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狭い台所に香ばしい匂いが満ちる。
隣の部屋からテレビを見て笑う彼の声が聞こえる。ほんの三十分程前に私をしたたかに痛めつけたことなど、すっかり忘れてしまっているかのようだ。
いな、彼は忘れているわけではない。
気にしていないだけなのだ。
道端で石を踏んでもその石に詫びる人などいないし、食卓のはえを叩きつぶしてもはえに罪悪を覚える人はいない。
彼にとって私は、石でありはえであり、踏みつけても叩きつけても、なにも感じない。ただそれだけの、もの。
私はぼんやりと鍋の中身を木べらで反す。
タマネギ、ジャガイモ、トリモモ肉。ニンジンは彼がきらいだからいれない。かわりに冷凍のスイートコーンを仕上げにたっぷりといれる。
いい具合に炒まってきたので、水を注そうとシンクへ腰をひねった途端、息が詰まった。
戻ってきた痛みにうずくまる。
大きく息を吸おうとして口を開けた拍子に、唇も裂けたらしい。血の味がする。
台所の床にへたりこみ、私はゆっくりと体をさする。そして下腹部に手をそわせた。
まだ何の兆候も膨らみもないけれど。
私の中に、彼のこどもが生きている。
彼と付き合い始めて一年。私は産みたかったが、彼は許さなかった。
期待に満ちた報告は、激昂する彼への懇願へと変わった。
彼は堕ろせと迫り、病院にいけば金がかかるよなと笑い、そして私をいつものようにうちすえ、うちすてる。
金銭に執着するわりに働くのをいとうけれど、普段は優しい人で、あまえたで、私はそんな彼が好きだった。
だから、どうしても産みたかった。
でも、彼は堕ろせと言う。
堂々巡りをくりかえす中、焦げた臭いが鼻をついた。
私は、慌ててシンクの縁につかまり立ちあがる。
計量カップに汲んだ水を鍋に注し、沸騰したところにカレーのルーを割りいれ、さらにかき混ぜる。
隠し味のチョコレートをとろうと、背後の食器棚の代わりに使っているカラーボックスに向き直る。
おそろいのマグカップにお茶碗。彼と暮らし始めて一年。増えていった食器たち。
そして買い置きの缶詰や乾麺の奥に、隠してある小さな小瓶。
中にみっしりと詰まっている、白藍をした小指の爪ほどのもの。
うろこ。
私から吐き出された、私の一部。
振るとしゃらしゃらと軽い音がした。