無能王子の婚約者、他国の王子から「浮気してますよ」と忠告される
支配的なヒーロー、恐ろしくて大好きです
正式な結婚まで、あと一年。本当は政略結婚から逃げ出したい。そう思っているのはエルグラード侯爵家の娘として生まれたエルディアだけではない。
貴族として生まれたからにはその責務から逃れることはできない。民の血税で贅沢に暮らす代わりに、貴族は国や領民を守る為確固たる地位を築き上げる。それが貴族社会であり、フロリアン王国の慣行である。
なので、エルディアの婚約者が愚かなるアレクシス・フォン・フロリアン第一王子でも、決められたからにはしっかりと支え、いつかは夫婦として、王と妃として、国を治めなければならないのだ。
黒い髪と黒い瞳をもつ “黒絹の才女” エルディア。
その婚約者である愚かなアレクシスを表す言葉は、怠惰、傲慢、多情だ。
「アレクシス殿下、完璧な外交演説でございました! ノーディグラン王国の方々も、感銘を受けておりました。これで我が国も長い安寧を手に入れられるでしょう」
アレクシスの演説を聞いていた者達が言えば
「第一王子として、当然のことだ」
と胸を張って答える。
眩しいほどの金髪に、エメラルドグリーンの瞳。自信のみなぎる整った顔立ち。それは本質を誤魔化すのに十分な容姿だった。
誰も知らない。裏ではエルディアに向かって「お前にしては、まあまあの原稿だったな」と、酒を飲みながら嘲笑っていることなど。
「アレクシス殿下、明日は朝から復興祈念の式典でございます。ノーディグラン王国の方々もいらっしゃいますし、その夜は歓迎パーティーがございます。お酒はあまり——」
「はあ、エルディア。俺が明日の予定を分かっていないとでも? お前は無駄な小言を言うよりもやることがあるだろう」
そう言って、机の上に溜まった書類を一瞥する。
「……申し訳ございません。では、お酒を飲みながらで構いませんので、せめて簡単な挨拶の言葉だけでもお覚えください。演説と違って人との対話に台本はありませんから」
エルディアがそう言い終わる前に、アレクシスは持っていたグラスを地面に叩きつけ、「去れ!」と怒鳴りつける。
エルディアは諦めていた。国を守るためには愚かなアレクシスの代わりに自分がなんとかしなくてはならないと。
政治、言語、帝王学に、芸術と教養、マナーや容姿のセンスさえ、何もかも自分が担わなければならないと。
◇
「本日、アレクシス殿下は酷い体調不良だとか……」
「ご心配をお掛けし、申し訳ございません。しかし宮廷医の話ですと、数日安静にしていれば回復は間違いないとのことですので、ご安心ください」
翌日、分かっていたことではあるが、式典にアレクシスが来ることはなかった。あのままパーティーに出掛けて酒に酔い潰れ、使い物にならなくなってしまったのだ。
「エルディア。大変なこととは分かっているが、アレクシス殿下を導くこともまた、次期王妃としての勤めだ」
「申し訳ございません。お父様」
エルディアの父、エルグラード侯爵は苦々しい顔をして言う。この人もまた、責務を負った貴族なのだ。娘のことを案じてはいるが、本人にはこう説く他ない。
奴隷だ。とエルディアは思った。
なぜ私が謝るの?
なぜ私が全てを担わなければならないの?
そう思うが、答えは出ている。この国を守るためだ。
そして最後には自分でさえも、なぜ上手にアレクシス殿下を導けないのか、と自責するのだ。
出来ることなら逃げ出してしまいたい。そう思いながらも、エルディアは一日を必死にこなしていた。
◇
『フロリアン王国第一王子殿下は、浮気していますよ』
式典が終わり、ノーディグラン王国の者との昼食時に、それは起こった。格式ばった食事を終え、皆が自由に談笑している時だった。
突如、エルディアの耳元に人が近付き、濃い甘い香りがした。そして、誰にも聞こえぬような声で、そう言ったのだ。それは公用語ではない。ノーディグラン王国で使われている言葉だった。
「ノーディグラン王国第一王子、エミール・ド・ノーディグラン殿下……」
エミール・ド・ノーディグラン。
銀色の髪をさらりと揺らす美しい顔をしたその男は、薄紫の目を細めてニコリと笑った。友好的で愛嬌のあるその笑顔は皆が絆されそうだ。そしてそれはエルディアにとっても例外ではなく——放たれた浮気という言葉よりも、その容姿につい見惚れてしまい、胸がトクンと知らない音を立てた。
「エルグラード侯爵令嬢殿は、私のことを知っていてくださったのですね」
母国語をやめたエミールは、礼をするエルディアの手を取って、有無を言わさず一目のつかぬ場所へエスコートした。
「ノーディグラン王国第一王子殿下。これ以上先へ向かえば、あらぬ噂を立てられてしまいます」
「私のことはエミールと。その呼び名、長いでしょう」
「……エミール殿下、意図が図りかねます」
エルディアは動揺しつつも、相手は今後友好的な関係を築きたい格上のノーディグラン王国の王子に、強く抵抗することはできなかった。
