第2章 空き時間が消えていく
出勤二日目の朝、優子が職員室の扉を開けた瞬間、すでに戦場だった。
黒田教頭が書類の束を両手に抱え、小走りで廊下へ消えていく。主幹の三井は机の前で電話を三本同時に受けているようだった。受話器を耳に挟み、もう一台の電話機のボタンを押し、さらに別の携帯電話を見つめている。
職員室の壁には、大きなホワイトボードが掛けられていた。そこには「空き時間割当表」と書かれ、教員の名前と時間がマス目で区切られている。優子は何気なくそれを見て、息を呑んだ。
ほとんど穴がない。
空き時間のはずのマスが、赤ペンで次々と消されている。代わりに「代教」「会議」「対応」といった文字が書き込まれ、空白はほぼ残っていなかった。
「佐藤先生、おはよう」
北村が疲れた顔で声をかけてきた。目の下に薄くクマがある。
「おはようございます」
「今日さ、私二時間空き飛んだんだよね。放課後、三十人分の小テスト採点しなきゃ」
北村はそう言いながら、苦笑した。優子は戸惑った。
「空き時間……飛ぶんですか」
「うん、代教とか会議とか入るとね。まあ、よくあることだから」
よくあること。
優子の胸に、小さな不安が落ちた。空き時間は、授業の準備をする時間だと思っていた。でも、その時間も奪われるのだとしたら、いつ準備をすればいいのだろう。
優子は授業の準備に四十分かかる。段取りを整え、教材を確認し、想定される質問をノートに書き出す。それができなければ、教室で頭が真っ白になってしまう。
「佐藤先生は、今日空きある?」
北村が聞いてきた。優子は自分の時間割を確認する。
「三時間目に……」
「よかったね。私なんて今日ゼロだよ」
北村は笑ったが、その笑顔には疲労が滲んでいた。
優子は自分の机に向かい、荷物を置いた。隣の席では、別の先生がパソコンに向かい、何かを猛スピードで打ち込んでいる。その向こうでは、再雇用の早川が電話をしながらメモを取っている。
誰も座って休んでいる人がいない。
朝の八時前だというのに、職員室はすでに全速力で動いていた。
優子は深呼吸をした。今日も頑張ろう。慣れれば大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、一時間目の準備を始めた。
けれど、職員室の音が優子の集中を削いでいく。コピー機の轟音、電話の呼び出し音、複数の会話が重なり合う音。すべてが優子の耳に刺さり、頭の中で渦を巻く。
優子は目を閉じた。聞こえすぎる。でも、慣れなければ。ここで働くなら、慣れなければ。
そう思いながら、優子はノートを開いた。手が、わずかに震えていた。
一時間目の授業は、思った以上に疲れた。
子どもたちの声は、昨日よりもさらに大きく聞こえた。いや、実際には同じ音量なのかもしれない。でも、優子の耳には、一つ一つの声が破裂音のように響く。
「先生、これわかんない」
「先生、トイレ行っていい?」
「先生、鉛筆忘れた」
質問が次々と飛んでくる。優子は一つ一つに答えようとするが、同時に三人から話しかけられると、頭の中で言葉がうまく整理できなくなる。
後ろの席で、誰かが椅子を倒した。ガタンという音に、優子の身体がビクッと跳ねる。
「ごめんなさい」
子どもが謝るが、優子の心臓はまだ早鐘を打っている。
授業を終え、教室を出るとき、ある女子が優子を見上げて言った。
「先生、今日なんか元気ない?」
優子は慌てて笑顔を作った。
「そんなことないわよ。大丈夫」
でも、子どもは敏感だ。優子の疲れを感じ取っている。
優子は職員室に戻り、自分の机に向かった。三時間目は空き時間だ。ようやく、落ち着いて準備ができる。
そう思った瞬間、三井が駆け寄ってきた。
「佐藤先生、急で申し訳ないんだけど」
