこそこ遠い所に位置している。この通学時間が退屈で仕方がない。今は電車に揺られながら、窓から見える景色をなんともなしに眺めている。
(もっと近い高校を選べばよかったな…)
周りに聞こえぬ程度に小さく溜め息をもらす。
勿論この高校を選んだ理由は、明確にある。1つは、全国でも有名なテニスの強豪校であること。もう1つは、幼い頃からダブルスを組んでいた、アクエリアス君がいるからだ。
そして思い出すのは、あの日二人で誓い合った、夢の内容を――
(今の僕にとっては、意味のないことだよね…)
僕はそれ以上考えることをやめる。ここのところ無意識に浮かぶ思い出を断ち切り、二度目の溜め息を漏らす。
早く家に帰りたいという思いで、自宅まであと何駅あるのか数えてみた。
(嘘、まだあと3駅もあるのか…)三度目の溜め息が自然と漏れる。
――気持ちを切り変えるために、楽しいことを考えることにした、そうだな…帰ってから何をしよう。昨日クリアしたゲームのキャラを全員レベルマックスにしようか。もしくは一度読んだ漫画をもう一度読み直そうか。それとも受験を見据えて勉強を頑張ってみようか、…それはないな。それとも――
『次は炭酸。たんさん~…』
そんなことを延々考えていると、間延びしたアナウンスとともに景色の流れが減速していく。窓の外をみると、見慣れた景色が映っていて、ようやく家に帰れると思い、ホッと息をつく。
家に着くと、脇目もふらず自室に入る。寝巻に着替えるためにタンスを開く。タンスの上には、数々のトロフィーが飾られていた。その横には、僕とアクエリアス君が初めて優勝した時の写真が飾ってある。
着替えを終えた後、布団の上で寝転んだ。
電車の中で色々と考えていた候補の中で、全員レベルマックスを目指すことにした。
ゲームを始めて3時間、延々経験値が多いレアモンスターと戦闘をしていると、修行のような気分になってくる。
時計を見ると8時を回っていた、晩ごはんを食べるか、と思いコントローラーを置きリビングに向かう。
リビングに向かうと家族全員がそろっており、みんなで食べることにした。
食事中に母親から、最近の楽しかったことや、近所のおばさんの愚痴を聞かされた。
食事を食べ終え、リビングを出た時に、外から呼び出し音が聞こえた。
誰がいるか半ば予想を立てながら、玄関に向かい扉を開く。
「ポっちゃん!なんで今日も来なかったんだ!」
目の前には予想通りアクエリアス君が立っていた。僕より20cmも高い身長に、いつも見上げた形になる。しかも、未だに伸び続けているらしい。
「昨日行かないってはっきり言ったじゃん…」
毎日誘いに来てくれることに、心苦しい思いに駆られ、眼を合わせることができない。
「…それに、ダカラ君もいるし、彼なら僕以上に――」
「俺の相方はポっちゃん、お前だけだ!なあ、ポっちゃん、中学の時の熱意は本当になくなったのか?誰よりも遅くまで一緒に練習してたじゃないか!」
この一年間毎日のように繰り返される会話である。ちなみに、アクエリアス君は僕のことを小さい時から、ポっちゃんと呼んでる。
「………」
僕はそれには何も答えられず、黙ってしまう。
「…ごめん、今は忙しいんだ、また明日」
「俺たちの夢は――」
言葉を遮るように、扉を閉めようとする。
扉が締め切る直前、勢いよく動く物体が目に映る。それが、傘立てにあたり派手な音とともに倒れた。派手な音にビクリと体が震えるのを感じながら、目だけで物体の正体を確かめる。
(テニスボール?)