「エルディア嬢、先ほど、私が言った言葉が分かりましたか?」
「……はい」
「そうですか。この国では、不貞はどのような扱いを?」
「特に何もありません」
「だから動揺していないのですね」
そして、エミールは「聞いていた通りだ」と納得したように頷いた。
エルディアは心を落ち着かせるように細く長い息を吐く。
エミールの国、ノーディグラン王国で最も信仰されている宗教では不貞が許されておらず、明るみに出た場合その処罰は身分関係なく重いものらしい。
しかしエルディアの国——フロリアン王国は違う。人によっては不貞を原因に仲が壊れることはあれど、離縁や婚約破棄の理由にはならず愛妾として囲うことも珍しいことではない。
ただ、不貞を許さない価値観で生きている他国の者が、多情なアレクシスに悪い印象を持つのは容易に想像できることであった。
アレクシスが次期国王としてノーディグラン王国と良好な関わりを持つ為には、エルディアがどうにか顔を立てなければならない。
「不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。この国ではそれが認められておりますので、決して不誠実な王子というわけではないのです。この国に不信感をお持ちになったようでしたら——」
「ああ、私が言いたいのは、そんなことじゃありません」
エルディアに優しい笑顔を向けて、エミールは続けた。
「貴女自身は、何も思わないのですか?」
何を言えば正解か。「悲しいです」と同じ価値観を持っていることを主張し、次期王妃のエルディアに対して親近感を持ってもらうべきか。それとも、この国ではおかしい事ではないと再度認識させアレクシスへ対する不信感を下げるべきか。
——そんなエルディアの思考をエミールは遮った。
「エルディア嬢。私はあなたの心に聞いているのですよ」
何もかも見透かすような瞳に圧倒されてしまい、嘘をついても意味がない、と理解する。
「……私は、」
エルディアは観念したように言った。
「私は、何も思いません。以前から女性関係については知っておりましたので」
「……以前から、ですか」
「はい。しかし、ノーディグラン王国第一王子殿下のお優しき忠告に、感謝いたします」
エルディアは紛れもない本心を伝え、礼をした。
嫌悪感はあるが、アレクシスの浮気自体はどうでも良い。国が揺らがないのであればそれで。
それのせいで公務が滞り、エルディアの負担になっている事については全くどうでも良くないが、流石に「情愛にうつつを抜かす無能王子です」とエミールに言うわけにはいかない。
エルディアが嘘をついていないと分かったのか、エミールは「そうですか」と言って、それから続けた。
「では、婚約者の不貞は婚約破棄の理由にならないのですね」
「中にはそう言う方も居るとは思いますが、基本的には政略結婚において何の問題にもなりません」
「良く分かりました。……エルディア嬢、ノーディグランの言語を理解できるようですが、話す事は?」
突拍子のない質問に、パチパチと瞬きをする。
しかし、アレクシス王子の話題が逸れたことへの安堵が大きく、エルディアはふわりと微笑んで答えた。
『ノーディグラン王国の言語は、まるで妖精の歌声のよう、と言われているように、繊細な響きで大好きな言語です』
エミールは、エルディアの言葉に少しだけ目を見開き、そして紳士の礼をとった。
『美しい発音ですね。本日、またパーティーでお会いできることを楽しみにしております』
“美しい発音ですね”。という褒め言葉と優しい笑みは、エルディアの心を掴む。
しかしすぐに我を取り戻し、これは国同士の探り合いであることを肝に銘じるのであった。
◇
その夜、王城の大広間はいつも以上に眩い光に満ちていた。高く吊られたシャンデリアには一切の埃がなく、磨き上げられた床石は、金糸を織り込んだ真紅の天井装飾を反射している。
エルディアとアレクシスも夜会用の豪華な衣装に身を包んで、それぞれへ挨拶をしていた。
「噂に違わぬ、地味……いえ慎ましい婚約者様ですこと」
「はは! ノーディグラン王国ラウラ王女殿下。流石、見る目がおありで。エルディアにもその華やかな装いを見習ってもらいたいものです」
今二人の目の前にいるのは、嫌味たらしさを隠そうともしないノーディグラン王国の王女であるラウラ王女殿下。つまりノーディグラン王国の第一王子であるエミールの妹に当たる女性だ。
目鼻立ちがはっきりとした華やかな顔に合わせるよう、銀色の髪を沢山の宝石で飾り立てていて、ドレスもレースやリボンがこれでもかというほど揺れている。
嫌味を庇うことなく嬉しそうに答えるアレクシスは、ノーディグラン王国に媚を売っているというよりも心から賛同しているように見えた。
「ラウラ王女殿下、宜しければ一曲いかがですか?」
「まあ、アレクシス様、喜んで」
アレクシスが手を差し伸べれば、ラウラは目を輝かせて手を取った。
エルディアは安堵のため息をついた。お似合い……といっては、ラウラに失礼かもしれないが、笑い合う二人は気が合っているように見える。
