嫌な世界
日の傾く夕暮れ。電灯の光が弱々しくも辺りを照らす。
一人の少女が学生鞄を肩にかけ歩いていた。
少女は、車の行き交いが激しい車道を横に逸れる。
途端に道が狭くなり、心なしか茜色の空が暗くなったように彼女は感じた。
彼女が一歩を踏み出すたびに、道は狭く、空は暗くなる。それは決して気のせいなどではない。
故意に、人通りが少なく明かりの少ない道を進んでいたからだ。
というのも、ここを通ることが学校から彼女の家への近道なのだ。
それでも少女は高校生。慣れているとはいえ、小さな恐怖心が心臓を常よりも活発にしていた。
自然と鞄を掴む手が強まる。
コツ。コツ。と彼女の茶色の皮靴がコンクリートに音を鳴らす。
周りが無音の状況で、その音だけが唯一耳に繰り返される。
やがてリズムが生まれ、彼女の中では次に鳴る音のタイミングも分かるようになる。
まるでオーケストラの演奏会のように、革靴の奏でる音を邪魔する者はいない。たった一人の観客である少女の他にいるはずもなかった。
不意に、じゃり、と後方から予期せぬ音が鳴る。たったそれだけの音に、彼女の革靴のリズムが止まった。
(誰かいる……?)
人通りが少ないとはいえ、誰も通らないわけではない。別に普通だ、なんてこともない。
自分にそう言い聞かせて、制止していた左足を踏み出そうとした。
「や、大和っ!」
しかし、次いで耳に届いた予期せぬ二つ目の音が、その行為を押し止めさせた。
大和奏恵。
それは彼女が両親に授けられた名前。
聞き間違えるはずもない自らへの呼びかけに、彼女は勇気を振り絞って振り向いた。
真っ黒な瞳に映るのは、彼女の同級生の男子の姿。
名前を覚えてはいるが、一言二言ぐらいしか話したことのない程度の仲である。
住所も知らないのでこの辺りに住んでいるのだろうか、と奏恵は思った。
「お、お、お……」
少年は何かを伝えようとしているのか、口を開いては閉じ、開いては閉じと繰り返す。
離れた場所からも分かるほどに、顔には汗がだくだくと流れていた。
怖い。
失礼だとは思いながらも、シチュエーションも相まって奏は感じずにはいられなかった。
仲のいいわけでもない男子が、人のいない道で明らかにおかしい様子を見せている。
怖がりの彼女からすれば、今にも逃げ出してしまいたかった。
そして同級生は、しまいには顔を俯かせてしまう。
(なにを言いたいのかな……)
彼女がそう思い近づこうとした瞬間、少年は顔を上げた。
「あのっ!」
その行動に言いえぬ恐怖を感じ、奏恵は後退った。
それに慌てたのか、彼は手を伸ばし近づいてくる。
「いや!!!」
遂に耐えられなくなった奏恵はその場を逃げ出した。
その背中に呼びかけられる、「大和!大和!」という声は徐々に小さくなっていった。
‐‐‐
「……ただいま」
俺は小さく口にして、靴を脱ぐ。
履きづらかったため入学二日目には革靴から変更したスポーツシューズは、俺の気持ちを察したのか手こずることなくすぐさま脱げた。
「きゃははは! マジで!」
どうやらリビングには妹がいるようだ。
中学に入ってからは俺をシカトし始めた妹が。
大和とあんなことがあった後で、実の妹にシカトされに行くほど俺はMではない。
もう、これ以上傷つきたくはない……。
自室に入り、電気をつけることもなく布団に潜りこむ。
学ランは着たままだが、そんなことを気にする余裕もなかった。
俺は今日、ずっと好きだった女の子に告白しようとした。
けど、結果は酷かった。フラれるよりも酷かった。
頭について離れない、大和の怯えた表情。
思い出すだけで、やるせない気持ちが身体中に広がった。
「ち、くしょぉ、ぉぉぉ……!」
高校二年、伊勢漱汰。
彼女いない歴=年齢の童貞、ってやつだ。
おかげで告白の時はまともに喋ることもできなかった。
はは、笑ってくれよ。それがせめてもの救いになる。
それにしても自分が許せない。
成功したらどうしようとか思っていた、数時間前の自分をぶん殴りてぇ。
デートするときはどういうところにいけばいいんだろうとか考えていた、昨夜の自分をぶん殴りてぇ。
名前を覚えてもらってただけではしゃいでいた、数か月前の自分をぶん殴りてぇ。
くそ!くそ!くそ!!!