テニスボールは跳ねまわり転げまわり、満足したように止まった。よく見ると使い込まれたボロボロのテニスボールだった。それを手にとってみて、アクエリアス君が投げ渡した意味を知る。
『ああ…気持ちいい…』
どこかから声が聞こえた気がした。しかし、そんなことよりも頭の中はアクエリアス君のことでいっぱいだ。
(ごめん…アクエリアス君、ごめん…)
謝ることしかできない自分が情けなくなる。
テニスボールを持ち自室に戻った時、罪悪感に苛まれる。言葉では迷惑がっているが、悪いのは自分だということは分かっている。「テニスをやめる」――この一言を伝えれば、アクエリアス君も諦めてくれるだろう。だが、それを伝えようとすると胸がうずき、激しい痛みを与える。まるで、僕の体がその言葉を伝えることを止めているように。
結果として、アクエリアス君に対して、いつも曖昧な返事をしている。
「…テニスをやめるって、そろそろ伝えよう…」
後悔は………ない。今の中途半端の状態を変えようと、やっとの思いで決意した。
『まだ早いと思うんだけどなー』
独り言のようにつぶやいた声が聞こえてきた。それは先ほども聞こえた声だった。
まさかと思いながらテニスボールをじっと見る。
「…え?」
『…え?』
手に持ったテニスボールを顔に近づけてみると、目を丸くした顔がボールに張り付いていた。
『…えっと…あっと…』
テニスボールは動揺が隠せず、目線が泳いでいる。不測の事態に弱いのだろうか。
「……」
『……』
人見知りの僕と驚きが隠しきれないテニスボールは、しばらくの間沈黙がおとずれる。
『…びっくりしすぎて、言葉を失ったよ。まさか君に僕の声が聞こえるとは…、まさかね?』
テニスボールはいぶかしげに僕を見てきた。
『まあ今はいいや、人と話をするのは久しぶりだから本当にうれしいよ』
テニスボールは本当にうれしそうな表情を浮かべている。そんなことよりも…
「…とりあえず、君は何者?」
『僕?僕はテニスボール界の女神、シャラポだよ』
『久しぶりだねポカリ君。小学校以来だから4年ぶりぐらいだね』
そういえば小学生の頃の僕は、このテニスボール(シャラポ)をお守り代わりに持ち歩いていた記憶があるな。
『あの頃は毎日のように僕を使って遊んでくれてたね…懐かしいよ』
「……そうだね」
(毎日のように二人で遅くまで練習してたな…、あの頃はただ純粋にテニスをしていたっけな)
『アクエリアス君は僕のことを思いっきり叩くんだもん、もう少しで何かに目覚めそうだったよ』
さっきの玄関で言っていたことを考えると、間違いなく目覚めているだろう。
『でもね、アクエリアス君の強くて速いショットだけでなく、ポカリ君の得意の相手の弱点をつくような、ドロップショットやロブも柔らかいショットも気持ちいいよ』
いや知らないけど。
『ポカリ君とアクエリアス君は、飴と鞭のような素敵な関係だね』
「…」
『冗談はおいといて』
『少し見ない間に大きくなったね。さっきの様子を見るに昔からの泣き虫なところは変わっていないようだけど』
『ポカリ君は覚えてる?アクエリアス君と初めてあった日を』
『あの日もポカリ君は大泣きしてたよね』
もちろん覚えているよ、忘れたことなんてない。あの日、アクエリアス君は僕を救ってくれたから。
小学校1年生の時、僕は友達がいなかった。人見知りだった僕はクラスの子に話しかけられても、恥ずかしくて声が出なかった。おまけに泣き虫だったから、みんなの前で発表するときはいつも泣いていた。
クラスの子は優しくて、何度も話しかけてくれていたが、日に日に声をかけてくれる人はいなくなって、時が経つにつれ学校に行くことが嫌になっていた。
そんなある日、学校に着くと上靴がなくなっていた。後で知った真実は横のロッカーの人が間違えていたのだが、当時の僕はひどくショックな出来事だった。
いよいよ学校に僕の居場所がなくなったと思いこみ、走って学校の外に走ったな。
学校を始めてサボったことの後ろめたさと、学校に友達がいないという恥ずかしさを家族に知られたくないという思いがあり、家には帰れなかった。あてもなく歩くこと30分、近くの河川敷についていた。歩き疲れていた所にベンチを見つけたので、腰掛けることにした。
ベンチに座り、学校でのこと、家に帰ってからのことを考えると涙があふれてきた。
「おーい!そこのひとー!」
悲しみに明け暮れていると、遠くの方から同い年ぐらいの少年が声をかけてきた。
「よかったら、そこのボールを取ってくれない?」
「…はい」
「えっ、どうしたの?」
ボールを手渡すと、目の前の子は僕が泣いているのに気づき、慌てふためいた。
「………ふふっ」
