第1章 春、教室の光がまぶしすぎた
◆登場人物紹介◆
佐藤 優子/34歳・特別採用枠教員(ASD診断)
真面目で責任感が強く、他者に迷惑をかけることを極端に恐れる女性。
大人数・騒音・急な予定変更が苦手という特性を持ちながらも「努力で何とかなる」と信じ続け、過酷な教職現場で限界まで働いてしまう。倒れた後、初めて“自分を責めなくていい世界”を知っていく。
北村 美沙/27歳・若手教員
明るく優子を気にかけるが、自身もタスク過多で余裕を失いがち。“助けたいのに助けきれない現場”の象徴。倒れた優子をきっかけに、働き方の異常さに気づいていく。
三井 主幹/40代後半
現場の火消し役。誠実だが常に業務に追われ、配慮をしたくてもできない状態。構造的疲弊の典型であり、優子の倒れた日、深い後悔を抱く。
黒田 教頭/50代
多忙と責任の挟間で疲弊しきった管理職。優子に冷たくはないが、制度的に支援を届けられない立場にある。
早川/再雇用の62歳教員
旧来の「休まず働くのが当然」文化を体現する人物。価値観の衝突によって、教職現場の世代間ギャップを浮かび上がらせる。
木島 医師/総合病院内科医
優子の状態を医学的に理解し、過労とストレスによる身体の限界を説明する。優子が“自分のせいではない”と気づくきっかけを与える。
早瀬 心理士
優子の心をゆっくりほどき、価値観の反転へ導く人物。
「あなたが壊れたんじゃない。環境が壊れていたのです」と伝える存在。
電車の窓から差し込む四月の朝の光が、佐藤優子の頬を照らしていた。優子は膝の上に置いたノートを見つめ、今日という日のために書き込んだ予定を、何度目かの確認をしていた。
「八時十五分、職員室着。挨拶。机の場所確認」
「八時三十分、教室へ。黒板確認、教材配置」
「九時、朝の会。出席確認、連絡事項」
ノートには、一日の流れが分刻みで書かれている。手帳ではなく、ノート。優子にとって、手帳の小さな枠では足りなかった。予定だけでなく、その時々で想定される出来事や、対応の手順、注意点まで、すべて書き出しておかなければ、頭の中が整理できない。
これは優子の特性だった。自閉スペクトラム症、ASD。診断を受けたのは二十代後半のことだったが、それ以前から優子は自分が「少し違う」ことを感じていた。人が簡単にできることが、自分にはできない。逆に、人が面倒だと思うことを、自分は几帳面にやり遂げられる。
今日から、公立小学校の教員として働く。障害者雇用枠での採用だった。面接では、自分の特性について正直に話した。予定の変更が苦手なこと、マルチタスクが難しいこと、聴覚が過敏であること。それでも、子どもたちに教えることは好きだし、準備さえしっかりできれば、丁寧に仕事ができる自信があった。
「配慮していただける環境であれば、必ず力になれます」
そう伝えたとき、面接官は優しく頷いてくれた。だから、優子は希望を持っていた。新しい職場で、自分にできることを精一杯やろう。そして、迷惑をかけないように。
迷惑をかけないように。
その言葉が、優子の胸の奥で小さく震えた。
電車が揺れ、優子は手すりを握りしめた。片道一時間半。この通勤時間は決して短くないが、優子は「大丈夫」と自分に言い聞かせていた。早く起きればいい。朝の準備を前日に終わらせておけばいい。そうすれば、間に合う。
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。春の光は優しく、優子の肩を温めた。この光の中で、新しい日々が始まる。そう思うと、胸が高鳴った。
けれど同時に、小さな不安も胸の奥にあった。
本当に、大丈夫だろうか。
優子はノートを閉じ、深く息を吸った。大丈夫。きっと大丈夫。
そう思いながら、優子は電車を降り、学校へと歩き出した。
*
職員室の扉を開けた瞬間、音の洪水が優子を襲った。
コピー機の轟音が、右側から響く。カタカタカタカタ、という連続音が、優子の耳に突き刺さる。左側では、誰かが電話で話している。声が大きい。いや、普通の音量なのかもしれない。でも、優子には大きすぎる。
「今日の三時間目、どうします?」
「プリント足りないんですけど!」
「保護者から連絡入ってます!」
複数の会話が、同時に飛び交っている。誰がどの話をしているのか、優子にはすぐには判別できない。音が重なり合い、頭の中で渦を巻く。
職員室は想像以上に雑然としていた。机の上には書類が山積みで、壁には過去の生徒の作品や行事の写真が貼られている。窓際には段ボール箱が積まれ、その上にさらにファイルが乗っている。
