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合理的配慮のない教室で、私は壊れた ― ASD教師の再生記録 ―  作者: 妙原奇天


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第4章 壊れていく日々

 朝、職員室の扉を開けた瞬間、音が殺到してきた。

 コピー機の轟音が右から響く。カタカタカタカタという連続音が、優子の耳の奥に突き刺さる。左では誰かが電話で話している。いや、三人が同時に電話している。声が重なり合い、言葉が渦を巻く。

「今日の五時間目、変更で」

「プリント、何枚コピーします?」

「保護者対応、誰が行きます?」

 複数の会話が交錯する。優子には、誰が誰に話しているのか判別できない。音が頭の中で混ざり合い、意味を失っていく。

 優子は入口で立ち止まり、目を閉じた。

 大丈夫。今日は、大丈夫。

 その言葉を心の中で繰り返す。でも、もう自分でも信じていない。毎朝同じ言葉を唱えているが、体は日に日に重くなっている。

 目の奥がズキッと痛む。手が震える。

 優子は深呼吸をして、自分の机へ向かった。

「佐藤先生!」

 三井主幹の声が飛んできた。優子は思わず体を硬くする。

「急で申し訳ないんだけど、一時間目と二時間目、代教お願いできる?」

 優子の心臓が跳ねた。

 一時間目と二時間目。連続で。準備していない授業を、二つ。

「あ……はい」

 優子は笑顔を作った。でも、顔の筋肉が硬い。笑顔になっているかどうかもわからない。

 三井は安堵の表情を浮かべた。

「ありがとう。助かるわ」

 そう言って、走り去っていく。

 優子は机の前に立ったまま、固まった。

 一時間目は、あと十五分後。何年生のクラス? 何の教科? 教科書は?

 情報が何もない。頭の中が真っ白になる。

 優子は急いで職員室を出て、廊下の掲示板を確認した。時間割表がある。該当するクラスを探す。

 四年二組、算数。

 教科書を確認しなければ。教室に行って黒板を見なければ。

 優子は階段を駆け上がった。息が切れる。胸が苦しい。

 教室に入ると、子どもたちがざわついていた。担任がいないことを察して、落ち着きを失っている。

 黒板には、授業内容が書かれていた。「わり算の筆算」。

 でも、それだけだ。どこから教えるのか。どんな順番で説明するのか。どこでつまずきやすいのか。

 優子には、何もわからない。

 チャイムが鳴った。その音が、爆音のように頭に響く。

 優子は黒板の前に立った。子どもたちが一斉に優子を見る。

「今日は……わり算の筆算を……やります」

 声が震えている。優子は教科書を開いた。手が震えて、ページがうまくめくれない。

 授業は、地獄だった。

 子どもたちからの質問に答えられない。説明が途中で途切れる。黒板に書いた数字を間違える。

「先生、わかんない」

「先生、これ違うよ」

「先生、もう一回説明して」

 声が次々と飛んでくる。優子の頭の中で、言葉が渦を巻く。

 後ろの席で誰かが笑った。別の誰かが、ひそひそ話をしている。

 音が、すべて優子の耳に突き刺さる。

 一時間目が終わり、優子は廊下に出た。足が震えている。

 次は二時間目。また代教。また準備なしの授業。

 優子は壁に手をついた。立っているのがやっとだった。

 職員室に戻ると、三井が駆け寄ってきた。

 優子の心臓が、また跳ねる。

「本当にごめんなさい、三時間目もお願いできる?」

 優子は言葉を失った。

 三時間目も?