ノーディグラン王国の王女に認められるとは、愚かなアレクシスもやれば出来るではないか。
ダンスホールに向かう二人を見送り、そして次は誰に話しかけるべきかと思考を巡らせている時、声が掛かった。
「エルディア嬢、一曲、お相手願えませんか?」
そこにいたのは、エミールだった。
エルディアは、その美しさに目を見張った。
ラウラと血を分けているというのに、その見た目は上品で洗練されている。栄えている国だけあって、質の良い布地に、輝くような繊細な刺繍がエミールの高貴さを表していた。
「……エミール殿下。お誘いいただき、身に余る光栄でございます。喜んで、お受けいたします」
差し出された手を取ると、触れた瞬間からじわりと体が熱くなる感覚に襲われ、エルディアは眉を顰める。
まるで、自分がエミール殿下を異性として意識しているような感覚に陥ったからだ。
気を取り直して、ダンスホールで向き合う。その美しい顔で微笑みかけられ、「エルディア嬢は、とてもお美しいですね」と耳障りの良い言葉を投げかけられれば、エルディアの心臓が小さく跳ねた。
「お恥ずかしながら、私の愚妹は個性的なセンスをしておりまして。エルディア嬢に失礼な事を言っていなければ良いのですが」
優雅な音楽に合わせて、透き通る声がエルディアの耳に届く。失礼な事は言われたが、それに嫌味で返せるほどフロリアン王国は大きくない。
「……とんでもございません。エミール殿下。
ラウラ王女殿下の髪に飾られた、あのダイアモンド……紫がかった珍しい輝きのものはノーディグラン王国特有のものだとお聞きしています。とても美しくございました」
ダイアモンドを褒めただけで、ラウラの個性的なセンスについては言及しなかった。本当に個性的で……趣味が悪いからだ。
それを察されてしまったのかは分からないが、エミール殿下は楽しそうに笑い、そして言った。
「いつか貴女にも贈りたいものです」
「まあ、国民も喜ぶでしょう。近頃、アクセサリーを送る文化が流行っておりまして、高価な宝石は需要が高いのです」
エルディアが目を輝かせて言えば、エミールは腰に回している手に力を込めた。
「エルディア嬢は、聡明な女性ですね。国民のことを常に考えている」
「ありがとうございます。しかし貴族として当然のことでございます」
「良いお考えです。……そのせいで自分のことを犠牲にしているようですが」
エルディアが思わず顔を見上げれば、頭がくらくらするほど甘い声色で、エミールは言った。
「私は、貴女に贈りたいと言ったのですよ?」
「ええ。ですがそれは……私の国に、という意味ではありませんか?」
「違います。言葉通りの意味です。貴女に……エルディア嬢に身に付けてもらいたい」
エルディアの心臓が、痛いほど締め付けられる。
これ以上は危険だ、と背筋に冷たい汗が流れた。
体をぐるりと回され、ダンスが終わる。
何も言うことができず、誘導されるがままダンスホールを抜けた。
そして、「これはこれは! ノーディグラン王国第一王子、エミール殿下! エルディア、お前失礼なことをしていないだろうな?」
という愚かなアレクシスの声が聞こえ、はっと意識を取り戻す。
「ああ、フロリアン王国第一王子、アレクシス殿下。
失礼どころか……エルグラード侯爵令嬢殿は、良い王妃になるでしょうね」
「そうですか、そうですか。私としては、地味なこいつに務まるか不安なのですが……しかし、エミール殿下がそう言っていただけるなら、鼻が高いというものです!」
アレクシスは、エルディアが有能だと褒められることを嫌がる。だから今も、明るい声で答えながら、口元をピクピクと痙攣させていた。
「では、しばらくの滞在期間、よろしくお願いしますね」
「はい。ノーディグラン王国の皆様が、良き滞在だったと思っていただけるよう、精一杯おもてなしさせて頂きます」
エルディアが礼をすると、エミールはその耳元に近付いた。
『貴女の美しさが分からないなんて、勿体無い』
ノーディグランの言葉でそう言って、人の良い笑顔を浮かべたまま去っていく。
エルディアは縫い付けられたように動けなくなり、隣でアレクシスが「お前、余計なことは言ってないだろうな」や、「調子に乗るな」「おい、聞いてるのか?」と捲し立ててこようが、何も届かなかった。
◇
その日は、フロリアン王国の歴史的建造物へ案内をする日だった。
「まあ、あのステンドグラス、とっても素敵!」
「おや、ラウラ王女殿下に気に入ってもらえるとは! これは、この国で一番大きなステンドグラスです」
聖堂をぐるりと見渡し楽しそうに声を弾ませるラウラと、エスコートしながら得意げに話すアレクシスを見て、ずいぶん仲が深まっているなと感じる。
エミールもまた興味深そうに建物内を観察していた。
「アレクシス殿下。この建物の建築様式は……ノーディグランの隣国、グランセル王国の技術ではないですか?」
「ああ! そうですとも」