なんで俺は、
イケメンじゃないんだ!
頭が良くないんだ!
スポーツが得意じゃないんだ!
口が上手くないんだ!
中学で剣道部に入ってる頃は、強くはなかったけどそれなりに青春を謳歌していたはずだ。
女子とも仲良くしていたし、なにより妹が俺をシカトすることなんてなかった!
行き詰まり始めたのは、高校に入学してから。
当時仲の良かった友達と同じ高校に行きたくて必死に受験勉強した俺は、入るのが難しいと言われたそこそこ偏差値の高い志望校に一緒に入学することができた。
けど、その高校はいわゆる「自分からやる学習」を理想としているようで、先生があれをやれこれをやれとうるさく言わないし、なにより課題は少ない。
俺は調子に乗って勉強をおろそかにした。
俺だけでなく一緒に合格した友達もだ。
結果、入学当初は均衡を保っていた学年内の学力差は開き、できる奴とできない奴に綺麗に分けられた。
言うまでもなく、俺と友達はできないに分類される人種となった。
それからは何をやるにも適当で、スポーツが得意な友達はともかく、俺は青春という存在に忘れ去られるようになっていった。
そんな俺が恋? はっ、笑っちゃうね!
俺が散々、自分を罵っていると、腕に付ける過去でいうところの携帯「ウォッチャー」が右腕で振動し始めた。
「……誰だよ」
もぞもぞと布団の中で動き、携帯の新着メールを開く。
相模信之。
……俺とどん底に落ちた友達くんじゃないか。
----------
今日、告白すると言っていたがなんの連絡もないから心配になってメールした。
たぶん、そういう結果だったんだろうと思うから、それ前提で話すな。
気に病むな、とは言わない。泣くな、とも言わない。
辛いときは声を出して悲しんでいいんじゃないか。俺はそう思う。
あと、俺からはお前にその話はしない。
けど、お前が誰かに話したいって時は、いつでも話を聞くぞ。
それじゃあ、またな。
追伸:もし勘違いだったらごめんな。でもまあ、その時はおめでとう。
----------
「………………」
俺はしばらく信之の文面を何度も読み返していた。
そうしてから、電話帳で信之の番号を探し、プッシュした。
『……もしもし、漱汰か?』
数回のコールの後に聞こえてきた声は、いつものあいつより少し優しかった。
「そう、ご飯よー」
「はーい」
俺は信之に礼を言って電話を切った。
時計を見て気づく。けっこう長いこと話してたようだ。
すばやく部屋着に着替えた後、階段を下りてリビングに入る。
「今日はオムライスよ……って、その目どうしたの?」
「なんでもないよ」
俺は赤く腫れた自分の目が容易に想像できた。
しかし、親に色恋沙汰、ましてやフラれた話などできるはずがない。
「おかえり」
「おう」
鷹揚に返すのは俺の父親。
どことなく威厳が感じられるのは、大学で学生相手に教鞭を執っているからだろう。
父さんは俺の顔をちらりと見て、ごほんとわざとらしく咳払いした。
「いいか、漱汰。男が泣いていいのはな……」
「――母親が死んだときと、戦いに勝ったときだろ。分かってるよ」
「そうか。分かっているならいい」
分かっていても、感情がコントロールできるわけじゃないけどな。
ちなみに受験戦争に勝った時は無理矢理泣かされた。
妹も話を聞いていたのか、俺の顔を家畜を見るような目で見る。
せめてペットに昇進したいところだが、好感度を顧みるに難しいだろう。
伊勢湊。
妹は、俺と違って青春を謳歌している中学二年生。