優子の心臓が跳ねた。
「三年二組の先生が急に抜けたので、代教お願いできますか」
優子の頭が真っ白になった。
代教。急に。準備していない。三年生のクラス。授業内容もわからない。
「あ……はい」
優子はそう答えるしかなかった。断る、という選択肢が頭に浮かばない。迷惑をかけてはいけない。そう思うと、体が勝手に動く。
三井は安堵の表情を浮かべた。
「ありがとう。教室は三階の一番奥です。授業内容は、黒板に書いてあるはずだから」
それだけ言って、三井は走り去った。
優子は呆然と立ち尽くした。
授業内容は黒板に書いてある。それを見て、すぐに授業ができるということだろうか。でも、優子には無理だ。事前に内容を把握し、流れを確認し、想定される質問をノートに書き出さなければ、教室で何も話せなくなる。
けれど、もう時間がない。
優子は急いで三階へ向かった。階段を上る間、呼吸が浅くなっていく。胸が苦しい。
教室に入ると、子どもたちがざわついていた。担任がいないことを察して、落ち着きを失っている。
黒板には、確かに授業内容が書かれていた。算数、分数の計算。
でも、それだけだ。どう教えるのか。どんな順番で説明するのか。どこでつまずきやすいのか。そういった情報が何もない。
優子は黒板の前に立った。子どもたちが一斉に優子を見る。
「えっと……今日は、分数の計算をやります」
声が震えている。子どもたちは不思議そうに優子を見つめている。
「教科書の……何ページを開いてください」
ページ番号がわからない。優子は慌てて黒板を見直すが、書かれていない。
「先生、何ページ?」
子どもが聞いてくる。優子の頭が混乱する。
「ちょっと待ってね」
優子は教卓の上にあった教科書を開いた。分数の計算のページを探す。手が震えて、うまくページがめくれない。
子どもたちのざわめきが大きくなる。誰かが笑った。別の誰かが「先生、大丈夫?」と聞いてくる。
優子の耳に、すべての音が殺到する。椅子のきしむ音、鉛筆が転がる音、ひそひそ話の声。
息ができない。
優子は深呼吸をしようとしたが、うまく空気が入ってこない。胸が重い。
どうにか授業を終えたとき、優子は廊下でその場に座り込みそうになった。
足が震えている。手も震えている。全身から力が抜けていく。
職員室に戻ると、北村が心配そうに声をかけてきた。
「佐藤先生、大丈夫? 顔色悪いよ」
「だ、大丈夫です」
優子はそう答えたが、声が出ない。
北村は優子の肩に手を置いた。
「無理しないでね。代教って急だから、大変だよね」
優子は頷いた。頷くことしかできなかった。
昼休みになっても、休憩はなかった。
給食は子どもたちと一緒に食べる。優子は教室で、子どもたちの配膳を手伝いながら、自分の分も受け取った。
でも、配膳の手順が覚えきれない。どの順番で配るのか、誰がおかわりを欲しがっているのか、アレルギーのある子は誰なのか。情報が多すぎて、頭の中で整理できない。
「先生、ご飯少なめで」
「先生、牛乳二本ちょうだい」
「先生、これ嫌い」
次々と要望が飛んでくる。優子は一つ一つに対応しようとするが、混乱する。
ようやく配膳が終わり、自分の席に座ったとき、すでに十分が経っていた。
優子は急いで食べ始めたが、咀嚼の音が耳に響く。隣の子どもが椅子を引く音が、頭に刺さる。窓の隙間から入ってくる風の音まで、すべてが大きすぎる。
食事を半分も食べないうちに、北村が教室に入ってきた。
「佐藤先生、午後、子どもたちが廊下で揉めてるから巡回お願いね」
優子は箸を置いた。
「わかりました」
休憩が、休憩じゃない。
優子はそう思いながら、教室を出た。
放課後、職員室に戻ると、すでに夕方の光が差し込んでいた。
でも、誰も帰っていない。
