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合理的配慮のない教室で、私は壊れた ― ASD教師の再生記録 ―  作者: 妙原奇天


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第5章 倒れる日

 朝、目を開けた瞬間、世界が歪んでいた。

 天井が、ぐにゃりと曲がって見える。いや、曲がっているのではない。視界そのものが、正常に機能していない。

 優子は布団の中で、動けなかった。

 後頭部がズキズキと痛む。胸が重い。呼吸が浅い。

 窓から差し込む朝の光が、目に刺さる。

 優子は目を閉じた。でも、今日は行かなければ。昨日も一昨日も、ギリギリで何とか乗り切った。今日も、きっと大丈夫。

 大丈夫。

 その言葉を、優子は自分に言い聞かせた。

 もう何度目かわからない。毎朝、同じ言葉を唱えている。でも、体はもう答えてくれない。

 優子は無理やり体を起こした。めまいが襲ってくる。天井が回る。

 でも、行かなきゃ。

 みんなに、迷惑が。

 その思いだけが、優子を動かしていた。

 電車の中で、優子は立っているのがやっとだった。

 満員電車の圧迫感が、体を締め付ける。周囲の話し声が、耳に突き刺さる。

 吐き気が込み上げてくる。優子は口を押さえた。

 降りたい。今すぐ降りて、家に帰りたい。

 でも、降りられない。学校に行かなければ。休んだら、また迷惑がかかる。

 優子は目を閉じ、揺れる車内で耐え続けた。

 職員室に入ると、いつもの音が襲ってきた。

 でも、今日はいつもよりも音が大きく聞こえる。コピー機の轟音が、頭蓋骨を揺らす。電話の呼び出し音が、脳に響く。

 光も、まぶしすぎる。蛍光灯の光が、目を開けていられないほど強い。

 優子は自分の机へ向かおうとした。足が重い。地面に沈んでいくような感覚がある。

「佐藤先生!」

 北村の声が聞こえた。優子は振り返る。

 北村は心配そうに優子を見つめていた。

「顔色、悪いよ。大丈夫?」

「だ、大丈夫です」

 優子はそう答えた。でも、声が震えている。

 北村は何か言いかけたが、その時、三井主幹が駆け寄ってきた。

「佐藤先生!」

 優子の心臓が跳ねた。

「今日も代教続きます。すみませんが、一時間目から三時間目までお願いできますか」

 優子の頭が、一瞬真っ白になった。

 一時間目から三時間目まで。三時間連続で、代教。

 準備していない授業を、三つ。

「……は、はい」

 優子はそう答えるしかなかった。三井は安堵の表情を浮かべる。

「本当にごめんなさい。助かります」

 三井は走り去った。

 優子は、その場に立ち尽くした。

 どうしよう。何を教えるんだろう。何年生? 何の教科?

