第7章 歩き直す
退院を明日に控えた日の午後、優子は病室で早瀬を待っていた。
窓の外では、冬の空が青く澄んでいる。もうすぐ春だ。
ドアがノックされ、早瀬が入ってきた。
「佐藤さん、調子はどうですか」
「だいぶ、よくなりました」
優子は正直に答えた。入院してから二週間。体は確実に回復していた。
早瀬は椅子に座り、優子を見た。
「明日、退院ですね」
「はい」
「最後に、少し話をしましょう。佐藤さん、これからどう生きたいですか」
優子は、窓の外を見た。
どう生きたいか。
その問いに、すぐには答えられなかった。
今まで、ずっと「生きなければならない」「働かなければならない」と思ってきた。でも、生きたいかどうか。それは、考えたことがなかった。
「……生きなきゃいけない、じゃなくて」
優子はゆっくりと言葉を紡いだ。
「生きたいって、思える場所で働きたいです」
早瀬は、優しく微笑んだ。
「それが、回復です」
優子の胸が、温かくなった。
回復。
その言葉が、優子の心に染み込んでいく。
「焦る必要はありません。ゆっくり、自分のペースで探していけばいい」
早瀬はそう言って立ち上がった。
「また、いつでも相談に来てください」
「ありがとうございます」
優子は深く頭を下げた。
早瀬が去った後、優子は一人、窓の外を見つめた。
生きたいと思える場所。
それが、どこなのかはまだわからない。
でも、探してもいいのだと思えた。それだけで、優子の心は軽くなった。
その日の夕方、病室にノックの音が響いた。
優子が「どうぞ」と言うと、ドアが開いた。
三井主幹と黒田教頭が立っていた。
優子は驚いて体を起こした。
「佐藤先生」
三井が一歩前に出た。その顔には、疲労の色が濃く出ている。
「本当に……無理をさせてしまって……」
三井の声が震えていた。優子は首を横に振る。
「いえ、私が……」
「こちらの配慮不足でした」
黒田教頭が言った。
「六十時間超の残業を出してしまった。佐藤先生の特性も理解しきれていなかった。本当に、申し訳ありませんでした」
黒田は深く頭を下げた。三井も、同じように頭を下げる。
優子は、二人を見つめた。
二人とも、疲れ切っている。目の下にクマがあり、顔色も悪い。
この人たちも、壊れかけていたんだ。
優子はそう思った。
加害者ではない。同じ構造の犠牲者なのだ。
「お二人も……大変だったんですよね」
優子の言葉に、三井が顔を上げた。
「え?」
「お二人も、余裕がなくて。助けたくても、助けられなくて。それで、苦しんでいたんですよね」
三井は、言葉を失った。黒田も、優子を見つめている。
「誰も、悪くなかったんです」
優子は静かに言った。
「ただ、現場が……限界だっただけで」
三井の目に、涙が浮かんだ。
「佐藤先生……」
「職場復帰については、無理のない形を相談できればと思っていますが……」
黒田がそう言いかけた。優子は、静かに首を横に振った。
「しばらく、仕事をお休みします」
優子ははっきりと言った。
「それから……別の働き方を考えたいです」
黒田は驚いた表情を浮かべた。でも、すぐに理解したように深く頷いた。
「……わかりました。あなたが決めた道を、応援します」
「ありがとうございます」
優子は頭を下げた。
二人が去った後、優子は窓の外を見た。
夕日が、空を赤く染めている。
その光は、もう痛くない。
ただ、静かに優しい。
退院の日、母が迎えに来た。
優子が病室を出ると、母は涙を浮かべながら優子を抱きしめた。
「優子……」
「ただいま、お母さん」
優子はそう言って、母の背中に手を回した。
車の中で、母は何度も優子を見た。
「辛かったね……もっと早く言ってくれたら……」
「言えなかった」
優子は正直に答えた。
「迷惑かけたくなくて。私が弱いせいだって思ってて」
母は、優子の手を握った。
「弱い人が倒れるんじゃないの」
母の声は、優しかった。
「無理を続けた人が倒れるの。あなたは強すぎたのよ」
優子の目から、涙が溢れた。
母は優子の手を、ずっと握っていた。
家に帰ると、父が玄関で待っていた。
父は無口な人だった。でも、優子を見た瞬間、目を赤くした。
「おかえり」
その一言だけ言って、父は奥へ引っ込んだ。
優子は、父の後ろ姿を見つめた。
父も、心配していたんだ。
その夜、優子は自分の部屋で久しぶりにベッドに横たわった。
天井を見上げる。
病院の天井とは違う、見慣れた天井。
優子はスマートフォンを手に取った。
メッセージがいくつか届いている。
その中に、北村からのメッセージがあった。
優子は、それを開いた。
「佐藤先生。あなたが倒れたあの日、みんなで無理してたって、初めて気づきました。先生のおかげです。ありがとう」
優子は、画面を見つめた。
私……誰かの役に、立てた?