優子は入口で立ち止まり、深呼吸をした。大丈夫。慣れれば大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
「あ、佐藤先生!」
明るい声が飛んできた。優子は思わずビクッと身体を跳ねさせた。声が、予想外の方向から、予想外の大きさで来たからだ。
「おはようございます! 北村です。同じ学年を担当します! よろしくお願いします!」
北村美沙は、優子よりも若く見える女性だった。笑顔が明るく、優子に向かって手を振っている。優子は慌てて笑顔を作った。
「お、おはようございます。佐藤優子です。よろしくお願いします」
「緊張してます? 大丈夫ですよ! みんないい人ばかりだから!」
北村の声は元気で、優しい。けれど、優子には少し大きすぎた。耳の奥がキーンと鳴る。でも、それを言うわけにはいかない。
「ありがとうございます」
優子はそう答えながら、北村の言葉を頭の中で整理しようとした。「同じ学年」「みんないい人」。メモを取りたかったが、今この場でノートを開くのは変だろうか。いや、でも忘れてしまったら困る。
そう迷っているうちに、北村は別の先生に話しかけ始めた。優子は取り残されたような気持ちになり、立ち尽くした。
「佐藤先生!」
今度は男性の声だった。優子は振り返る。
「教頭の黒田です。よろしく。……あ、すみません、急いでまして」
黒田教頭は目の下にクマがあり、疲れた様子だった。机の上には分厚い書類が積まれており、カレンダーには赤い文字でびっしりと予定が書き込まれている。「会議」「研修」「来校対応」。
教頭は優子に一瞬だけ目を合わせたが、すぐに走り去った。本当に、走るように去っていった。
優子は戸惑った。挨拶は……これで終わり? もっと何か聞きたいことがあったような気がするけれど、何を聞けばいいのかわからない。
「佐藤先生、こちらへどうぞ」
今度は女性の声だった。優子が振り向くと、五十代くらいの女性が立っていた。
「主幹教諭の三井です。あなたの席はこちらです」
三井は表面上は穏やかな口調だったが、目が笑っていないように優子には見えた。いや、これは優子の思い込みかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、優子は三井の後についていった。
机は窓際にあった。隣には北村の机があり、反対側には別の先生の机がある。机の上には、すでにいくつかの書類が置かれていた。
「障害者雇用、ということは聞いています」
三井は静かに言った。優子は頷く。
「はい」
「でも、基本的には皆と同じ勤務です。わからないことは聞いてください。……ただ、忙しいので手が回らない時も、多いですが」
三井の言葉に、優子は胸が詰まった。「基本的には皆と同じ勤務」。それは、配慮はあまり期待できないということだろうか。でも、面接では「配慮します」と言われたはずだ。
「わかりました。よろしくお願いします」
優子はそう答えるしかなかった。三井はすぐに別の場所へ行ってしまい、優子は一人、机の前に立ち尽くした。
職員室の音が、再び優子を包み込む。タイピング音、電話の呼び出し音、話し声。すべてが重なり合い、優子の頭の中で響く。
聞こえすぎる。
でも、大丈夫。慣れれば、きっと慣れれば。
優子は椅子に座り、置かれていた書類を手に取った。手が、少しだけ震えていた。
*
午前中は、授業の準備に追われた。
優子は自分の教室へ向かい、黒板やロッカーの配置を確認した。教材を並べ、子どもたちの座席表をノートに書き写し、一人一人の名前を声に出して読んでみた。発音を間違えないように。呼び方を間違えないように。
準備は丁寧にやりたい。段取りが狂うと、優子は頭が真っ白になってしまう。だから、すべてを事前に整えておく必要があった。
他の先生たちは、授業の合間にさっと準備をしているようだった。十分程度で教室に向かい、何も持たずに授業を始める。優子にはそれができない。四十分はかかる。いや、もっとかかるかもしれない。
「優子先生!」
北村が教室に入ってきた。優子は顔を上げる。
「今日の三時間目、予定ちょっと変わるんで」
優子の心臓が跳ねた。
「え? ……えっと、どう変わるんですか?」
「あ、ごめん、詳しくは主任に聞いて! 私も急いでて!」
北村はそう言って、走って出て行ってしまった。
優子は呆然とした。
予定が変わる? どう変わる? 何時間目が? 内容が? それとも場所が?