 情報が、頭の中で整理できない。

 北村が優子の肩に手を置いた。

「大丈夫? 本当に無理しないでね」

「大丈夫です」

 優子は笑顔を作った。でも、顔の筋肉が硬い。笑えているかどうかも、わからない。

 一時間目の授業は、悪夢だった。

 五年生のクラス。国語。教材は、物語文の読解。

 でも、優子には何を教えればいいのかわからない。黒板に書かれた指示を見ても、意味が頭に入ってこない。

 子どもたちが、優子を見つめている。

 優子は教科書を開いた。手が震える。

「今日は……この物語を……読みます」

 声が出ない。喉が詰まっている。

 子どもたちが、ざわつき始めた。

「先生、何ページ?」

「先生、音読する?」

「先生、ノートに書く?」

 質問が次々と飛んでくる。優子の頭の中で、言葉が渦を巻く。

 板書をしようとして、チョークを持った。黒板に線を引く。

 その線が、二本に見える。

 優子は目をこすった。でも、変わらない。視界がぼやけている。

 子どもの声が、刺さるように響く。教室のざわめきが、機械音のように聞こえる。

 胸がバクバクする。冷や汗が額を濡らす。手が震える。

 息が、うまく入ってこない。

「先生?」

 ある子が、心配そうに優子を見上げた。

「なんか……今日、変だよ?」

 優子は笑った。笑おうとした。

「大丈夫よ。授業を、始めるね」

 でも、声が震えている。

 チャイムが鳴った。その音が、雷のように頭に響く。

 優子は教壇の端を掴んだ。立っているのがやっとだった。

 二時間目も、三時間目も、同じだった。

 いや、症状はさらに悪化していた。

 めまいがひどい。足が地面に沈んでいく感覚がある。目の焦点が合わない。

 三時間目、代教先のクラスは少し荒れていた。

 男子が立ち歩く。女子が後ろで笑っている。

「静かにして」

 優子はそう言おうとしたが、声が出ない。

 誰かが質問してくる。別の誰かも質問してくる。さらに別の子も。

 複数の声が、同時に優子に向かってくる。

 優子の頭の中で、すべてが混ざり合う。

 黒板に書いた文字が、波打って見える。教室全体が、ぐにゃりと歪んでいる。

 見えない。

 頭が、割れそう。

 息が、苦しい。

 みんなの声が、遠い。

 でも、止めたら。

 授業を止めたら。

 迷惑が。

 優子は、教壇から一歩踏み出した。

 その瞬間、世界が白くフラッシュした。

 耳鳴りが、高音で鳴り続ける。

 視界が、消える。

 優子の膝が、折れた。

 体が前に倒れる。頭が、床に向かって落ちていく。

 そして、優子は教室の床に、崩れ落ちた。

 静寂が訪れた。

 教室中の空気が、凍りついたような静寂。

「せ……先生……?」

 誰かの声が、遠くから聞こえる。

「先生が倒れた!」

「誰か、先生呼んで!」

 子どもたちの声が、遠くで響いている。

 優子は、床に横たわったまま、意識が薄れていくのを感じた。

 ごめんなさい。

 迷惑、かけて。

 ごめんなさい。

 その言葉だけが、優子の頭の中で繰り返されていた。

 北村が教室に駆け込んできた。

「優子先生! 佐藤先生!」

 北村は優子の隣にしゃがみ込み、脈を確認した。

 脈はある。でも、優子は目を閉じたまま、意識が朦朧としている。

「誰か、救急車!」

 北村は叫んだ。

 三井主幹が走ってきた。青ざめている。

「これ……救急車……? いや、校長に先に連絡を……?」

 三井は動揺していた。現場に、倒れた教員への対応マニュアルなど存在しない。

「迷ってる場合じゃないです!」

 北村は強い口調で言った。三井は頷き、携帯電話を取り出した。

 黒田教頭が教室に入ってきた。

 優子が床に倒れているのを見て、顔色が変わる。

「救急車を! すぐに!」

 教頭の声が、震えていた。

 責任の重さと、日々の疲労と、突然の事態。すべてが教頭の表情に出ている。

「子どもたちは、隣のクラスに移動させて」

 北村が指示を出した。子どもたちは不安そうに優子を見つめている。

「先生、大丈夫?」

「先生、死なないよね?」

 子どもたちの声が、優子の耳に届く。でも、優子は答えられない。

 ただ、薄れゆく意識の中で、自分が迷惑をかけていることだけが、胸を締め付けていた。

 救急車が到着し、優子はストレッチャーに乗せられた。

 天井が、視界を横切る。白い天井。廊下の蛍光灯。

 光が、滲んで見える。

 サイレンの音が、遠くから聞こえてくる。

 救急隊員が何かを話している。でも、言葉が聞き取れない。

 優子は、薄く目を開けた。

 救急車の中。白い天井。まぶしい光。

 その光が、揺れている。光が、刺す。

 まぶしい。

 光。

 優子の頭の中で、その言葉だけが響く。

 朝、電車の中で見た光。あの光は、優しかった。希望だった。

 でも、今、この光は違う。痛い。まぶしすぎる。

 優子の意識は、ゆっくりと暗闇へ沈んでいった。

 迷惑、かけて。

 ごめんなさい。

 もっと、頑張れたはず。

 わたしが、弱いせいで。

 その言葉が、最後まで優子の心を支配していた。

 でも、優子は知らない。

 倒れたのは、優子のせいではないことを。

 壊れたのは、優子ではなく、優子を囲む世界だったことを。

 救急車は、病院へ向かって走り続けた。

 サイレンの音が、街に響く。

 優子の意識は、完全に暗闇の中へ消えていった。

 光が、遠ざかっていく。

 でも、その光は消えない。

 いつか、この光が優しいものに変わる日が来る。

 それを、優子はまだ知らない。

 ただ、暗闇の中で、優子の体は静かに休んでいた。

 長い間、休むことを許されなかった体が、ようやく強制的に休息を得た。

 それは、悲劇だった。

 でも同時に、再生への第一歩でもあった。

 救急車は、病院の入口に到着した。

 優子は、ストレッチャーから降ろされ、病院の中へ運ばれていく。

 白い天井。白い壁。白い光。

 すべてが白い世界の中で、優子の意識は眠り続けた。

 そして、この眠りの後に、優子の世界は変わり始める。

 それを、優子はまだ知らない。

現場では誰しもが「優子」になる危険性があった。

なってはいけないけれど、いつそうなるかわからない。

それだけの過酷さがあります。

やりがいのある仕事ではあるけれど、身体がおいつかない。

そういう教員はたくさんいると思います。

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