しばらくの間黙っていた僕に対して、目の前の子は必死に笑わそうとしてくれた。あんまりにも慌てた様子で僕は少し笑ってしまった。
「お、やっと笑ってくれた。俺はアクエリアスよろしくな!」
そう言うと、僕の返事を待たず、アクエリアス君はラケットを二つ取り出し、一つを僕に渡してきた。
「ふふふ、悲しいときは楽しくなることをしようぜ。あっテニスやったことある?君の名前は?」
「…僕はポカリ、テニスはやったことないよ」
「ポカリ君ね、今時間があるならテニスしようぜ。今日は学級閉鎖で暇だったから、一人でテニスの練習をしにきたんだよね」
アクエリアス君とのテニスは楽しかった。もちろん、上手くはなかったけど一球ボールを打つたびに大声をあげて笑い合い、今までで一番楽しい時間を過ごした。
日が暮れるまで遊びつくし、そろそろ家に帰らなければならない時間になった。
「もしよかったらさ、俺と友達になってくれないかな?学校でテニスをしてる人がいなくて退屈なんだ」
「うん!」
うれしかった。これ以上ないくらいにうれしかった。この日にテニスと初めての友達というかけがえのないものを手にいれた。
『実はあの時にポカリ君が拾ってくれたのが僕だったんだよ』
誇らしげにシャラポは言った。
『それよりもね…』
それから、シャラポは口ごもった。何かを言いかけてまたやめる。本題に入るのだろう。
「…それよりも、なに?」
見かねて話を促す。
『…なんでポカリ君はテニスをしなくなったの?』
シャラポは、遠慮がちに、一番聞いて欲しくないことを聞いてきた。
「…君に話しても仕方のないことだよ」
『話してみて』
シャラポは真剣な声で語りかけ、黙り込んでしまう。シャラポの真剣な声色を聞き、ずっとしまい込んでいた気持ちを伝えてみようと思った。
「…君は僕とアクエリアス君の夢を知ってるかい?」
『えっ?』
思わぬ質問にシャラポは目をパチクリさせる。
『もちろん!僕もその場にいたからねて』
「…そういえばそうだったね、僕らの二人の夢…それはダブルスの頂点にたつこと」
「でも…、わかってしまったんだ…。僕と一緒なら、そこにたどり着けないって」
『…確かに、難しい夢だね。けど、どうしてそう思うの?』
「…まず初めに、僕はテニスに向いていないからだよ。僕には圧倒的に身長が足りない。165cmで止まっちゃった、笑っちゃうよね」
自分のことが滑稽に思えて、自嘲するような笑みがこぼれた。
『笑わないよ』
その声色は、とても柔らかいものだった。思わず、眼を伏せる。
「現在のテニス選手50位以内で180cm以下は錦織さんとフェレール選手だけで、175cm以下に至っては誰もいないんだよ…」
一度動きだした口は止まらない。
「錦織さんは圧倒的なリターン力とストローク力でカバーしているが、サービスキープ率はトップ50以下…いかにテニスが不公平なスポーツかわかるかい?」
「ダブルスでも勿論シングルス…個人の強さが必要だ。現ダブルス王者の二コラ・マユ選手はシングルスではトップ37の実力者だ。そのぐらいのレベルは必要なんだ」
「僕個人の実力は、中学最後の大会で全国大会の二回戦まで…」
心の底に隠していたものが、堰を切ったように溢れだす。声が潤みだしてきたことを理解しながらも、それでも口が止まらない。
「それに対して、アクエリアス君は全国優勝…」
目に涙を浮かべながら、視線はトロフィーの方へ向かう。そこには、『全国硬式テニス 小学生の部 ダブルス 優勝』、『全国硬式テニス 小学生の部 シングルス 準優勝』と書かれていた。
「アクエリアス君の一番近くで練習してきたからこそ、僕にはわかる。彼の才能は本物であると。高身長から繰り出される190キロ近いサーブに、反射神経の良さ、それに加えてフットワークの軽さもある」
「彼は今やテニス界の注目の的で、一方の僕は…」
「一方の僕は、人より少し正確なショットに、相手を分析して弱点を突くことだけ…」
「僕は分析が得意だ、だからこそ分かってしまう、僕では…僕のテニスでは…、これ以上、上にはいけないってことに」
「相手がどこに打つかわかっても…、それに追いつく足がない…、背がない…」
「中学のダブルスで全国大会の決勝に行けたのもアクエリアス君のおかげだ、彼は優しいから言わないけど、僕が足を引っ張っていたのは明白だった…」
――あの時は、申し訳なかったなあ…
絞り出すように、胸の奥に溜まったものを途切れ途切れの言葉に乗せる。
「……中学の頃……何度も思ったよ……、僕と組んでいたら……アクエリアス君は……上にはいけないってさ……う…うううっ……」
涙を流しながら、思い出すのは、小学生の全国大会を優勝した日。
――ポっちゃん、俺たちが組めば最強だな!