「しかしこれは門外不出とされている技術です。どう言うわけで?」
「はい! ……それは——」
エミールの問いかけに、アレクシスが視界を彷徨わせ、そしてエルディアを見る。その慌てようは、まるで自国の職人がその技術を盗んだと思われてもおかしくない態度だ。
「恐れながら、私が説明を。
二百年前、フロリアン王国は、大飢饉に見舞われたグランセル王国を救うため、我が国の農耕技術を差し出しました。そしてこの建物が、あちらの王室からの返礼なのです」
エミールが眉をわずかに上げ、すらすらと話すエルディアを見つめる。
「我が国の知恵であちらの民の飢餓は救われ、代わりに授かったこの堅牢な聖堂は、後に我が国を襲った大震災から民を守り抜きました。それ以降も百年以上、一度の崩落もなく聳え立っております。……あちらのステンドグラスを、再度ご覧ください」
エルディアが指し示した先には、先ほどラウラが目を輝かせていた麦の穂と城の紋様が、午後の光を浴びて床に鮮やかな影を落としていた。
「麦はグランセル王国の民の命を繋いだ我が国の実りを。城は我が国の民を震災から守った彼らの技を。この模様は、両国の共存を表したものなのです」
エミールは、エルディアの説明を聞いて、陶酔したような眼差しでステンドグラスを見上げていた。その光を浴びた彼の姿は神々しいものだった。
「グランセル王国とフロリアン王国は確固たる信頼関係があるとは知っていましたが、そのような事が」
「はい、当時は技術を狙われぬよう、内密に行われておりましたから。今は技術も進歩し始め、徐々に知れ渡っております」
エルディアが奥へ案内しようと進むが、少し不機嫌さを滲ませたアレクシスは、ラウラに向かって「ここからの美しい景色を見せよう」とバルコニーへ向いはじめる。
はあ、と誰にも知られぬよう息を吐き、それに着いて行こうとしたところ、「私は奥へ進みたいのですが」とエミールが言った。
その要望に応えるため付き人、護衛含め二手に分かれる。
エミールはエルディアの説明を楽しそうにじっくりと聞いていた。
「この建物を詳しく調べると言うわけでもなく、見た瞬間に、グランセル王国の技術だとお分かりになるなんて。エミール殿下は素晴らしい審美眼をお持ちなのですね」
「ありがとうございます。しかし隣国ですから。グランセル王国にはもともと興味がありましたし」
「エミール殿下でしたら、きっとグランセル王国とも友好な関係を築けるでしょうね」
そして、「この先に資料館があります」と重い扉の先へ目を向けた。
そこは国の重要な本や、歴史的書物を保管している特別な場所だった。勿論機密性のあるものは王城にて保管されているので、エミール殿下を案内しても問題はないが、一般人は立ち入れない場所だ。
「すごい本の量ですね。エルディア嬢は、どのくらいの知識を?」
「流石に全部とは言いませんが、大体は目を通しております。量は多いですが、本というよりも絵や芸術に関する資料の方が多いので、見ていて楽しいですよ」
そう言って、エルディアは美しい挿絵が特徴的な本を一つとった。旅のものが持ち帰ったとされる、”妖精の書”と呼ばれるそれは、他国の不思議なキラキラと輝くインクで、幻想的な絵が書かれている。
それを見せようとして、ふと思った。
ラウラに見せるならまだしも、このようなファンシーな本をエミールは楽しく眺めるだろうか?
「……あ、エミール殿下の興味があるものは?」
エルディアは本を戻しながら問いかける。するとその背後にエミールが歩み寄り、その本を取った。
「私は、貴女が美しいと思うものに興味があります」
綺麗に目を細めるエミールに、エルディアはぐらりと視界が回るような感覚に襲われる。
「あ、ありがとうございます……では、その本を」
そう言って進めれば、エミールはゆっくりと本を開き、そして目を大きく見開いた。
「エルディア嬢、これは……、我が国の最北端に伝わる希少なインクです、そしてこの景色も、ノーディグランの秘境です」
「まあ、本当ですか! とても美しいと思っておりました」
「なにか運命的なものを感じますね。……ああ、いつか貴女に見せてあげたい」
まさか本当にある景色だなんて、と目を輝かせたエルディアは、エミールの言う運命という言葉にむず痒い気持ちになった。
エミールは意外にもロマンチストなのだろうか。
見入るように本を眺める距離は近く、少し身を乗り出せば今にも肩がふれあいそうだ。
「そう……ですね。フロリアン王国と、ノーディグラン王国が、運命のようなもので繋がっていたとすれば、素敵なことです」
そう目も合わせずに言えば、エミールはエルディアを覗き込むようにして言った。
「エルディア嬢、少し顔が赤いようですが……体調がすぐれませんか?」
エルディアは驚いて、顔を向けた。
何故なら、その声色は心配のようであり揶揄っているようでもあったからだ。そして、深い笑みで口角をきゅっと上げている表情をみて、理解する。
——この人は、エルディアが何故動揺し、何故顔を赤くしたのか、分かった上で言っているのだ。
