第3章 初めて休んだ日
朝、目を開けた瞬間、天井が回った。
優子は布団の中で固まった。何が起きているのかわからない。ただ、視界が斜めに傾き、ゆっくりと回転している。
頭を動かすまいと思ったが、もう遅かった。左を向いただけで、世界が大きく揺れた。吐き気が込み上げてくる。
優子は目を閉じた。でも、閉じても回転は止まらない。体の内側で、何かが狂ったように回り続けている。
冷や汗が額を濡らした。手足がしびれる。呼吸が浅い。
これは、めまいだ。頭位性めまい。ストレスで起きることがあると、以前医師に言われたことがある。
優子は布団から出ようとした。でも、体を起こした瞬間、激しい回転が襲ってくる。足元が揺れ、立っていられない。
優子は壁に手をつき、何とか洗面所まで辿り着いた。鏡に映った自分の顔は、青白かった。
行けない。
その事実が、優子の胸に重くのしかかる。
今日、学校に行けない。
優子は震える手で、スマートフォンを掴んだ。学校に連絡しなければ。でも、指がうまく動かない。何度も画面をタップし損ねる。
涙が出た。
休んじゃ、だめなのに。
みんなに迷惑がかかる。代教が発生する。空き時間が消える。北村さんも、他の先生たちも、また忙しくなる。
でも、体が動かない。立つこともできない。
優子は床に座り込み、ようやく学校の電話番号を呼び出した。発信ボタンを押す。呼び出し音が、耳に響く。
「はい、職員室です」
三井主幹の声だった。優子は喉が詰まった。
「あの……佐藤です」
「佐藤先生、どうしました」
三井の声には、すでに忙しさが滲んでいる。背後で、複数の人の声が聞こえる。コピー機の音も聞こえる。
「体調が……悪くて……今日、お休みさせていただきたいんですが」
沈黙が落ちた。一瞬の、でも優子には長く感じられる沈黙。
「わかりました。お大事に」
三井の声は、事務的だった。それ以上何も聞かれない。
「すみません……」
優子はそう言って電話を切った。
画面が暗くなる。優子はスマートフォンを握りしめたまま、床に座り込んだ。
罪悪感が、胃を締め付ける。
こんな日に。こんなに忙しい日に。私が休んでしまった。
みんな、どうするんだろう。私の授業は、誰が代わりにやるんだろう。
優子は涙を拭った。でも、涙は止まらなかった。
職員室では、三井が電話を置いた瞬間、深いため息をついた。
「佐藤先生、今日休み」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
北村が顔を上げる。大谷主任も、手を止めた。
「また代教か」
誰かがそうつぶやいた。三井は頷き、ホワイトボードの前に立った。
「佐藤先生の時間割……一時間目から四時間目まで、全部埋めないと」
三井はペンを手に取り、空き時間の表を見た。でも、空いている枠がほとんどない。
「北村先生、三時間目入れる?」
北村は自分の予定を確認した。三時間目は空きのはずだった。唯一の、今日の空き時間。
「……はい」
北村はそう答えるしかなかった。断れば、誰かがさらに負担を背負うことになる。
「大谷先生、二時間目お願いできますか」
「会議前なんだけど……まあ、いいです」
大谷は書類の山を見つめながら答えた。会議資料の準備は、また放課後に回すしかない。
三井は次々と代教の割り振りをしていく。誰もが、疲れた顔で頷いていく。
黒田教頭が職員室に入ってきた。
「佐藤先生、休みか」
「はい。代教は何とか回します」
「……仕方ないな」
黒田はそう言ったが、その声には疲労が滲んでいた。
職員室全体が、ピリついた空気に包まれる。
誰も佐藤優子を責めているわけではない。でも、一人が休むことで、全員の予定が狂う。それが現実だった。
北村は自分の机に戻り、急いで代教の準備を始めた。三時間目、何を教えるんだろう。佐藤先生の授業計画を見なければ。
でも、時間がない。一時間目はすぐに始まる。
北村は深呼吸をした。今日も、走るしかない。
優子は、その日一日、布団の中で過ごした。
めまいは少しずつ治まってきたが、起き上がると再び回転する。吐き気も続いている。
母が心配そうに部屋を覗きに来た。
「優子、お昼ご飯作ったけど、食べられる?」
「ごめん、今は無理」
母は優子の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど……病院行く?」
「大丈夫。めまいだから、横になってれば治る」
優子はそう言ったが、心の中では別のことを考えていた。
学校は、今どうなっているんだろう。
私の授業は、誰がやってくれたんだろう。
みんな、怒ってるかな。迷惑だと思ってるかな。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
優子はスマートフォンを手に取った。北村さんにメッセージを送ろうか。謝らなければ。
でも、指が動かない。何を書けばいいのかわからない。
「すみません」では足りない気がする。でも、他に何と言えばいいのか。
優子は結局、何も送れなかった。
翌日の朝、優子は無理をして学校へ向かった。
めまいは完全には治っていない。立ち上がると、まだ少し世界が傾く。でも、これ以上休むわけにはいかなかった。
電車の中で、優子は何度も深呼吸をした。大丈夫。今日は頑張ろう。
職員室に入ると、北村が駆け寄ってきた。
「佐藤先生、大丈夫? 無理しないでね」
「ご迷惑を……おかけして……」
優子の声は震えていた。北村は優しく笑う。
「気にしないで。体調が一番大事だから」
でも、その言葉の裏に、疲労が滲んでいることに優子は気づいた。北村の目の下には、濃いクマがある。
優子が自分の机に向かおうとしたとき、五十代の女性教員、長谷川典子が近づいてきた。
「佐藤先生」
その声は、冷たかった。優子は振り返る。
「昨日あなたが休んだせいで、私たちの空き時間が全部飛んだの」
長谷川の言葉に、優子は凍りついた。
「みんな、放課後に仕事を回すはめになった。わかってる?」
「すみません……」
「全員に、すみませんでしたって頭下げてきたほうがいいよ」
長谷川はそう言って、去っていった。
優子は立ち尽くした。
私が……そんなに迷惑を……?