俺の妹であるのを疑うぐらい綺麗な黒髪は、セミロングほどの長さで下されている他、左方でサイドテールに結ばれている。
ちなみにこいつは忘れているのだろうが、使われている水色のゴムは、俺が四年前に買ってやった誕生日プレゼントだ。どや。
俺は妹の隣、に置いてある某ハチミツ大好きなくまさんのぬいぐるみの隣に座る。
これはいつの間にか設けられた対俺用の砦、……なのだろう。
テーブルに人数分のオムライスが揃う。
俺のオムライスには「元気出せ!!」と書かれていた。
恥ずかしいので返事はできそうもない。
「そういえば、例の異世界への一般人の参加は明日からだったな」
父さんが唐突に、ニュースでは「人類最大の偉業」などと叫ばれている異世界移動装置とやらの話を始めた。
異世界。
昔から神隠しや宇宙人に攫われたなどと呼ばれる行方不明事件があった。
その全てに当てはまるわけではないが、それらの一部は突然現れた異世界との次元の繋がりによるものらしい。
そんな次元の繋がりが数十年前に発見された。
そして世界中のエリートによる研究の結果、人類は一つの異世界との接続を成功させる。
それを常時可能にさせる装置が増産され、同時にその世界の調査と開拓が行われた。
人口の大移動などが予期されるわけだが、その一般公開が明日というわけだ。
ご丁寧に、世界規模で休日になるというオプション付きだ。
「お前たちは興味ないのか?」
「私は家事がありますもの」
「行きたいとは思ってるよ」
「お前は?」
聞かれて、俺は首をひねった。
行ったところで、何があるというのだろうか?
異世界と聞くと、剣や魔法のファンタジーと連想したのは一体何十年前の話か。
第二世界とも呼ばれる今回発見された異世界は、ネットの情報によるとこの世界と大して変わらないらしい。
というのも、国際連合主体で数年間を要して既にあちらの世界は整備されているからだ。
確かに新しい世界の発見のおかげで食料問題などは改善されるのだろうが、ゆとりの国日本に住む俺には関係のないことだ。
興味があるとしたら、新しい食い物とかかな。
うん、それぐらいしかないわ。
無論、魔法もドラゴンもない。あったら発表ぐらいされているだろうしな。
「男のくせにロマンがないな」
「ロマンがない世界にしたのは父さんたち大人だろ」
こっちの世界にしろ、あっちの世界にしろな。
まあ、つまりはだ。
俺は第二世界とやらには興味はない。
それならまだ小説やらゲームの世界の方がいいね。ロマンがある。
「ああ言えばこう言う。お前、高校に入ってから口先だけ上手くなったんじゃないか?」
「だったら、将来は外交官にでもなろうかな」
「ほら、まただ」などと父さんは言うが、自分ではよくわからない。
まぁ、これだけ嫌な世界で自分ができない言い訳を続けていたら成長ぐらいするさ。
「ごちそうさま」
妹は席を立つとき、なぜか俺を一瞥した。
ミジンコを見るような目で。
どうやら、ついに家畜からランクダウンしてしまったようだ。
理由はわからんが。
俺がこうしてのうのうと暮らしている中、世界は大きな変化の時を迎えようとしていた。
後の歴史家は、この変化を「産業革命」にかけて「世界革命」と名付けた。
この時の俺はそんなことが起こるなんて露ほども思っていなかった。
ほんの一部を除く、世界の誰もが想像もしていなかった出来事が。
その異変に気づいたのは翌々日の朝。既に取り返しがつかなくなってからだった。