まただ。この全てを見透かすような瞳。絡め取られて、屈してしまいそうになる。
多情。エルディアは心の中でそう唱え、アレクシスの顔を思い出した。するといやに冷静になり、この国は私が守らなければならない、と思えるのだ。
「……ご心配いただきありがとうございます。ですが、問題ございません。そろそろ戻りましょう」
「そうですか」
エミールはわざとらしく安堵の表情を浮かべ、エルディアの隣を歩いた。
◇
それから数日経ち、エルディアは頭を悩ませていた。
エミールを見るたびに、胸が押し潰されるような感覚に陥る。美しい見た目、物腰の柔らかい雰囲気、高い身分、確かな教養。何もかもがアレクシスと違い、それらはエルディアの心を奪うのに充分だった。
王城で会えば笑いかけられ、「今日もエルディア嬢は美しいですね」というお世辞に、情けなくも顔に熱が集まってしまう。
そして愚かなアレクシスの顔を浮かべて落ち着かせるというのを繰り返していた。
その日は、最後のパーティーだった。
いつもより長く髪をといて、いつもより入念に化粧を施してもらっている自分に気付き、深いため息を吐く。
明日、エミールはノーディグラン王国へと戻る。
大丈夫、心が乱されるのはそれまでだ、と思うと同時に胸がズキズキと痛むのだった。
この感情の正体にはとっくに気付いている。気付かないふりをしていただけで。
夜のパーティーは今日も眩く輝いている。
格上のノーディグラン王国をもてなすのだ。国が力を上げて豪華に飾るのは当然だった。しかし、シャンデリアがまるで夢の中のようにふわふわと光っているように見える感覚は、きっとエルディアだけが感じているのだろう。
「アレクシス殿下! 少しお話ししませんか?」
突然やってきたラウラは、エルディアを見るも挨拶もなしにアレクシスへ話しかける。
アレクシスも嬉しそうに「今日が最後になりますから、是非色々な話をしたいものです」と、言って手を差し出した。
そこに、どこからかエミールが割って入った。
「フロリアン王国第一王子、アレクシス殿下。そして、エルグラード侯爵令嬢、エルディア嬢。……今宵も華やかな席にお招きいただき、感謝申し上げます」
「ノーディグラン王国第一王子、エミール殿下! お言葉、身に余る光栄です!」
アレクシスは友好的な笑顔をかえし、エルディアは、ドレスの裾を持ち上げて丁寧に礼をした。
「これからも、良い関係を築けますよう、お互い建設的なお話をしましょう。……これを」
エミールは、手に持っていた二脚のワイングラスを、ラウラとアレクシスに渡す。
ラウラは「お兄様! ありがとう」と言って、それからアレクシスの手を取り、会場の端へと歩いていった。
二人の姿が完全に見えなくなったところで、
「つい、余計なお節介をしてしまいました。ですが、これでやっとエルディア嬢と話せます。……エルディア嬢、私と踊りませんか?」
と言って微笑みかけられれば、愚かなアレクシスの事や失礼なラウラの事など全て脳内から消え去ってしまった。
甘美な誘いに頷き、ダンスホールの中心へと向かう。
それからエミールの香りに包まれ、腰に回された手の感触に目を閉じる。ああ、甘い。きっとこれが最後だから、今この瞬間を記憶に刻み込みたい。ずっと、覚えていたい。
「良い滞在でした」
ステップを踏みながら、エミールの言葉に目を開ける。
「そのように仰っていただけて……安心いたしました」
「特に、貴女のことを知れて良かった」
「……私もエミール殿下とお会いできて、有意義な日々を過ごせました。そして、ノーディグラン王国の安泰を確信いたしました」
エミールは嬉しそうに笑って、「当然のことです」と答える。やけに自信家に思える反応だが、アレクシスのような傲慢さは感じられず、むしろ国を導く確固たる意志を感じるような声色をしていた。
「また、フロリアン王国へ来るとしましょう」
「是非……その時は、婚約者様も一緒に」
「ああ、そうですね」
自分で言って、心に影が差してしまう。
ノーディグラン王国は不貞を許さないお国柄からか、恋愛結婚が多い。多少の身分は考慮されているはずだが、現王様も先王も恋愛結婚だと言う。
「ノーディグラン王国には、一目惚れのことを ”妖精の導き” と言うとお聞きしたことがあります」
「ええ、よくご存知で。迷信だと思っていたのですが、私の父も、祖父も、それから始まったのですよ」
「まあ、憧れてしまいます。……では、エミール殿下も?」
答えなど聞きたくなかったが、エルディアのそんな願いとは裏腹に、エミールは少し熱のこもったような瞳で「そうですね」と答えた。
自分も、ノーディグラン王国に生まれていれば、この甘さを妖精の導きと言って愛に生きられたのだろうか。
アレクシスに振り回されることもなかったのだろうか。
いつか、エミールが素敵な婚約者——その時には妃になっているであろう女性——と、フロリアン王国に訪問してくれる時が来るのだろう。外交の為にはとても喜ばしい事だが、きっと今よりも胸が締め付けられるはずだ。