北村は机の上に小テストの束を広げ、赤ペンを走らせている。目が虚ろだ。
大谷主任は、書類の山に埋もれている。電話をしながら、何かをメモしている。
三井は、別の部屋で保護者と面談をしているようだった。声が廊下まで聞こえてくる。
早川は、プリントを整理しながら、誰かに武勇伝を語っている。
「昔はもっと大変だったのよ。夜中まで残るのなんて当たり前だったわ」
誰も、余裕がない。
優子は自分の机に向かった。やらなければいけないことが、山積みになっている。
明日の授業準備。学級日誌へのコメント。連絡帳のチェック。明日の教材のコピー。今日起きた子どもたちのトラブルのメモ整理。
優子は一つ一つ、丁寧にやろうとした。でも、頭が働かない。文字がぼやける。何度も同じ行を読み返してしまう。
時計を見ると、午後八時を過ぎていた。
優子は慌てて荷物をまとめた。帰らなければ。電車に乗らなければ。
職員室を出るとき、北村がまだ残っていた。プリントの山は、半分も減っていない。
「お疲れ様です」
優子が声をかけると、北村は疲れ切った顔で笑った。
「お疲れ様。佐藤先生も大変だったね」
「みんな……これを毎日やってるんですか」
優子の声は、驚きに満ちていた。北村は苦笑する。
「うん。まあ、教員ってそういうものだから」
優子は言葉を失った。
これを、毎日。この量を、毎日。
電車の中で、優子は目を閉じた。
めまいがする。光が滲んで見える。電車の揺れが、気持ち悪い。
吐き気が込み上げてきた。優子は口を押さえた。何とか堪えなければ。
家に着いたのは、午後十時を過ぎていた。
母が心配そうに出迎えたが、優子は「大丈夫」とだけ言って、自分の部屋に上がった。
シャワーを浴びようとして、脱衣所でふらついた。壁に手をついて、何とか支える。
体が重い。頭が痛い。耳鳴りがする。
優子はシャワーを諦め、ベッドに倒れ込んだ。
明日の準備をしなければ。でも、体が動かない。
優子は机に向かおうとしたが、立ち上がれなかった。そのままベッドに座り込み、ノートだけを手元に引き寄せた。
明日の予定を確認する。でも、文字が頭に入ってこない。
優子は目を閉じた。
私、明日……行けるのかな。
その不安が、心の奥からせり上がってくる。
でも、休んだら。
優子の胸が締め付けられた。
休んだら、また誰かの空き時間が消える。代教が発生する。みんなに迷惑がかかる。
私は……迷惑を、かけてしまう。
優子は布団に潜り込んだ。部屋の電気を消すと、窓から街の光が差し込んでくる。
その光が、滲んで見える。まぶしい。痛い。
優子は目を閉じた。
寝なければ。明日も早い。明日も行かなければ。
そう思った瞬間、突然、世界が回り始めた。
天井が、ぐるりと回転する。
優子は目を見開いた。でも、視界が定まらない。部屋全体が、ゆっくりと回っている。
めまい。
優子は横になったまま、身動きが取れなくなった。体を起こそうとすると、さらに激しく回転する。
吐き気が込み上げてくる。冷や汗が額を濡らす。
優子は必死に呼吸をした。落ち着かなければ。これは、疲れているだけ。明日になれば、治る。
でも、体は優子に訴えている。
限界だ、と。
優子は震える手で、枕元のスマートフォンを掴んだ。明日、学校に連絡しなければ。休まなければ。
でも、その瞬間、胸を締め付ける罪悪感が襲ってくる。
休めない。
私が休んだら、みんなに迷惑がかかる。
空き時間が消える。代教が発生する。北村さんが、また放課後まで仕事を抱えることになる。
優子は、スマートフォンを握りしめたまま、目を閉じた。
涙が、頬を伝った。
光が、窓から差し込んでいる。街の光が、優子の部屋を照らしている。
その光は、優しくない。まぶしすぎる。痛い。
その光は、優子の限界を照らしていた。