――そ、そうかな…アクエリアス君はともかく、僕よりも強い人たちなんていっぱいいるよ…
――ポっちゃんの作戦のおかげで優勝できたのに、弱気な所がもったいないなー
――そうだね、アクエリアス君のように能天気になれたらな…
――…ポっちゃんって、たまににひどいこと言うよね…
――あっ、ごめんね、そういう意味じゃなくて…
――わかってるよ。ふふふ、これからも二人で強くなっていこうぜ!
――うん…これからもよろしくね
――ふふふ、ポっちゃん。今、決めた!俺達で世界を取りに行こう! 誰にも負けないコンビになろう!
――せ、世界?…ふふっ、そうだね、アクエリアス君となら、出来るかもね!
――お、めずらしく強気な発言だな。じゃあ、約束だ、俺たちはずっとコンビだ!
――えっ、それは無理じゃないかな?事故とか怪我とかするかもだし…
――ポっちゃんは怖いこと考えるなあ…。ポっちゃんがなんて言おうと俺たちはずっとコンビだからな!よし、このボールに書いておこう…よし、できた。この夢にむかって今からもうひと練習だ!
――ええっ!無理だよ…もう体がいうこと聞かないよ
――無理なんてことはない、いこう、ポっちゃん!
(あの頃は、たのしかったなあ)
胸の内に積もる想いを吐露し終え、気持ちが少し楽に感じる。
『もう大丈夫?』
「うん、ありがとう、もう大丈夫」
『君の気持ちはよくわかったよ。でもさ、別にテニスをやめる必要はないんじゃない?昔のように楽しむためのテニスじゃいけないの?』
「僕もそれは考えたよ…でもさ、それじゃダメなんだよ」
『ダメって?』
「僕がテニスをしているかぎりペアを組み続けるってこと」
「アクエリアス君って昔から頑固でさ、一度言ったことは意地でも曲げないんだよ。小学校の頃なんかね、テニスは庭球と書くんだよ、って教えたらさ、『そんな漢字なわけない、もっとカッコいい漢字だ!』って言い続けてたんだよ、結局辞書を持ってきて、一緒に調べてみたんだ」
僕は昔を思い出し、クスリと笑ってしまう。
(あの時のアクエリアス君、顔が真っ赤になってたなあ)
「だからさ、僕がテニスをやめるって言わない限り、アクエリアス君は僕とペアを組み続けるよ」
「この一年もさ、必死に練習をしているのに、公式戦には一度も出ていないんだよ。…それを知ったのは、最近なんだけどね」
「僕が中途半端に続けていると、アクエリアス君は僕のレベルに合わせてくれると思うよ…そういう人なんだよ、アクエリアス君は…」
『……』
シャラポは思案顔をして、僕のほうを見ている。
『なるほどね、君がテニスをやめたい理由はわかったよ。』
うまく伝えられたことに、ほっと胸をなでおろす。
『ポカリ君が考えていることは理解したよ』
『でもさ、アクエリアス君が言ってたんだけどね』
『アクエリアス君はね、スポンサーの人に言ってたよ…ポっちゃんがやめたら俺もやめる、ってさ』
顔色が青くなるのを感じる。
「…嘘だ…あんなにテニスを好きなアクエリアス君がやめるなんて…」
声が震えているのを感じる。
『残念ながら本当だよ、アクエリアス君がテニスを好きなことは知っているよ。でも、それ以上に君と一緒にいたいんだろうね。それぐらい君との絆を大切にしてるんだろうね』
「………」
アクエリアス君はテニスをやめていい人材ではない。あれほど、テニスを愛していて、世界に羽ばたける人を…
確かに、僕も夢を追いたい。二人で世界を目指したい。でも、僕には身長が足りない、一年間もブランクが――
『…君は言ってたよね、身長が足りないって、これ以上強くなれないって』
『出来ない理由を探すのって案外簡単なんだよ。特に、結果のでていない状況の人ならね』
『ポカリ君はさ、夢の確立を下げる原因って何だと思う?』
「………」
『…それはね、冷静な分析と言って動かないことだよ』
「………」
何も言い返せない。シャラポの言っていることは、たぶん、正しいのだろう。
『身長が足りないから?これ以上強くなれないから?そんなことは関係ないよ。君は今動きださなければいけない』
『それが君たちの夢を叶える唯一の選択肢なんだ』
「………」
無理だ。もう無理だ。
じっとなんてしていられない。
もちろん理解している、理解はしているさ。
一年間もサボってた165cmの人が世界を目指す?