「——時に、エルディア嬢」
「? はい」
「もしエルディア嬢が、一目惚れや恋をしたとして……貴女はどうなさいますか?」
「それは……婚約者以外の方に、と言う事でしょうか」
エミールの問いかけに手に汗がじわりと滲むような感覚になる。
エミールの瞳が、またこちらを見透かすような瞳をしていたからだ。彼はこの心に気付いている、と本能で確信する。
しかし、答えは一つだった。
「もしそのような事があったとしても、何もいたしません。私はアレクシス殿下の婚約者であり、この国の次期王妃としての役目をこなすだけでございます」
きっぱりと言い切れば「……そうみたいですね」とエミールは笑い、そして言った。
「最後に、少し二人きりで話しませんか?」
エルディアの理性は、行ってはならない、ここで何かあってはいけない、と訴えている。しかし心は違った。
最後くらい。だって話すだけだもの。何かあるはずがない。この人は大国の王子で信頼に値する人だから……と。
「……ええ、少しでしたら」
その答えは、エルディアの人生を変える事になる。
◇
エミールがエルディアを連れて行った先は、メイン会場の外れにある休憩室が立ち並ぶ廊下だった。休憩室とは、お酒やドレスの締め付けで気分が悪くなった者が休むための部屋だ。
「……どういうこと? 申し訳ございません。普段は、騎士や案内の者がいるのですが、」
エルディアは、顔を青ざめさせる。ここは、男女の間違いや事件に繋がらぬよう、しっかりと警備の者を置いていたはずだった。しかし、人ひとりおらず静まり返っている。
そして、二人きり……と言ってここへ連れてこられたことを察する。エミールにこれを咎められるのだ、と思った。
もし、休憩室を利用したノーディグラン王国の方が、何か事件に巻き込まれでもしたら、只事ではない。
だから、私を呼んだのだ。アレクシスはラウラと話すと言ったきり見当たらず、それ以上の者に言えば波風が立つ。
身分が丁度良く、人を動かせる者はエルディアくらいだった。
「すぐに状況の確認を……」
情愛にうつつを抜かす愚かなアレクシス、と馬鹿にしていたが、それは私ではないか、と自責の念に苛まれる。そして、その場を去ろうとすれば、エミールに強く手を引かれた。
「エ、エミール殿下……?」
「エルディア嬢、こちらへ」
その笑顔はどこか支配的で、色気と恐ろしさを感じられた。抵抗する事ができず、手を引かれるまま、着いていく。
静かな廊下を歩きを進めると、女性の高い声が聞こえ始めた。
嫌な予感が、体中を走る。
鳥肌が立ち、自分の息が荒くなり、ヒヤリとした汗が噴き出てくる。
その声は、一つの部屋に近づくたびに大きくなっていく。やがて、女の嬌声である事が分かり、ごくりと唾を飲んだ。
まさか、いや、そんな事があってはならない。でも、もし、そうだとしたら?そうだとしたらこの国は——
「エミール殿下……あの、」
エルディアに動揺を隠す気力は残っていなかった。
恐る恐る、エミールを見上げる。
そしてその表情に息を呑んだ。
歪められた口角と、頬が上気しているようにも見える顔色、そして、光をキラキラと反射する美しい瞳……それはまるで喜んでいるかのような顔だったからだ。
『成功だ』と、聞こえた気がした。しかしエルディア王国の言葉であり、あまりにも小さな呟きだったので聞き間違えだと処理をした。
「エルディア嬢、この声が何かわかりますか?」
先程までの表情とは一点、エミールはいつものような笑顔を浮かべてエルディアに問う。
「……はい、」
「では、今まさしく情事の最中である二人が、誰なのか、見てみましょうか」
エルディアが待ったをかける間もなく、エミールはまるで、パーティーの扉を開けるかのような明るい面持ちで扉を開いた。そして見えたのは、エルディアが予想する中で、一番最悪の状況。
天蓋の付いたベッドの上で服をはだけさせ、体を重ねているのは——アレクシスと、ラウラだった。
扉の音に二人はこちらを一斉に見て、「キャァァ!」とラウラが甲高い叫び声を上げる。アレクシスは大きく目を見開いて、その顔を赤から青に変えた。
「こ、これは! その! 誤解だ! 誤解だ!」
何が誤解なのだろうか。今現状がこうなっている以上、何を言っても弁解の余地はない。
錯乱したようなアレクシスが、ほとんど裸の体を起こせば、「想像以上に不快ですね……」と渋い声を出したエミールがエルディアの視界を手で抑え、突然目の前が暗くなる。
「エミール殿下、」
「エルディア嬢には美しい物だけを見ていてもらいたいですから」
エミールは気遣うようにそう言うが、そもそも連れてきたのも嬉々として扉を開けたのもエミールだ。いや、そんなことを考えている暇はない。
これは、国を揺るがす自体だ。
「さあ、愚かな者達は置いておいて……エルディア嬢、二人で話しましょう」