「……はい」

 声がかすれた。でも、断れない。断ったら、誰かが困る。迷惑をかけてはいけない。

 三井は申し訳なさそうに頭を下げた。

「ありがとう。本当に助かる」

 優子は頷いた。頷くことしかできなかった。

 昼休み前、三井が再び現れた。

「四時間目も……申し訳ない……」

 優子の視界が、一瞬暗くなった。

 四時間目も。

 今日、空き時間がゼロになる。

「だ、大丈夫です」

 優子はそう答えた。でも、大丈夫ではない。体が限界を訴えている。

 昼休み、優子は給食を子どもたちと食べた。

 配膳を手伝い、トラブルに対応し、質問に答える。食べる時間は七分しかない。

 咀嚼の音が、耳に響く。隣の子が椅子を引く音が、頭に刺さる。

 優子は箸を置いた。もう食べられない。

「優子先生」

 北村が教室に入ってきた。

「給食の後、廊下巡回お願い。あと、三年生でトラブル起きてるから主任が呼んでる」

 優子の昼休みが、完全に消えた。

 休憩という概念が、ない。

 優子は立ち上がり、廊下へ向かった。足が重い。頭がふらつく。

 午後の授業も、地獄だった。

 代教先のクラスは、少し荒れていた。男子が席を立ち、勝手に話し始める。女子が後ろで笑っている。

 優子は注意しようとしたが、声が出ない。

 質問が同時に複数飛んでくる。優子は一つ一つに答えようとするが、頭が追いつかない。

 チョークで黒板に書こうとして、手が止まった。

 カツカツカツという音が、耳に刺さる。自分が立てている音なのに、耐えられない。

 心拍数が上がる。胸が締め付けられる。手が震える。

 これは……私が悪い……

 準備不足……

 みんなに迷惑を……

 その思考が、優子の脳内を支配する。

 違う。構造が悪いのだ。でも、優子にはそれがわからない。すべてを自分の責任だと思い込んでしまう。

 放課後、優子は自分の机に戻った。

 机の上には、タスクが山積みになっていた。

 未採点のプリントの束。学級日誌が二冊。行事案内の決裁書。明日の教材コピーの依頼メモ。連絡帳の返事。保護者対応のメモ。学級通信の草稿は、まだ白紙のまま。

 優子は椅子に座り、プリントを手に取った。

 数字が、二重に見える。

 優子は目をこすった。でも、変わらない。文字がかすむ。読むスピードが落ちる。

 光がまぶしい。職員室の蛍光灯が、目を開けていられないほど強く感じる。

 鼓動が速い。手が震える。めまいが再発している。

 口が乾く。手が冷たい。

 優子は椅子に座ったまま、固まった。

 どうしよう。

 終わらない。

 でも、終わらせないと。

 みんなに、迷惑が。

 その思考が、ループする。止まらない。

 周囲を見回すと、他の先生たちも疲弊していた。

 北村は、小テスト四十枚を必死で採点している。目が虚ろだ。

 大谷主任は、会議資料の山に埋もれている。深夜まで残る予定だと、さっき誰かに言っていた。

 早川は、プリントを束ねながら誰かに話している。

「昔はもっと忙しかったのよ。夜中まで残るなんて当たり前だった」

 三井は、電話と事務作業でパニック気味だ。受話器を持ちながら、パソコンを打っている。

 黒田教頭は、今日中に提出しなければいけない資料を五つ抱えて、焦っている。

 誰も、余裕がない。

 全員が限界で働いている。

 だから、誰も優子を助けられない。

 優子は、それを理解していた。

 長谷川典子が、優子の隣を通りかかった。

「佐藤先生、残ってるの多いわね」

 優子は顔を上げた。長谷川は、優子の机を見下ろしている。

「こんなんじゃ、また休むことになりかねないよ?」

 その言葉が、刃のように優子の胸に刺さる。

「すみません……すみません……」

 優子は無意識に何度も謝った。

 長谷川は何も言わずに去っていった。

 優子は、自分が何度も謝っていたことに気づいた。

 いつから、こんなに謝るようになったんだろう。

 いつから、こんなに自分を責めるようになったんだろう。

 優子は再びプリントに目を落とした。でも、文字が頭に入ってこない。

 時計を見ると、午後八時を過ぎていた。

 優子は急いで荷物をまとめた。帰らなければ。電車に乗らなければ。

 電車の中で、優子は目を閉じた。

 めまいがする。光が滲んで見える。

 吐き気が込み上げてくる。優子は口を押さえた。

 家に着いたのは、午後十時を過ぎていた。

 優子は玄関で靴を脱ぐのも億劫だった。そのまま自分の部屋に上がり、床に倒れ込んだ。

 天井が、回っている。

 優子は目を閉じた。でも、回転は止まらない。

 光が、窓から差し込んでくる。その光が、目に刺さる。

 呼吸が乱れる。胸が苦しい。頭痛がする。手足がしびれる。

 吐き気が、また襲ってくる。

 優子は床に這いつくばったまま、動けなかった。

 もっと頑張らなきゃ。

 みんな頑張ってるのに。

 できないのは、私だけ。

 その言葉が、頭の中で繰り返される。

 涙が、頬を伝った。

 優子は布団に潜り込んだ。体が震えている。

 明日は、ちゃんと行かなきゃ。

 また休んだら、迷惑がかかる。

 だから、行かなきゃ。

 でも、体が動かない。

 優子は目を閉じた。

 もう、限界だった。

 でも、優子はそれを認めなかった。認めたら、休むことになる。休んだら、また迷惑がかかる。

 だから、認めない。

 優子の体は、もう明日を迎えられる状態ではなかった。

 でも、優子の心は、それでも明日へ向かおうとしていた。

 窓から差し込む光が、優子を照らしている。

 その光は、優子の限界を照らしていた。

 優子は、その光の中で小さく震えていた。

 明日が来るのが、怖かった。

 でも、行かなければならない。

 その矛盾が、優子を壊し続けていた。

ある公立学校の教師の月平均の残業時間は記録があるだけで62時間でした。

加えて部活の顧問、風呂敷残業(持ち帰り残業)を入れれば軽く80時間は超えます。

そして、残業代は定額で月に給与の4%が上乗せされますが、やっただけもらえるという仕組みではありません。(2025年現在)

これを現場では自嘲気味に「定額働かせ放題」と言う人もいます。

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