頭が働かない。耳鳴りがする。めまいが再び襲ってくる。
謝らないと。でも、どう謝ればいいのか。
優子は職員室を見回した。誰もがそれぞれの仕事に追われている。誰も優子を見ていない。
でも、優子には感じられた。みんなが私を責めている。そんな気がした。
「佐藤先生」
再雇用教員の早川が、優子の隣に立っていた。
「体調が悪いくらいで休むなんて、教師としてどうなの?」
早川の声は、穏やかだった。でも、その言葉は刃のように優子の胸に刺さる。
「昔はね、どんなに吐きながらでも学校に来てたわよ。子どもの前に立つっていう誇りがあったの」
優子は小さく頷いた。言葉が出ない。
私は……教師失格……?
その問いが、優子の心を支配する。
「典子先生、そんな言い方しなくても」
北村が割って入った。早川と長谷川を見て、少し眉をひそめる。
「優子先生、無理しなくていいからね」
北村は優しく言った。でも、その声には力がない。
「ご迷惑を……かけて……」
優子はそう言うのが精一杯だった。
「いや、優子先生の体調は大事だから。でも……現場がね……その……」
北村は言葉を濁した。
優子にはわかった。北村も、優しくしたいけれど、現場の限界を知っている。一人が休めば、全員が困る。それが現実なのだと。
一時間目の授業は、地獄だった。
子どもたちは普通に接してくれる。でも、優子の体調は最悪だった。
めまいが続いている。黒板に書いた文字が、二重に見える。子どもたちの声が、遠くから聞こえる。
「先生、これわかんない」
質問に答えようとするが、言葉がうまく出てこない。頭の中で、何を言えばいいのか整理できない。
教室の後ろで、誰かが笑った。別の誰かが、ひそひそ話をしている。
音が、優子の頭に突き刺さる。
優子は黒板に手をついた。立っているのがやっとだった。
授業を終え、職員室に戻ると、優子は机に突っ伏した。
頭が痛い。めまいがひどい。吐き気がする。
でも、休めない。もう休めない。
放課後、優子は仕事をしようとした。でも、プリントの数字が読めない。何度見ても、意味が頭に入ってこない。
子どもの名前を書こうとして、一瞬、名前が出てこなかった。
優子は愕然とした。
昨日まで覚えていた名前が、出てこない。
仕事の段取りも組めない。何から手をつけていいのかわからない。
優子の脳内で、思考がループし始める。
昨日休んだせいで……
私は迷惑をかける人間で……
わかってたのに……
もっと早く準備していれば……
悪いのは……全部……私……
このループが、止まらない。
優子は頭を抱えた。
光が滲んで見える。職員室の蛍光灯が、まぶしすぎる。
脈が速い。呼吸が浅い。
優子は立ち上がり、トイレへ向かった。個室に入り、便座に座り込む。
涙が止まらなかった。
どうして、私はこんなに弱いんだろう。
どうして、みんなみたいにできないんだろう。
優子は顔を覆った。誰にも見られたくなかった。
トイレから出て、鏡を見る。目が赤い。顔が青白い。
優子は水で顔を洗い、職員室に戻った。
北村が、心配そうに声をかけてきた。
「佐藤先生、本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
「大丈夫です」
優子はそう答えた。でも、声が震えている。
北村は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。自分も忙しい。優子を助ける余裕がない。
優子はそれを理解していた。誰も悪くない。みんな、ギリギリで働いている。
その日の帰り道、電車の中で優子は考え続けた。
もう、休めない。
休んだら、また迷惑がかかる。
だから、どんなに体調が悪くても、行かなければ。
家に着き、自分の部屋に入った。優子は布団に沈み込んだ。
もう、休まない。
休んだら、みんなに迷惑がかかるから。
その言葉を、優子は心の中で何度も繰り返した。
これは、決意だった。でも同時に、呪いでもあった。
優子は天井を見上げた。部屋の明かりが、目に刺さる。光が滲んで見える。
大丈夫。私は、まだ大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。でも、もう優子自身も、その言葉を信じていなかった。
窓の外から、街の光が差し込んでくる。その光は優しくない。ただ、まぶしいだけ。
優子は目を閉じた。
明日も行かなければ。明日も頑張らなければ。
その思いだけが、優子を支配していた。
休むことへの恐怖。迷惑をかけることへの恐怖。
優子は、自分で自分を縛り続けていた。
そして、その縛りは日に日に強くなっていく。
優子の体は限界を迎えつつあった。でも、優子の心はそれを認めなかった。
認めたら、また休むことになる。また、みんなに迷惑がかかる。
だから、認めない。
優子は布団の中で、小さく震えていた。
光が、窓から差し込んでいる。
その光は、優子の限界を照らしていた。
でも、優子はそれに気づかないふりをした。
気づいてしまったら、もう立ち上がれなくなる気がしたから。
誰も悪くないんです。
現場ではみんな120%の仕事を抱えているから、1人が休めばしわ寄せで他の人が150%動かないといけなくなる。
周りの人は悪くない。
優子も悪くない。
誰も悪くないんです。