エミールはバタン、と扉を閉めて、アレクシスとラウラの二人を閉じ込める。目を覆い隠していた温度が離れ、眩い光が視界を照らすも、これから起こることに、希望の光は無い。エミールは、最悪の事態を想像しガタガタと震えているエルディアを連れて、別の部屋へと入った。
◇
「恋愛に重きにおいているノーディグラン王国でも、王女の貞操というのは重要なものでしてね」
向かい合ってソファに座るエミールは、丁寧な口調こそ崩さないが、長い足は形よく組まれていて、人を圧倒する雰囲気を放っていた。
エルディアは、「申し訳ございません」と震える声で答える事しかできなくなっている。
「つまり、フロリアン王国に我が国の尊厳を汚された、となるわけです」
「仰るとおりで……ございます」
「謝罪だけで済まないことはわかりますか?」
「……はい、」
エルディアは、込み上げる感情がそのまま形となって吐き出そうなほどに憔悴していた。手だけでなく、体の底から凍えるように震え上がり、呼吸がつかえる。
「賠償金……領土の割譲……もし、強姦などということでしたら、戦争になってもおかしくありません。ノーディグラン王国としては必ず勝てる戦争ですから、過程はどうであれ適当な理由をつけて侵略できる良い機会になるのです」
「全て……理解しております」
エミールの言った通りだ。エルディアは理解していた。これは、外交上の最大級の不祥事であり、フロリアン王国にとって最大の危機である。
今まで、エルディアが身を粉にして学んだことも全て無意味になった。あとは国の終焉を待つのみだ。
愚かなアレクシスは、本当に愚かだった。しかし、そのアレクシスを政治のパートナーとしてしか見ておらず、繋ぎ止められなかったのは自分だ。
貴族も、国民も、終わりなのだ。
すると、エミールがわざとらしく、こほん、と咳をし場の雰囲気を変えた。
「なんて、恐ろしいことを話してしまいましたが、そこまでは考えていません」
とても明るい声だった。しかしその明るさですらエルディアにとっては恐ろしく感じてしまい、ひゅっと息を吸い込む。
「……ああ、エルディア嬢。少し調子に乗りました。すみません、エルディア嬢を泣かせたかったわけではないのです」
そう言われて初めて、自分の頬に涙が伝っていることに気付いた。慌ててハンカチを取り出せば、立ち上がったエミールがそのハンカチを奪い取って、エルディアの代わりに頬を伝う涙を拭い取った。
「もっ、申し訳、ございません……」
エルディアの心はぐちゃぐちゃだった。国が窮地に立たされている恐怖と、アレクシスや自分への怒りと落胆、そして、エミール殿下の得体の知れぬ妖しさと優しさ。
全てが混ざり合って、何も発せなくなってしまう。口を開いても、荒い息が吐き出されるだけだ。
「エルディア嬢は悪くありませんよ。本当です。今貴女は自分を責めているようですが、違いますから」
そして、エミールはエルディアの両手をぎゅっと包むように握りしめる。
「さて、話を戻しますが……今私が上げた例は、殆ど冗談とは言え、本当に起こり得る事です。ただし、一つだけこれを全て解決できる手があります。貴女がそれを飲めば、父上にも私から進言しましょう」
「わ、私に出来ることなら、何でも……何でもいたします!」
だから、この国だけは——エルディアの絶望に、一筋の光が差した瞬間だった。
ボロボロと涙をこぼしながら真剣な目を向けるエルディアの姿を見て、エミールはほんのり頬を赤らめ、深い笑顔を向けて言った。
「アレクシス殿下の婚約者をラウラに。そして貴女は婚約を解消して、私の元へ来てください」
……アレクシスとラウラが結婚。エルディアは婚約を、解消。私の元へ……、それはつまり、自分はノーディグラン王国へ嫁ぐと言う事だろうか、と理解して、心臓が早鐘を打つ。
「…………ええ、と、それは」
「エルディア嬢、悪い話ではないはずです。だって――」
エミールの甘い香りがエルディアの思考を溶かしていく。
「だってエルディア嬢は、私のことが好きでしょう?」
あ……と、自然に声が漏れた。
国を、守らなきゃいけない。自分が王妃となって、アレクシス殿下を支えて国民を幸せにしなければならない。だから、アレクシスが怠惰でも、傲慢でも、多情でも、どれほど愚かでも婚約を取りやめる事はできない。
……いや、しかし。エミールが言った通りにラウラがアレクシスの妃となれば? 外交は確固なるものになる。そして、ラウラならきっと上手にアレクシスを導いてくれるだろう。だってさっき、愛し合っていたじゃないか。二人は気が合うようだった。
それにエミールは、この危機的状況を打破できるたった一つの手だと言っていた。
じゃあ、この決断は、国を捨てるのではなく、救うためのもので……。
——いいえ。なによりも私は、エミール殿下に恋をしていて……、
エルディアは、長い沈黙の後、消え入るような声で「……はい」とだけ言った。
そして、脳が限界を迎え、ふっと気を失った。
なので、エルディアには聞こえていない。
『私もエルディアが好きです』
と絹のような黒髪に触れながら言う、エミールの甘い呟きを。
エルディアは見ることができない。