そんなこと出来っこない。やるだけ無駄。頭ではわかっている。
でもさ、それでもさ。
アクエリアス君がテニスをやめる?
だめだ。彼ほどテニスを愛し才能をもっている人を知らない。
待ち続けてくれているアクエリアス君の気持ちを無視する?
ありえない。そんなことすれば、二度と彼と顔を合わせられない。
幼い頃、僕を救ってくれたアクエリアス君にどれほどの恩があるんだ
それに比べたら、世界に連れていくことなんて、ほんの少しの恩返しじゃないか――
「…シャラポ…僕はアクエリアス君に世界を目指してほしい…」
『うん』
「彼なら出来るんだ」
『うん』
「…笑わないで聞いて欲しいことがあるんだ」
『うん』
「僕以外にアクエリアス君を世界に連れていけないなら…」
「僕が彼を世界に連れていきたい。もう一度、夢を追おうと思う…」
『…笑うはずがないじゃないか』
シャラポは嬉し涙を流しながら答えてくれる。
「…シャラポ、ありがとう、ちょっと、出かけてくるね」
『…うん、いってらっしゃい』
僕の家から、アクエリアス君の家に全力疾走して、11分07秒。記録を大幅に更新し、すぐさまチャイムを鳴らす。
「えっ、ポっちゃん?」
きょとんとした表情のアクエリアス君が目の前にいる。
「ごめん…」
「えっ?」
「怖かった…、アクエリアス君においていかれることに、足を引っ張ることに」
唐突すぎて要領を得ない言葉に、アクエリアス君は少したじろぐ。それでも、お構いなしに続ける。
「僕はあきらめていた…君と夢を追うことを、自分のテニスを」
「勝手なことだってわかっているけど、もう一度チャンスをくれないかな。僕は強くなる。アクエリアス君の背中を預けてもらえるぐらいに。そして、僕がアクエリアス君を世界に連れていく」
僕が言い終えると、アクエリアス君は嬉しそうに、同時に申し訳なさそうな顔をする。
「ポっちゃん、こっちこそごめん…実は俺はポっちゃんがテニスをやめたら、俺もやめるつもりだった…。でもさ、本当はやめたくなかった…テニスもポっちゃんも…両方とも手放したくなかったんだ…だからさ…毎日ポっちゃんの家に行ってなんとかテニスをしてほしいって言いにいってた…」
「ポっちゃんが…苦しんでるのは知ってたのに…」
アクエリアス君、それは違うよ…
「アクエリアス君…君が家に来てくれること…僕は嬉しかったよ…まだ僕のことを見捨てないでいてくれることを…僕と友達でいてくれることを…」
僕ら二人は一年間の溝をうめるように泣き崩れた。
「ふふふ、俺らしくない姿だったな」
アクエリアス君は照れ笑いしている。アクエリアス君が人前で泣いてるのは珍しいからね。
「ふふっ、そうだね」
「さて、どうやって世界を目指そうか。作戦はある?ポっちゃん」
「難しいだろうね…今の僕がどれぐらいできるかわからないし。でもさ、僕たちならできるさ。なんたって、僕たちが組めば最強なんだから」
そういって、僕たちは笑い合った。
この日、僕はくすぶってがんじがらめに凝り固まった日常と、別れを告げた
ポカリ君はもう大丈夫だね。
ポカリ君には伝えてないけど、僕の声を聞こえる人は、二つの内のどちらかの可能性がある。
一つは、テニス界の歴史に名を遺す人を導く人
もう一つは、テニス界の歴史に名を残す人
彼はいったいどっちなんだろうね
「二人で世界へ」と書かれたボロボロのテニスボールは静かに微笑んでいた。