その思いが、胸に広がる。
優子は返信を書いた。
「北村さん、メッセージありがとうございます。私こそ、たくさん助けてもらいました。北村さんも、無理しないでくださいね」
送信ボタンを押す。
優子は、スマートフォンを置いて目を閉じた。
明日から、新しい日々が始まる。
どんな未来が待っているのか、まだわからない。
でも、少なくとも今、優子は前を向いている。
数週間後、優子はハローワークを訪れていた。
担当者と相談しながら、事務職や在宅ワークの求人を見ている。
「ASDの特性に配慮した職場を探すのは、簡単ではありませんが」
担当者は言った。
「少しずつ、理解のある企業も増えています。焦らずに探していきましょう」
優子は頷いた。
焦らない。
その言葉が、優子には新鮮だった。
今まで、ずっと焦っていた。間に合わせなければ。迷惑をかけてはいけない。
でも、もう焦らなくていい。
優子は、ハローワークを出て駅へ向かった。
冬の終わりの光が、街を照らしている。
優子は空を見上げた。
光が、優しい。
まぶしすぎない。痛くない。
ただ、静かに優子を包んでいる。
優子は、小さく微笑んだ。
そして、ある春の朝。
優子は、新しい職場へ向かう支度をしていた。
小さな企業の事務職。在宅勤務も可能で、障害への配慮もある職場だった。
鏡の前で、優子は自分を見つめた。
顔色は良くなった。目の下のクマも消えた。
優子は、深呼吸をした。
呼吸は穏やか。心拍は安定している。
優子は手帳を開いた。
今日やること。
そこには、三つだけ項目が書かれている。
以前なら、一日のスケジュールをびっしり書き込んでいた。でも、もうそうしなくていい。
三つで、いい。
優子は手帳を閉じた。
玄関を出る前、優子は鏡の中の自分に向かって小さくつぶやいた。
「もう、がんばりすぎなくていい」
その言葉が、優子の心に染み込む。
「私は……私の速さで、生きていい」
優子は玄関のドアを開けた。
朝の光が、優子の肩をそっと照らす。
その光は、優しかった。
春の光は、温かくて、柔らかい。
優子は一歩、外へ踏み出した。
歩く速度は、ゆっくりでいい。
走らなくていい。
ただ、自分のペースで歩いていけばいい。
優子は、駅へ向かって歩き出した。
道端には、小さな花が咲いている。
優子は、その花を見つめた。
きれいだな。
そう思った。
今まで、こんな花に気づくこともなかった。
でも、今は見える。
優子は、また歩き出した。
光が、優子を包んでいる。
その光の中で、優子は静かに微笑んだ。
歩き直す人生は、静かで、やさしい光の中にあった。
優子は、もう一人ではない。
助けを求めてもいい。
自分のペースで生きていい。
その許可を、優子は自分に与えることができた。
空は青く、雲が流れている。
風が、優子の髪を揺らす。
優子は、深呼吸をした。
生きている。
その実感が、胸に広がる。
優子は、前を向いて歩き続けた。
新しい人生が、そこから始まっていた。
(了)