アレクシスとラウラを閉じ込めた部屋に行き、
「申し訳ないとは思っています。しかし、君も、エルディアも、全然婚約を解消しないから……」と、顔を青ざめさせる二人に哀れむような目を向けたことも。
「愚かな妹は、こう言う時に役に立つのですね。アレクシス殿下、ラウラの具合はどうでしたか?」
「エ、エミール殿下! お許しください!」
「お兄様! どういうこと!?」
アレクシスは愚かだが、流石に今の状況は国にとって最悪の事態になると言うことくらいは理解しているだろう。
一国の王子とは思えぬほど無様に膝をついて、許しを乞うている。片やラウラは邪魔をされたことと、エミールの口ぶりに憤っている。
エミールは、その二人の様子を見て「おお、」と圧倒されるように控えめに声を上げた。
「許すも何も……祝福いたしますよ、ラウラ、アレクシス殿下、婚約おめでとうございます」
予想だにしていなかった言葉に呆気に取られたようなアレクシスを見て、エミールは続けた。
「フロリアン王国第一王子、アレクシス殿下。……君の外交演説を聞いた時に、素晴らしいと思ったのです。ノーディグラン王国の事を、ここまで調べてくれたのかと感銘を受けました。……そして、後にエルディア嬢がそれを用意したことを知り、私はエルディア嬢に興味が湧きました。なんと聡明な女性なのだと」
アレクシスはただ、表情を変えないまま、「は、はい、」と操られたかのように返事をする。
「エルディアは、責任感も素晴らしくて……それに手を焼いたのですが。
代わりに、君達が余りにもスムーズに愛し合ってくれましたから、殺すまでしなくてよかったのは助かりました」
「殺す……!?」息を詰まらせるアレクシス殿下に、エミールは「まさか、冗談ですよ」と冷たく笑いかけた。
「調査をすれば……殆ど、エルディア嬢が君の代わりを務めていたようで、確信しました。エルディア嬢がいない君は、次の王になることは出来ないと。
私がエルディア嬢を好きになったせいで、申し訳ございません」
「ちょっと待って! お兄様! 話が違うわ!」
「わ、私は第一王子であり、次期国王です! エルディアは関係ない! それは揺らぎません!」
「残念ながら、関係はあります。
しかしそうですね……貴女の婚約者となるラウラが、エルディア嬢のような女性であれば、良かったのかもしれませんが——ラウラは私と血を分けているとは思えぬほど愚かな妹でね、頭が空っぽなんです。
顔の綺麗なアレクシス殿下とラウラはお似合いだ、愛し合えば一国の王妃になれるはず、と言えば、すぐに乗せられてしまうような子ですから」
ラウラは「ひっ、」と言葉を引き攣らせるが、兄の怖さを一番分かっていた。そこで何も発さないのは聡明な判断だ。もっとも、その雰囲気に圧倒されて発せないだけなのかもしれないが。
「ああでも! ラウラ、一つだけ君に謝らなければならないことが!
私は君が言う “妖精の導き” と言う言葉を迷信だと決めつけ馬鹿らしいと一掃していましたが、本当にありました。
もともと黒絹の才女という響きだけでも、気になってはいたのですが、エルディア嬢を一目見て、すぐに恋に落ちたのです。脳が焼けるほど甘い香りがして……君の言う通りでした」
酔いしれるように言ったエミールは、ぴく、と体を震わす。そして「喋りすぎましたね」と自嘲するように少し笑ってサイドテーブルに置かれた二脚のワイングラスを手に取った。
「また、フロリアン王国へ来るとしましょう。私の聡明で美しい婚約者……いえ、妻と共に」
扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。そこには、顔を青くしたフロリアン王国の王と、顔を赤くしたノーディグラン王国の王が立っていた。
「まあ、その時はきっと身分が違うので、お会いできるかはわかりませんが」
眠っているエルディアは、知ることができない。
これらは全て、エミールがエルディアを迎える為に仕組んだ事だということを。
——しかし、知らなくても良いのかも知れない。
ベッドに寝かされたエルディアが目を覚ます時、彼女の視界を埋めるのは、優しく手を握る美しいエミールの笑みと、首にかけられた紫に煌めく美しいダイアモンドだ。
そして、叱咤も、嘲笑も、醜い情愛もない世界に導かれ、ノーディグランの壮麗で幻想的な景色に囲まれて——エミールの手によって、生涯美しいものだけを見て過ごす事になるだろう。
エルディアにとってのエミールは、国が崩壊しかねないアレクシスの愚行を許してくれた、そして自分をこの環境から救ってくれ美しいた王子様だ。
その裏で、エミールが何をしたのかなど——なにも知らないままで、良いのかも知れない。
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エミールは「ノーディグランの安泰を確信しました」というエルディアの言葉に「(エルディアが王妃になるのだから)当然のことです」と返しました。