質問したいことが頭の中に溢れたが、北村はもういない。主任に聞けと言われたが、主任は誰だろう。どこにいるだろう。そもそも、今聞きに行っていいのだろうか。
優子は教室の隅で立ち尽くし、胸が苦しくなった。
急な変更は、優子にとって最大のストレス要因だった。予定を立て、それに沿って動くことで、優子は安心できる。けれど、予定が崩れると、何をどうすればいいのかわからなくなる。
でも、これくらいのこと、みんなは平気なんだろう。だから、優子も平気なふりをしなければ。迷惑をかけてはいけない。
優子は深呼吸をして、職員室へ戻った。主任を探さなければ。でも、主任が誰なのか、まだわかっていない。
*
昼休み、優子は職員室で一人、机に向かっていた。
他の先生たちは忙しそうに動き回っている。北村は生徒会の対応で走り回り、別の先生は保護者からの電話に対応している。誰も座っていない。昼休みなのに、休憩している人がいない。
優子は持ってきたおにぎりを食べながら、午後の授業の確認をしていた。さっき主任の大谷先生に聞いて、三時間目の変更内容はわかった。けれど、それに合わせて準備を変える必要がある。
「最近の若い先生は体が弱いわねぇ」
突然、声がした。優子は顔を上げる。
六十代くらいの女性が、隣の机に座っていた。再雇用教員の早川澄江だと、朝の紹介で聞いた。
「私なんて、車の中で吐きながらも出勤してたわよ」
早川は笑いながら言った。優子は、どう反応していいかわからなかった。
「そ、そうなんですか」
「教師は体が資本なの。どんなに辛くても、子どもの前に立つのが仕事。昔はみんなそうだったわ」
優子は曖昧に笑った。心の中では、早川の言葉が重く沈んでいく。
体調が悪くても来なければいけない。休んではいけない。それが教師の誇り。
優子は、そういう文化があることを知っていた。でも、実際に言葉にされると、胸が締め付けられる。
もし、自分が体調を崩したら。休んだら。それは「弱い」ということになるのだろうか。迷惑をかけることになるのだろうか。
「頑張ってね」
早川はそう言って立ち去った。優子は一人、机の前に残された。
おにぎりが、喉を通らなくなっていた。
*
初日の授業は、なんとか終わった。
子どもたちは優子に笑顔で接してくれた。それは嬉しかった。でも、教室の音は想像以上に大きかった。
椅子を引く音。鉛筆が転がる音。誰かが笑う声。窓の外から聞こえる体育の笛の音。
すべてが、優子の耳に突き刺さる。
授業中、後ろの席で誰かが椅子を倒した。ガシャンという音に、優子は思わず身体を跳ねさせた。子どもたちは気にせず笑っているが、優子の心臓は早鐘のように打っていた。
「先生、大丈夫?」
ある子が心配そうに聞いてきた。優子は笑顔を作る。
「大丈夫よ。ありがとう」
大丈夫じゃない。でも、そう言うしかない。
放課後、優子は教室で一人、明日の準備をしていた。他の先生たちはまだ職員室で仕事をしているようだった。窓の外はすでに暗くなり始めている。
時計を見ると、午後六時を過ぎていた。
優子は慌てて荷物をまとめた。帰らなければ。片道一時間半かかる。家に着くのは八時近く。
職員室を通ると、まだ多くの先生が残っていた。パソコンに向かう人、書類を整理する人、電話をしている人。
北村も残っていた。疲れた様子で、プリントの束を見つめている。
「お疲れ様です」
優子が声をかけると、北村は顔を上げて笑った。
「お疲れ様! 佐藤先生、もう帰るんですか?」
「はい……遠いので」
「そっか。気をつけてくださいね」
北村はそう言って、再びプリントに目を落とした。
優子は職員室を出た。廊下は静かで、自分の足音だけが響く。
*
電車の中で、優子は目を閉じた。
耳鳴りがする。頭がズキズキと痛む。身体が重い。
今日は初日だから。慣れていないから。だから疲れるのは当たり前。
優子は自分にそう言い聞かせた。
明日からは、もっとスムーズにできる。段取りもわかってくる。大丈夫。
でも、身体は正直だった。電車の揺れが、気持ち悪い。窓の外の光が、まぶしすぎる。
優子は目を開けた。車窓には、夜の街の灯りが流れている。ネオンサイン、街灯、車のライト。
光が、滲んで見える。
優子は目を細めた。こんなに光が強かっただろうか。それとも、自分の目が疲れているだけだろうか。
家に着いたのは、午後八時を回っていた。
優子は玄関で靴を脱ぎ、リビングに入った。母が夕食の準備をしていたが、優子は「先に部屋に行く」と言って、二階へ上がった。
自分の部屋に入り、机に向かった。明日の準備をしなければ。ノートを開き、予定を確認する。
でも、文字がぼやける。
優子は目をこすった。疲れているだけ。そう思いながら、ペンを持つ。
けれど、手が震えている。
優子は深呼吸をした。大丈夫。明日も頑張ろう。慣れれば、きっと大丈夫。
そう思いながら、机の上の電気スタンドをつけた。
光が、目に刺さるように感じた。
優子は目を細める。
「……こんなに、光って強かったっけ」
その言葉が、部屋の中で小さく響いた。
優子は電気スタンドを見つめた。いつもと同じ光。いつもと同じ明るさ。でも、今日は違って見える。まぶしすぎる。痛い。
優子は目を閉じた。
朝、電車の中で見た光は、優しかった。春の光は、温かくて、希望に満ちていた。
でも、今、この部屋の光は、優子を責めているように感じる。
まだ何も成し遂げていないのに。まだ初日なのに。もう疲れている自分が、情けない。
優子は机に突っ伏した。
身体が重い。頭が痛い。耳鳴りがする。
でも、明日も行かなければ。休むわけにはいかない。迷惑をかけるわけにはいかない。
優子は目を閉じたまま、小さくつぶやいた。
「大丈夫……慣れれば……きっと……」
その言葉は、もう自分でも信じられないほど、弱々しかった。
部屋の電気が、優子の背中を照らしている。
光は、まぶしすぎた。
そして、この光が優子を包み込むように、これから始まる日々も、優子を包み込んでいく。
優しさと残酷さが同居した光の中で、優子の春は、静かに始まったのだった。




